礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2011年8月14日
 
「みことばに渇く」
ネヘミヤ記連講(15)
 
竿代 照夫 牧師
 
ネヘミヤ記7章72節-8章8節
 
 
[中心聖句]
 
  1   民はみな、いっせいに、水の門の前の広場に集まって来た。そして彼らは、主がイスラエルに命じたモーセの律法の書を持って来るように、学者エズラに願った。
(ネヘミヤ8章1節)


 
聖書テキスト
 
 
7:72 こうして、祭司、レビ人、門衛、歌うたい、民のある者たち、宮に仕えるしもべたち、および、すべてのイスラエル人は、自分たちのもとの町々に住みついた。イスラエル人は自分たちの町々にいたが、第七の月が近づくと、8:1 民はみな、いっせいに、水の門の前の広場に集まって来た。そして彼らは、主がイスラエルに命じたモーセの律法の書を持って来るように、学者エズラに願った。
2 そこで、第七の月の一日目に祭司エズラは、男も女も、すべて聞いて理解できる人たちからなる集団の前に律法を持って来て、3 水の門の前の広場で、夜明けから真昼まで、男や女で理解できる人たちの前で、これを朗読した。民はみな、律法の書に耳を傾けた。
4 学者エズラは、このために作られた木の台の上に立った。彼のそばには、右手にマティテヤ、シェマ、アナヤ、ウリヤ、ヒルキヤ、マアセヤが立ち、左手にペダヤ、ミシャエル、マルキヤ、ハシュム、ハシュバダナ、ゼカリヤ、メシュラムが立った。5 エズラはすべての民の面前で、その書を開いた。彼はすべての民よりも高い所にいたからである。彼がそれを開くと、民はみな立ち上がった。6 エズラが大いなる神、主をほめたたえると、民はみな、手を上げながら、「アーメン、アーメン。」と答えてひざまずき、地にひれ伏して主を礼拝した。
7 ヨシュア、バニ、シェレベヤ、ヤミン、アクブ、シャベタイ、ホディヤ、マアセヤ、ケリタ、アザルヤ、エホザバデ、ハナン、ペラヤなどレビ人たちは、民に律法を解き明かした。その間、民はそこに立っていた。8 彼らが神の律法の書をはっきりと読んで説明したので、民は読まれたことを理解した。
 
はじめに
 
 
BC444年[ペルシャ王アルタシャスタの治世(BC465−424)、の第20年]6月、エルルの月(今日の暦では9月頃)エルサレム城壁修復という大事業がついに完成しました。人々は、その歴史的事業の成功に興奮し、その心は高揚していました。しかし、ネヘミヤはその興奮に溺れることなく、礼拝共同体を形づくるという大目標に向かって具体的な第一歩を踏み出しました。それは、市長、町の行政担当者、神殿の奉仕者の任命でした(7章)。次のステップが聖会の開催でした。それを通して、人々の霊的状態を整えたいと願ったのです。その記録が8章です。そこには人々は自主的に集まったように書いてありますが、当然、総督ネヘミヤの働きかけが背後にあったと考えるべきです。
 
A.み言に渇いて集まる(7:72−8:1)
 
1.集まった時期:7月(贖いの月)の接近(民数記29:1)
 
 
城壁工事の完成はエルルの月(6月)ですから、7月は翌月ということになります。城壁が完成して人々の生活もやや落ち着いてきた頃、そして、奇跡的な完成によって人々の興奮が冷めやらぬ頃という良いタイミングで集会が始まったのです。

その上、ユダヤ人にとって7月というのは一年で最も大切な季節でした。7月は「贖いの月」であり、「仮庵の祭の月」でもあります。特に月の初日にはラッパが鳴り、人々を聖なる会合に召集すべきなのでした。「第七月には、その月の一日にあなたがたは聖なる会合を開かなければならない。あなたがたはどんな労役の仕事もしてはならない。これをあなたがたにとってラッパが吹き鳴らされる日としなければならない。」(民数記29:1)
 
2.自発的に集まる
 
 
「民はみな、いっせいに」という言葉が美しいですね。エルサレムが何時敵に攻撃されるかも分からないという不安が取り除かれ、人々の生活が軌道に乗り始めた状況になった時、けじめ的な集会を開こうと、誰言うとなしに集まった、そんな感じのする集まり方です。
 
3.水の門の前の広場に(地図参照)
 
 

「水の門」とは、エルサレムの南東、神殿の南側にあります(地図をご参照ください)。エルサレム城壁修理の時には、「オフェルの住民で宮に仕えるしもべたち」が水門付近を担当しました(3:26)。水門という名前は、エルサレム町の水源であったギホンの泉の近くだったことによると思われます。神殿に近く、9つあるエルサレムの門の内でも重要拠点の一つでした。神殿には近いけれども、神殿そのものではない、というところが大切です。神殿内ですと女性は入れませんから、多くの男女が集まるには最適であったと思われます。因みに、1972年、ニクソン元大統領がライバルの候補を蹴落とそうと、盗聴器を仕掛けた民主党の本部ビルの名前もウオーター・ゲートですが、エルサレムの水門とは関係ありません。
 
