礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2011年7月17日
 
「良いリーダーの秘訣」
ネヘミヤ記連講(11)
 
竿代 照夫 牧師
 
ネヘミヤ記5章14-19節
 
 
[中心聖句]
 
  15   私の前任の総督たちは民の負担を重くし、民から、パンとぶどう酒のために取り立て、そのうえ、銀四十シェケルを取った。しかも、彼らに仕える若い者たちは民にいばりちらした。しかし、私は神を恐れて、そのようなことはしなかった。
(ネヘミヤ5章15節)


 
聖書テキスト
 
 
14 また、私がユダの地の総督として任命された時から、すなわち、アルタシャスタ王の第二十年から第三十二年までの十二年間、私も私の親類も、総督としての手当を受けなかった。15 私の前任の総督たちは民の負担を重くし、民から、パンとぶどう酒のために取り立て、そのうえ、銀四十シェケルを取った。しかも、彼らに仕える若い者たちは民にいばりちらした。しかし、私は神を恐れて、そのようなことはしなかった。16 また、私はこの城壁の工事に専念し、私たちは農地を買わなかった。私に仕える若い者たちはみな、工事に集まっていた。
17 ユダヤ人の代表者たち百五十人と、私たちの回りの国々から来る者が、私の食卓についていた。18 それで、一日に牛一頭、えり抜きの羊六頭が料理され、私のためには鶏が料理された。それに、十日ごとに、あらゆる種類のぶどう酒をたくさん用意した。それでも私は、この民に重い労役がかかっていたので、総督としての手当を要求しなかった。
19 私の神。どうか私がこの民のためにしたすべてのことを覚えて、私をいつくしんでください。
 
はじめに
 
 
エルサレムの城壁再建という歴史的大事業に取組んだエルサレム総督ネヘミヤがぶつかった問題は二つありました。一つは外敵との戦い(4章)で、もう一つは内部分裂(5章)でした。5章前半は、内部分裂の元となった社会的不公正の問題に対して、ネヘミヤが、知恵深く、しかも悪には一歩も引かないという固い決意をもって対処したことが記されています。ネヘミヤが社会改革を進めることができた基盤は、彼自身の清廉潔癖な生活態度でありました。これがないと、どんな改革も足をさらわれます。日本の政治家で、重要な職についたとたんに、色々な疑惑が明るみに出て失脚した人々がどんなに多いことでしょうか。今日は五章後半から「良いリーダーの秘訣」を学びたいと思います。
 
A.ネヘミヤがしなかったこと
 
1.総督手当て(パン)を受け取らなかった(14節)
 
 
「また、私がユダの地の総督として任命された時から、すなわち、アルタシャスタ王の第二十年から第三十二年までの十二年間、私も私の親類も、総督としての手当を受けなかった。」
 
ネヘミヤがユダ総督に任命されたのは445年BCでその終了は423年です。その12年間、彼は給料無しで、つまり手弁当で働いたと言うのです。もっとも、新改訳聖書で「手当て」と訳しているのは、直訳では「パン」です。15節で示唆されているように、現物支給的な食料を民に課さなかったというニュアンスです。それは英語訳にも現れています(Neither I nor my brothers ate the food allotted to the governor.)。ですから、通常の給料はそれとして頂き、それに加えて、民の負担となるような現物課税は行わなかった、という意味と私は解釈します。いずれにせよ、ネヘミヤは金銭面で清廉潔白でした。
 
2.重税を課さなかった(15節a)
 
 
「私の前任の総督たちは民の負担を重くし、民から、パンとぶどう酒のために取り立て、そのうえ、銀四十シェケルを取った。」
 
ペルシャ帝国では、帝国の収入となるような人頭税に加えて、地方組織を支える現物課税と現金課税が許されていました。その税率などは総督の自由裁量に任されていましたので、悪い総督は、かなり搾り取ったようです。しかし、ネヘミヤは「私は神を恐れて、そのようなことはしなかった。」のです。
 
