礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2011年8月21日
 
「主を喜ぶ喜びの力」
ネヘミヤ記連講(16)
 
竿代 照夫 牧師
 
ネヘミヤ記8章9-12節
 
 
[中心聖句]
 
  10   主を喜ぶこと、あなたがたの力である
(ネヘミヤ8章10節 別訳)


 
聖書テキスト
 
 
9 総督であるネヘミヤと、祭司であり学者であるエズラと、民に解き明かすレビ人たちは、民全部に向かって言った。「きょうは、あなたがたの神、主のために聖別された日である。悲しんではならない。泣いてはならない。」民が律法のことばを聞いたときに、みな泣いていたからである。10 さらに、ネヘミヤは彼らに言った。「行って、上等な肉を食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった者にはごちそうを贈ってやりなさい。きょうは、私たちの主のために聖別された日である。悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。」11 レビ人たちも、民全部を静めながら言った。「静まりなさい。きょうは神聖な日だから。悲しんではならない。」12 こうして、民はみな、行き、食べたり飲んだり、ごちそうを贈ったりして、大いに喜んだ。これは、彼らが教えられたことを理解したからである。
 
A.聖書朗読聖会(1−8節の要約)
 
1.御言を聞くために集まる
 
 
エルサレム城壁工事が完成して一ヶ月後に人々が神の言葉を聞くために水の門の広場に集まりました。それは、7月1日、仮庵の祭りの初日です。彼らは自発的に集まって来て「主がイスラエルに命じたモーセの律法の書を持って来るように、学者エズラに願った。」(1節)のです。聖言を聞きたい、これが人々の渇きでした。
 
2.御言の朗読を聞く
 
 
集まった聴衆は「男も女も、すべて聞いて理解できる人たちからなる集団」(2節)でした。エズラが、その時のために作られた講壇に立って、聖書を開いた時、聴衆は御言に対して、また、その背後に居られる神ご自身に対しての尊敬を表すために一斉に起立し、起立したまま御言に聞き入りました。それも早朝から真昼まで、立ち続けで聴き続たというのです。驚くべきことです。
 
3.御言を理解する
 
 
エズラから、聖書の朗読をしていただいた後、小グループに分かれて御言の解説がなされました。聖書のヘブル後と民衆が使っていたヘブル語との間にギャップがあったためです。この解説によって、人々は御言の意味をしっかりと理解することが出来ました。 今日は、その続きです。
 
B.喜びへの勧め
 
1.大いなる悲しみ(9節)
 
 
・理由:
不思議なことに、み言葉が語られたときのリアクションの最初は、悲しみでした。彼らは大泣きに泣いたと記されています(9節)。彼らは何故泣いたのでしょうか。この場所で理由は記されていませんが、前後を読むと、その悲しみの理由が推測できます。それは、@それは聖言によって自分達の歴史が裁かれたからです。イスラエルの不服従と不信仰が捕囚という前代未聞の苦しみを齎したことを聖書の預言によって悟ったのです(9:29、33)。さらに、聖書が指し示す水準から遥かに低い状態で生きている自分達の霊的・道徳的状態に気がついて悲しかったのです。Aまた、今の季節である仮庵祭についても、その意義を理解していなかったこと(14節)に愕然としたことでしょう。

・結果:
彼らの悲しみは健全な悲しみであったと思います。@パウロは、聖言は悲しみをもたらす、それは悔い改めに至る悲しみだといっています。「あの手紙によってあなたがたを悲しませたけれども、私はそれを悔いていません。・・・神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」(2コリント7:8、10)と。A主イエスもまた、「悲しむものは幸いです。その人は慰められるからです。」(マタイ5:4)と悲しみの齎す幸いを語っておられます。

聖書の示す宗教は、快活さを特徴としています。しかし、それは表層的な或いは皮相な面白おかしさではなく、人間の罪に対する深い悲しみというどん底を経験したが故の、神の赦しに立った深い喜びです。
 
2.喜べ!:贖いの日だから(9−11節)
 
 
しかし、悲しみと言う第一のリアクションを超えたとき、ネヘミヤ、エズラ、そしてレビ人たちは、人々を喜びへと導きました(9節)。主は私達の悔い改めを喜び、赦しの恵みをくださるからです。ネヘミヤは、御言に心刺されて嘆いている人々の間を回って、嘆くのではない、喜びなさい、と語りました。その理由は、「この日が主によって聖別された日だから」と言うのです。捕囚の民は、長い間の外国生活で「贖いの日」の意義と守り方と楽しさを忘れていました。この日は、イスラエルが奴隷生活から救われたこと、荒野での苦しい生活から解放されて、約束の地に導かれたことを記念する贖いの日ではないか、しかも、私達の罪を担って生贄が捧げられ、罪赦される恵みを覚える日ではないか、と語ったのです。その喜びを体で表すためにご馳走を食べようと勧めました。

