礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2011年7月31日
 
「工事は神によってなされた」
ネヘミヤ記連講(13)
 
竿代 照夫 牧師
 
ネヘミヤ記6章15-19節
 
 
[中心聖句]
 
  16   この工事が、私たちの神によってなされたことを知ったからである。
(ネヘミヤ6章16節)


 
聖書テキスト
 
 
15 こうして、城壁は五十二日かかって、エルルの月の二十五日に完成した。16 私たちの敵がみな、これを聞いたとき、私たちの回りの諸国民はみな恐れ、大いに面目を失った。この工事が、私たちの神によってなされたことを知ったからである。
17 また、そのころ、ユダのおもだった人々は、トビヤのところにひんぱんに手紙を送っており、トビヤも彼らに返事をしていた。18 それは、トビヤがアラフの子シェカヌヤの婿であり、また、トビヤの子ヨハナンもベレクヤの子メシュラムの娘を妻にめとっていたので、彼と誓いを立てていた者がユダの中に大ぜいいたからである。19 彼らはまた、私の前でトビヤの善行を語り、私の言うことを彼に伝えていた。トビヤは私をおどそうと、たびたび手紙を送って来た。
 
はじめに
 
 
前回は、エルサレムの城壁再建という歴史的大事業に取組んでいたネヘミヤに対する敵の執拗な攻撃について、さらに、それに信仰と知恵をもって対応したネヘミヤの態度について学びました。
 
A.工事はついに完成する(15−16節)
 
1.それは大工事だった: 3kmx2.4mx2.75m(絵図を参照)
 
 
先週お話しましたように、当時のエルサレムの外周は約3kmです。皇居の周りを走っている人々を多く見かけますが、一番近道で4.5kmです。それより少し小振りの距離で壁を全部修復するのですから、これは大工事です。

この工事は、基本的には修復工事です。基礎工事から始めたのは、東側の一部分で、他は破壊された部分については修理しながら更にかさ上げする、ひびが入ったところは補強する、というものでありました。今の時代のブロック塀を積み上げるような簡単なものではありません。ある注解書によると、高さ2.4メートル、厚さ2.75メートルと言うのです。エルサレム全体を要塞化したといえましょう。通常の手順で言えば、恐らく1、2年はかかる大工事であったことはいうまでもありません。
 
2.(ごく僅かの人を除いて)みんなが協力
 
 
工事を行ったのは、プロの職人ではありません。普通の金属職人、薬屋さん、商人、祭司など、建築のシロウトたちの工事です。それに女性たちも参加しました。大事なことは、エルサレムの住民、そして、郊外にいるユダヤ人総ががりで行ったと言うことです。勿論、「オレは嫌だ」といって参加しなかった人もいましたし、途中でサボった人もいました。しかし、大まかに言えば、みんなが力を合わせて働いたのです。これも、見事と言うほかはありません。それは、神の宮を中心にした町を作るという大きな目標で心が一つだったからです。
 
3.突貫工事で、二ヶ月以内(52日)に仕上げた(写真参照)
 
 
周りの人を驚かせたのは、その工事期間の短さです。ネヘミヤは52日だったと言います。そんな短期間で出来たとは信じられないと、疑問を抱く人もいます。ずっと後になってから歴史を書いたヨセフスは、この期間が2年4ヶ月だったと書いていますが、これは信頼できません。

このプロジェクトにおいては、「早く仕上げること」自体が目標だったのです。つまり、破れた血管を出来るだけ早く外科的に処置しないと、その人が死んでしまうように、エルサレムの城壁修復工事は早さが命だったのです。のんびりしている間に敵の妨害によって工事が中断されれば、工事は全く意味がなくなってしまうからです。早くすればするほど、敵に付け入る隙を与えない、という差し迫った必要があったのです。