3.威張らなかった(15節b)
 
 
「しかも、彼らに仕える若い者たちは民にいばりちらした。しかし、私は神を恐れて、そのようなことはしなかった。」
 
「威張りちらす」ということば(シャラト)は、「支配する、権威を嵩に人々を見下す振る舞いをする」という意味です。

どの世界でもそうですが、権力の座に着きますと、決まって人間は威張りだします。その地位が神から与えられたものという自覚があればそうしないのでしょうが、オレの才覚でこの立場を得たのだという意識が少しでもありますと、人間は威張りたくなるものです。その立場に相応しい尊敬を求め、地位を利用して儲けて見たくなります。

もっと悪いのは、その側近です。虎の威を借りる狐のように、自分は大した人物ではないくせに、偉い人の側近であると言う理由だけで、偉い人以上に威張ります。悲しいことです。ネヘミヤの前任者達はおしなべてそうだったというのです。私も、悲しいかな、ケニアの大統領の側近を沢山見てきましたが、殆どが大統領以上に威張っていました。

さてネヘミヤは、その前任者達に見習いませんでした。「神を恐れていた」からです。
 
4.蓄財しなかった(16節)
 
 
「また、私はこの城壁の工事に専念し、私たちは農地を買わなかった。私に仕える若い者たちはみな、工事に集まっていた。」
 
自分の地位を利用して農地を拡大するというのはどの世界にも見られる現象です。特に私のおりましたアフリカでは、農地の大きさが人間の大きさと比例するという信仰があり、大統領はじめ政府のお役人は競って広大な農場を経営しています。アフリカの大統領で蓄財をしなかった人はごくごく僅かです。

ネヘミヤの場合、それをしようと思えば簡単に出来ました。人々は、その日その日の食料に困っていましたから、土地を安く手放す傾向にありました。だから土地を買おうと思えば安く変えたはずです。いわば買い手市場でした。しかし、ネヘミヤはそこで欲を出して農場を買い占めようなどというさもしい考えを持ちませんでした。

というのは、この貧しい人々も、そしてネヘミヤ自身もエルサレム城壁再建という大目標のために心を合わせていたからです。ネヘミヤは、対立や誤解を巻き起こしかねない、土地の売買を控えました。
 
B.ネヘミヤがおこなったこと
 
1.食べ物を分かち合った(17−18節)
 
 
「ユダヤ人の代表者たち百五十人と、私たちの回りの国々から来る者が、私の食卓についていた。それで、一日に牛一頭、えり抜きの羊六頭が料理され、私のためには鶏が料理された。それに、十日ごとに、あらゆる種類のぶどう酒をたくさん用意した。」
 
ネヘミヤの食卓には、いつも居候がいました。「ユダヤ人の代表者たち」つまり、住民リーダー(今日で言えば区会議員)百五十人と、様々な政治的外交的商業的目的をもってエルサレムを通過する外国人のお客さんが満ちていました。それらの人々を温かくもてなすのも、ネヘミヤの喜びでした。

このメニューを見ただけでも、圧倒されますね。牛一頭、羊6頭、鳥(たぶん鶉のような鳥)が屠られ、皆がテーブルについている光景だけでも圧巻と思います。ネヘミヤは友達好き、パーティ好きの明るい人物だったのでしょう。
 
2.民と一緒に働いた(16節a)
 
 
16節の「私はこの城壁の工事に専念し」という言葉に私は心惹かれました。ネヘミヤは工事の最高指導者ですから、デスクワークに専念しておればそれで良かったのです。しかし、この言葉のニュアンスから、彼も手ずから石を運んだり、積んだりしたのではないかと想像されます。恐らく、周りの人々は、「総督様、あなた様は黙って見ていてくだされば良いのです。万一お怪我をなさったら大変です。」などと言って押し留めたことでしょう。でもネヘミヤは、朝から晩までとは言わないまでも、要所々々の助けは行ったのではないかと想像されます。ともかく、彼は、ペン以外の重いものは持たないというタイプの指導者ではなかったと思います。
 