4.エズラへの要望
 
 
「彼らは、主がイスラエルに命じたモーセの律法の書を持って来るように、学者エズラに願った。」聖言を聞きたい、これが人々の渇きでした。私達は聖書を手許に持っていて、いつでもどこでも読めます。しかし、昔のユダヤ人はそうは行きませんでした。羊皮紙の聖書は限られた数しかなく、誰かに読んで貰わねばなりませんでした。それにしても、聖書を読んでください、とは何と麗しいリクエストでしょう。今時でしたら、「そんな固いことはやめにして、もっと楽しくレクリエーション主体の集会にしましょう。」とか「聖会なんて言葉も流行らないから、お楽しみ会にしたら」というような提案が出てきそうです。
 
5.エズラについて
 
 
この集会で主役となるエズラについて少し触れましょう。エズラは、学識もあり、敬虔であり、指導力もありました。ネヘミヤとても、聖書の知識は豊富であり、霊的な指導力を持っていましたが、彼は自分の立場を弁えて、背後に回ります。そこに彼の知恵と配慮があったように思います。人間誰でも、能力があると、それを発揮したくなるものです。しかし、ネヘミヤは敢えて、自分を抑えて背後の奉仕に回ります。信徒だけではなく、牧師もそうですが、自分の立場・賜物を弁えること、他人の立場・賜物を尊重してそれらをできるだけ生かすことは大切です。何でも自分でやってしまう人は、自分は何でも出来るという気付かない傲慢に陥り易いのです。エズラについて要点だけ記します。

@エルサレム帰還:
彼のエルサレム帰還はネヘミヤより13年前でした(エズラ 7:7−8「アルタシャスタ王の第七年にも、イスラエル人のある者たち、および、祭司、レビ人、歌うたい、門衛、宮に仕えるしもべたちのある者たちが、エルサレムに上って来た。エズラは王の第七年の第五の月にエルサレムに着いた。」)

A律法学者:
エズラは、律法を心から愛した人物でした。彼は「モーセの律法に通じている学者」(エズラ7:6)であり、聖書の殆どは彼の手で編纂されたと言われています。(7:10−11「エズラは、主の律法を調べ、これを実行し、イスラエルでおきてと定めを教えようとして、心を定めていたからである。エズラは、主の命令のことばと、イスラエルに関する主のおきてに精通した学者であった。」)私達もこんな評価を得たいものですね。

B宗教改革運動を主導:
エズラは、エルサレム再建において、政治的指導者であるネヘミヤと手を携え、宗教指導者(祭司、学者)として改革運動を行いました。「総督であるネヘミヤと、祭司であり学者であるエズラ」(9節)

C城壁の奉献式に参加:
城壁の奉献式では民の半分を率いて、先頭に立って行進を行ったと記されています。(12:36「ゼカリヤの兄弟たちシェマヤ・・・ハナニであって、神の人ダビデの楽器を持って続いて行った。学者エズラが彼らの先頭に立った。」)
 
B.集会の様子(2−5節)
 
1.聴衆:聞いて理解できる男女
 
 
「男も女も、すべて聞いて理解できる人たちからなる集団」と2節にあるのは重要です。聞いて理解できる人たち、つまり、子供達はこの際除かれていたようです。ただ、男女の区別をしていないこと、ジュニア世代も入っていたことなどは、通常の神殿礼拝と異なる特徴でした。
 
2.集会のプログラム
 
 
朝から昼まで、聖書を読み続けたというのです。今の人々ならば何と退屈な、と嫌われそうなプログラムです。でも人々は聖言に渇いていましたから、立ち続けるのが苦痛ではありませんでした。読まれた場所は、人々にとって役に立つ、相応しい箇所が選ばれたことでしょう。どこかの書がずっと読まれたわけではないと思います。エズラは、その時が7月であることを意識しながら、仮庵の祭についての説明を抜き読みしたのではないかと思います。
 
3.13名の助手(説教者の忠実な助け手)
 
 
マティテヤ、シェマ、アナヤ、ウリヤ、ヒルキヤ、マアセヤが立ち、左手にペダヤ、ミシャエル、マルキヤ、ハシュム、ハシュバダナ、ゼカリヤ、メシュラムの合計13名、エズラを入れて14名です。エズラ一人がずっと読み続けたのではなく、となりに立っていた弟子達が代わる代わる助けたことでしょう。この助手達については僅かしか知られていません。でも、聖書を辿ってみると、少しは分かってきます。

@アナヤ、マルキヤ、ハシュム:契約遵守の誓いに加わっています(10:3、18、22)。
Aメシュラム、マルキヤ:城壁修理に汗を流しました(3:4、14)。
Bマアセヤ、ゼカリヤ:祭司でした(12:41)。
Cペダヤ:レビ人で宝物倉の忠実な管理者でした(13:13)。