ネヘミヤがペルシャ王の許可を頂いたのは、ニサンの月(太陽暦では3月)です。出発の仕度に暫くかかり、エルサレムに到着したのは7月半ばと思われます。そして工事に取り掛かったのは、7月後半、完成はエルルの月25日(9月半ば)です。気候は今ごろの暑さでした。その暑さの中での工事期間は52日でした。城壁のための材料の半分が、瓦礫の中から拾い集めたものであったとしても、驚くべきスピードです。

ネヘミヤ時代の工事跡が近年発掘されましたが、それによると城壁の再建は、かなり突貫工事的に行われたことがわかりました。つまり、工事の完璧さや美しさなどは求めず、ただ、石をしっかりと積み上げていく、その一点に集中したのです。日本の戦国時代の城作りが、アートというよりは実用的な要素が強かったように、ネヘミヤの城壁工事は実用そのものでした。
 
4.工事は「神によって」なされた(人の手に神の力が加えられた)
 
 
ネヘミヤのコメントは興味深いですね。「この工事が、私たちの神によってなされた」のです。勿論、天の神さまが直接手を下して工事をなさった訳ではありません。直接に手を使って工事をしたのは、ユダヤの人々です。でも、その人々が驚くほどチームワークを発揮したことは、神のわざでした。なでしこジャパンも素晴らしかったのですが、それ以上です。また、工事割り振りがとても上手に行われたこと、工事中みなが病気から守られたこと、敵からの攻撃に対しても恐れないで工事を進めたこと、その他、大変な問題課題を乗り越えて短期間で完成されたこと、これら全ては「神によってなされた」のです。
 
5.敵も驚き、恐れた(攻撃をあきらめるほど)
 
 
この事実を見た反対者達は、驚き、恐れました。「ユダヤの人々には、活きた誠の神さまが付いている、そうでなければ、こんな短い時間で、立派な城壁が完成できる訳がない。とするならば、私たちがこの人々を虐めたり、攻撃するのは無駄ではないか。」という恐れが生じたのです。それまでは、周辺民族がユダヤ人を脅かしていたのですが、周辺民族が神の民によって恐れを感じるという風に形勢が逆転してしまいました。エルサレム自体が山の上の町でしたが、それに加えて堅固な城壁が完成したことは、周辺部族にとって、簡単には攻撃できなくなったことを意味していました。ですから、彼らは「面目を失った」(直訳では、落とされた、落ち込んだ)のです。面子がつぶれた程度の落ち込みではなく、全く戦闘意欲を失うほどの徹底的な落ち込みであったと思われます。主のみ業としか考えられません。
 
B.トビヤの悪企み(17−19節)
 
 
しかし、この物語が「万事めでたし、めでたし」で終わっていないところに私は興味をもちます。城壁の完成で、表立った攻撃は出来なくなったものの、裏から、神を礼拝するエルサレム・コミュニティを乱そうとする動きは一向に衰えないばかりか、その方法はもっと巧妙になってきました。私たちが、大きな仕事を完成したときにも油断してはいけないことを教えられます。特に教会の営みでは、会堂の建設は一つの大きな山であります。そこに至る過程で、色々な問題が起きます。一つの会堂建設で一人の牧師が寿命を縮めると言われます。それほど大変ですが、本当の戦いはそれ以後でありましょう。
 
1.アモン人トビヤ(周辺地図B参照)
 
 
さて、5章ではサマリヤ人サヌバラテの執拗な攻撃に触れました。この文節には、サヌバラテの仲間であり、そしてネヘミヤにとってはサヌバラテ以上に厄介な相手であるアモン人トビヤが登場します。アモンについては、地図を見てください。ユダの東隣の民族です。トビヤはアモン人の大将でした。トビヤは、工事の最中も、そして完成後も、ネヘミヤが行おうとしていた宗教改革の足を引っ張ります。この三か節の中で彼の撹乱工作の要点を拾います。
 