3.奴隷を釈放した(8節)
 
 
8節に「私たちは、異邦人に売られた私たちの兄弟、ユダヤ人を、できるかぎり買い取った。・・・」とありますように、ネヘミヤは私財をはたいて、外国に奴隷として売られた同胞を買い戻しました。素晴らしいことです。>
 
4.貧しい人に配慮した(10節)
 
 
10節も読みましょう。「私も、私の親類の者も、私に仕える若い者たちも、彼らに金や穀物を貸してやったが、私たちはその負債を帳消しにしよう。」ネヘミヤは、貧しい人々に貸した金や穀物を帳消しにしました。ネヘミヤが如何に貧しい人々を顧みていたかを示すエピソードです。
 
C.神を恐れる信仰
 
 
このような素晴らしい指導者像の根底にあったのは、ネヘミヤが神を恐れる信仰を持っていたからです。神を恐れる恐れがどのように現れていたか、ネヘミヤの記事を中心に見てみたいと思います。
 
1.他人の目ではなく、神の目を意識する(15節c)
 
 
ネヘミヤは、他人の目や、前例を意識することなく、彼の心を見給う神の目を意識しつつ行動しました。地位に絡む利権を貪る指導者を沢山見聞きして、それに倣おうと言う誘惑もあったかもしれませんが、神への恐れがその誘惑を留めました。私たちも、常識を外れてはいけませんが、誰彼の目ではなく、神の目を意識しつつ行動したいものです。
 
2.自分より高いリーダーを恐れて謙る(コロサイ4:1)
 
 
「私は神を恐れて、そのようなことはしなかった。」という「そのようなこと」の中に、前任者達が威張っていたことが挙げられます。本当に恐れるべきお方を意識し、そのかたの前に謙る人は決して威張りません。いや、威張ることが出来ません。コロサイ4:1を見てみましょう。これは、奴隷に対する主人の心構えを命じているところですが、「主人たちよ。あなたがたは、自分たちの主も天におられることを知っているのですから、奴隷に対して正義と公平を示しなさい。」というのです。つまり、主人は本当の主人ではない、天に本当の主人のおられることを覚えて謙った気持ちで奴隷に接しなさいと命令しているのです。これは、社長が社員に、校長が他の教職員に、大臣が知事に接する時も同じことです。
 
3.他人を、神に造られた尊い存在として尊敬する(ヤコブ3:9−10)
 
 
神を恐れることは、神の造られた尊い魂を尊敬することにも当然現れるはずです。ヤコブ3:9−10を引用します。「私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。」私たちが他人を呪い、他人を馬鹿にする時、私たちはその人の造り主である神を呪い、神を馬鹿にすることになるのです。神を恐れましょう。
 
4.神の報いを信じる(19節)
 
 
「私の神。どうか私がこの民のためにしたすべてのことを覚えて、私をいつくしんでください。」
 
ネヘミヤの敬虔さの告白は、この祈りで締め括られます。この祈りは利己的な祈りでしょうか?いいえ。これこそは、へりくだった祈りです。神を畏れる畏れから出たいのり、正直、正当、公平、敬虔な祈りと見るべきでありましょう。私達も、私たちの行いを覚え、報い、顧み給う神を知っておりますからこそ、世の矛盾に耐える事が出来、廉直さを保つことが出来るのです。
 
終わりに:神を恐れるリーダーこそ、本当のリーダー
 
 
今世が求めているのは、ネヘミヤのような神を恐れるリーダーです。偉いリーダーにはなれないかもしれませんが、真実なリーダーにはなれます。大きなことは出来ないかもしれませんが、信頼性のあるリーダーにはなれます。主を恐れる心を持つときに、主が私たちをそれぞれのグループでの良きリーダーとして用いてくださいます。
 
お祈りを致します。