ネヘミヤの勧告に続いて、レビ人たちも「喜べ」とのメッセージを語ります。「今日は神聖な日なのだから、悲しんではならない。(大いに喜びなさい)」(12節)と勧めたのです。
 
3.祝いの食事をする(10節):貧しい人も含め(申命記16:14)
 
 
ネヘミヤは、喜べという勧めを具体的に言い表します。「上等な肉(やせた牛の肉ではなく、太った牛の一番良い部分)を食べ、甘いぶどう酒を飲め。貧しい人のためには、ご馳走を贈って上げなさい。」と。この祭りの日には、自分たちだけではなく、貧しい人を特に覚えることがモーセによって命じられていたからです。「この祭りのときには、あなたも、あなたの息子、娘、男女の奴隷、あなたの町囲みのうちにいるレビ人、在留異国人、みなしご、やもめも共に喜びなさい。」(申命記16:14)

お祝いの食事ほど私達に喜びを与えるものはありません。特にこの日は、朝から立ち続けで御言葉を学んでいましたから、お腹も空いていた事でしょう。食事で喜ぶなんて肉的だ、などと言ってはいけません。食べ物を分かち合って共に食する喜びは、聖書で沢山奨励されていることです。今日のお昼はグループごとに愛餐をしますが、みんなで一緒に喜ぶことは、自分や家族だけの喜びよりも遥かに勝る喜びです。恐らく、食事だけでなく、音楽やダンスなどで喜びを分かち合ったことでしょう。

私はイスラエルに一度しか旅行したことがありませんが、安息日の夕方の光景を忘れることが出来ません。どこからともなく人々が集まってきて、アコーディオンなどに合わせて、こちらに輪を作り、あちらに輪を作るという形でダンスを楽しんでいるのです。羨ましい光景でした。私たちも時々愛餐会を致します。それぞれが手作りのご馳走を持ち寄って、分かち合うのです。
 
4.聖書の精神を理解した喜び
 
 
でも、人々は、「ご馳走がおいしかったなあ」で終わりませんでした。彼らは「大いに喜んだ。これは、彼らが教えられたことを理解したからである。」(12節)とありますように、彼らの喜びは、聖書のメッセージを本当の意味で理解し、実行できたという喜びだったのです。この聖句はエマオの途上で復活の主イエスに出会った二人の弟子を思い出させます。彼らは、復活の主が道々聖書を解き明かしてくださったとき、その心が燃えたのです(ルカ24:32)。
 
5.仮庵を祝う喜び(17節)
 
 
彼らの喜びは、律法に従って、盛大に仮庵の祭りを祝ったときにクライマックスに達しました。「捕囚から帰って来た全集団は、仮庵を作り、その仮庵に住んだ。ヌンの子ヨシュアの時代から今日まで、イスラエル人はこのようにしていなかったので、それは非常に大きな喜びであった。」(17節)この祭りの内容は次週にお話致しますが、今日のキャンプに似た興奮と、聖会的な厳粛さが一体となった何とも言えない不思議な喜びと感動が民全体を覆いました。
 
C.「主ご自身を」喜ぶ喜び
 
 
ご馳走に勝って、また、共に交わることに勝って、一番素晴らしい喜びは、主ご自身を喜ぶ喜びです。それは私たちに生きる力を与えます。The joy of the Lord is your strength. 主を喜ぶ喜び、御心を行う喜びは私達の心と体に力を与えます。快活な宗教これこそ、真の宗教です。
 
1.翻訳の問題:二つの可能性が
 
 
ここで、翻訳の問題に触れます。10節の「主の喜び」(The joy of the Lord)は二通りに理解できます。

@主が私たちを喜ぶことが、力となる(「主」が喜びの主語)
A私たちが主を喜ぶ喜びが、力となる(「主」が喜びの目的語)

つまり問題は、「喜び」を修飾する「主の」ということばが主語的なのか、目的語なのかという点です。「私の喜び」と言えば、私という主語が喜ぶ喜びです。新改訳はそう訳します。しかし、これを目的語的に訳すことも可能です。「旅行の喜び」と言えば「(私が)旅行をする喜び」となります。文語訳、新共同訳、そして新改訳の欄外別訳はそれを示します。どうもこの方が多数のようです。ですから私は、「あなたがたが主を喜ぶその喜びが、あなたがたにとって力となる」と解釈するのが自然であると思います。というのは、その前後の文脈と見ると、悲しむな、喜べという命令が9−11節にあり、12節には民が喜んだと記されているからです。更に、レビ23:40には、仮庵の祭りに関して「七日間、あなたがたの神、主の前で喜ぶ。」とあって、この祭りは、「主を喜ぶ」ためであることを示唆しているからです。
 
2.主を喜ぶ喜びとは?
 