2.トビヤに内通する者がいた
 
 
トビヤは、ユダの主だった人々(つまり、区会議員的な人々)と親戚関係で結びついていました。彼らの中には、トビヤと一緒に行動しようという誓いまで立てていた人もいました。これは「確信犯」ですね。こうした動きは、純粋な宗教改革を進めようするネヘミヤに対する挑戦であり、反逆でした。「獅子身中の虫」とはよく言ったものです。敵が外側にだけあれば、戦争は簡単です。味方の中にこのような敵のシンパがいるということをうすうす気付きながら工事を進め、改革を進めるネヘミヤの心中はどんなものだったでしょうか。

トビヤがユダヤ人の中に絡んでくる主な動機は、商売であったようです。エルサレムは交通の要衝でしたから、そこから完全に遮断されることは、彼が商売の利益を失うことでした。そこで、城壁が完成した今、エルサレムを壊すことよりも、その中に味方を作って自分の利益を確保する方が得策と計算したのです。内通するユダヤ人の方も、エルサレムを孤立させるより、周りの国々と仲良くして、商売を広げていった方が得だという打算が働きました。だから、トビヤがネヘミヤの敵であることを知りながら、トビヤの味方をしたのです。
 
3.内通者は、スパイ活動をした
 
 
エルサレムの中のトビヤ・シンパは、トビヤの考えを反映して、事毎にネヘミヤの指導に文句を言いました。ネヘミヤがあることを提案すると、色々な理由を付けて反対します。反対の理由はそれぞれ尤ものように聞こえますが、要は反対のための反対です。

さらに、この人々は、トビヤの善行を強調します。ネヘミヤから見れば、神の業を妨害するとんでもない男ですが、それを言うたびに、このシンパたちは、「そうは言っても、トビヤさんだって捨てたものではありません。ああ見えて、根は良い人なのですよ。」とか言って、ネヘミヤの気持ちを逆撫でするわけです。こんな人がいると苦しいですね。

もう一つ、シンパたちは、ネヘミヤの動向を一々伝えるスパイの役を果たしていました。そのために、頻繁に手紙をやり取りしていました。ネヘミヤの言うことなすこと、考えることはみんなトビヤに筒抜けでした。このシンパは、味方のような顔をして、普段はネヘミヤの協力者・助言者でしたから、余計に始末に困ります。まあ、今の日本の内閣の中にも、総理の味方のような顔をして、実際は早く総理を辞めさせたいと裏で活躍している人も多いようで、ご苦労様な話しです。ネヘミヤは、それ以上に大変でした。
 
4.ずっと後になって、ネヘミヤは内通者もトビヤも追放した
 
 
このようなトビヤとその行動に対して、ネヘミヤがどう対応したかという点については、6章では何も記されていません。恐らくネヘミヤは、この大切な段階で犯人探しをしたら、事を荒立てるだけで、益にならないと考え、沈黙を守ったのでしょう。これも一つの知恵です。沈黙を続けながら冷静にトビヤとそのシンパの活動を監視し続け、10年後、彼らが尻尾を出した時、つまり、その悪が目に余る状態になった時、ネヘミヤは一気にトビヤとシンパを追放します(13:8−9)。賢いですね。これは、後に触れることにします。
 
終わりに:私たちの働きが、「神の働き」となるように祈ろう
 
 
人間のすることと神のなさることとは、明確に区別できるものではありません。イザヤは「私たちのなす全ての業も、あなたが私たちのためにしてくださったのですから。」(イザヤ26:12)と言いました。パウロも「私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。」(コロサイ1:29)と言いました。神の業と人間の業は重なり合って働くのです。私たちが神の知恵を求めつつ計画し、神の力を期待しつつ手を動かし、なし終えた働きについて神の祝福と結実を祈るとき、それは「神の働き」となります。

今週、私たちが携わる全てのことに「神のなさったこと」と頷きの持てるような働き方をしましょう。主の働きを祈りましょう。特に、林間聖会がもたれますが、主のお働きを期待しましょう。
 
お祈りを致します。