講壇の脇に座っている人の役割って大切です。ぼんやり名誉職のように座っているのではありません。説教者に石が投げられたら、体を張って助ける、説教者が倒れたら支える、もし本当に駄目になったらピンチヒッターになる、水が欲しければ水を上げる、かりそめにも、「この説教はつまらん」という顔はしない、居眠りをしない事は最低限の義務です。
 
4.聴衆は謹聴した
 
 
人々は喜んで耳を傾けました。そこに神の言葉に対する敬意があります。あるクリスチャンは、説教者によって態度を変えます。あの人の言う事なんて分かっている、あの話はこれで三度目だとか、あの人は語っていることを実行していないから聞く価値がないとか、この人は神の人だから一生懸命聞こうとか、態度を変えていないでしょうか。また、神学生の中に、この人の説教はメモを取る価値があるが、あの人の説教ならば私はノートを持っていかないなどと大声で話した先輩がいました。私は、これはみんな間違いだと思います。神の言葉である聖書が説かれたならば、少なくとも立てられた器が真実に聖言に取り組んでいるならば、その事の故に私達は尊敬を払い、謹聴すべきです。たといその説教者が若かったり、経験に乏しい器だったとしてもです。

それは、聖言が開かれるときには立ち上がると言う行為に表れていました。モーセの時代からラビ・ガマリエルの時代まで、ユダヤ人は聖言を聞くときに必ず立ち上がったそうです。しかし、ガマリエルの死後、病気が発生したために、立つのは本人の自由となったそうです。
 
5.講壇:聴衆が見やすく、聞きやすいための高台
 
 
エズラは、このために造られた木の台の上に立ちました。人々が見やすく、聞き易いために、プラットフォームのように高く上げられた台だったのでしょう。これが講壇の始まりと言われています。その台には聖書を載せる講壇がありました。今日の聖書よりも遙かに重い聖書の巻物を使っていたのですから、少し傾きのある、巻きに便利な台が設えられたことでしょう。今日の講壇は(歴史的には)、反対者から石打にあったとき隠れるのに便利だから造られたと言う説もありますが確かではありません。
 
C.集会の締め括り(6−8節)
 
1.エズラの祝祷と民の応答
 
 
エズラは多分知性的な人だったと思われます。そのエズラが、聖書朗読の後、霊の喜びに満たされて、主を誉め讃えました。多分「ハレルヤ!」とか言ったのではないでしょうか。人々は、より熱心に応答して、手を挙げてアーメン、アーメンと叫び、そして地に平伏して主を礼拝しました。シナゴグでの礼拝式でも、「誉むべきかな我等の神、世界の王なる主よ、我らを諸国の民より選び、律法を与え給えり。」と説教者が言うと、会衆がアーメンという習慣があります。

手を上げるとはユダヤ人にとって天にいます神への賛美、信頼の告白、切なる祈りを意味していました(1テモテ2:8)。ひむなるに「清い手を上げ・・・」というくだりがあります。私は必ず手を上げて歌うのですが、周りの人は上げません。「照夫先生はカリスマ派になったのか」という視線を感じることもありますが、違います。手を上げて祈り賛美するのは全く聖書的です。

平伏して主を拝するというのは神に対する深い畏敬と絶対的な服従を意味していました。
 
2.みことばの解説(民衆の言葉への翻訳)
 
 
一通りの集会が終わった後、グループ別の解説がなされました。その指導に当たったのは、先ほど左右に立っていた助手達ではなく、レビ人でした。エズラもただズラズラと聖書を棒読みしたのではなく、解説を加えながら読んだと思われますが、このレビ人はもっと親切に、個別的に解説したようです。この時民衆が使っていたへブル語は、バビロンなまり(カルデヤ語)となっていました(これがアラム語の始まりのようです)。ですから、聖書をただ読み上げるだけでは不十分で、民衆語に翻訳する必要があったのです。さて、人々も飽きもしないで聖言に食らいついていく、その熱心さは本当に見上げたものです。
 
3.人々の理解
 
 
聖書朗読には力があります。御言には力と命があるからです。ただ、読むときに、ゆっくり、はっきり、心を籠めて読む必要があります。分からない箇所は、そこで留まって、解説を聞くとか、注解を参照する必要がありましょう。
 
4.集会後の喜び
 
 
集会が成功し、人々が大きな感動に満たされました。それについては来週触れることにいたします。
 
終わりに:御言を読み、信じ、従おう
 
 
私達は今、御言を聞くために集まりました。御言に傾聴する、しかも、皆が揃って傾聴するということがどんなに大きな喜びをもたらすものかを経験しています。私達がそれぞれの生活に戻った後も、各家庭の中で、個人デボーションで、御言に傾聴する喜びを体験しましょう。

詩篇1:2を読みます。「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」その続きが3節です。「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」御言を読み、御言を信じ、従う祝福を経験するものとなりましょう。
 
お祈りを致します。