 
さて、翻訳の問題を終えて、「主を喜ぶ」とは実際何を意味するかを考えましょう。

@主のご臨在を喜ぶ:
それは、主が与えて下さる何かの故に喜ぶと言うよりも、主ご自身の存在の故に喜ぶことです。何をなさるかよりも、どなたであるかの故に喜ぶのです。主とのお交わりを喜ぶのです。子供が小さいときは、クリスマスの喜びはプレゼントでしょう。誰がくれるかというより、プレゼントそのものが喜びです。でも大きくなると、そのプレゼントの送り主の愛を感じて感謝するようになります。もっと進むと、プレゼントなんかくれなくても、その人がいるだけで嬉しいという関係になります。

A主と交わりを喜ぶ:
ちょうど、心から愛し合っている夫婦のようなものです。フランク永井さんが何かの歌で「そばにいてくれるだけでいい」と歌ったあの状況です。永井さんは男女のことを歌っているのでしょうが、私たちの喜びは、神との交わりを喜ぶ、神に聞くこと(御言葉に聞くこと)を喜ぶ、神に語りかけること(祈ること)を喜ぶ、神がどんなに大きなすばらしい存在であるかを喜ぶことなのです。すばらしい喜びですね。詩篇の作者は「私の最も喜びとする神」(詩篇43:4)と語っているのは、同じ経験です。私たちを取り囲む状況は厳しいかもしれません。しかし、状況に左右されない喜び、それは主のご臨在を信じ、より縋るところから生まれます。

B喜びは力:
主を喜ぶ喜びは、私たちの生き甲斐であり、生きる力の源です。人間同士でも、愛されていると感じることは、その人に生き甲斐を与えるものですが、それ以上に、神を喜ぶ、神に喜ばれていると自覚しますと、どんな環境にも耐えうる大きな力となります。その喜びは、私達の心にもっと主に仕えようという力を与えます。アダム・クラークは、「神を対象として持つ喜びは、神ご自身から来る。それは霊的な力を更新させる手段でもある。」と言っています。ウェスレーは、「神を喜ぶとは、快活で感謝に満ちた心を持って神に仕えることである。それはあなたの敵のあらゆる工作に反対し、神に仕えるための精神的・肉体的なあらゆる力を与えるものです。」と言いました。
 
3.主イエスを喜ぶ
 
 
@復活し、現臨される主を喜ぶ(ローマ5:11):
新約時代に生きる私達にとって、「主を喜ぶ」とは、復活の主の内住がもたらす喜びとのことです。復活の夜、十一弟子達は甦った主を見て喜びました。彼らが日曜日ごとに集まってパンを裂いたのは、主イエスを思い出すためだったのです。ですから、日曜日は復活記念日です。彼らは喜びをもって聖餐を行い、目に見えないけれども共に在ます主を喜びました。パウロは、「私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。」(ローマ5:11)と言っています。この喜びを味わうのは、本当に私達が弱かった、不敬虔であった、罪人であった、という深い自覚から生まれます。その感謝が、神を喜ぶバネになります。

A主との交わりを喜ぶ(1ペテロ1:8):
地上のイエス様を知らない世代のクリスチャンに対してペテロは言います、「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」(1ペテロ1:8)と。CSルイスが、喜びに関して悪魔のスクルーティプの口を通して言わせているように「喜びは神の発明であって、我々(悪魔)の発明ではない」のです。
 
終わりに:喜べるような環境が有っても、無くても、喜ぼう
 
 
私たちの生活において、単純に喜べないような環境、状況がありうるでしょう。いや、そんなことの連続が人生でありましょう。しかし、環境によって一喜一憂するのではなく、変わり給わない、主を見つめ、主を喜びましょう。主は甦り、私達の心に生きておられます。主の現臨を喜びましょう。私達がどんな厳しい人生をこれから辿るとしても、共に居られる主の故に、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことで神に感謝を捧げつつ進みましょう。この喜びを携えて生涯を全うしたいものです。

最後に私の好きなコーラスを紹介します。

The joy of the Lord is my strength x4
He fills my mouth with laughter, ha ha ha ha x4

この歌を心の中で歌いながら、今週を過ごしましょう。
 
お祈りを致します。