礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2011年9月4日
 
「それにも拘らず、憐れみが・・・」
ネヘミヤ記連講(18)
 
竿代 照夫 牧師
 
ネヘミヤ記9章1-3,9-21節
 
 
[中心聖句]
 
  17   それにもかかわらず、あなたは赦しの神であり、情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かであられるので、彼らをお捨てになりませんでした。
(ネヘミヤ9章17節)


 
聖書テキスト
 
 
1 その月の二十四日に、イスラエル人は断食をし、荒布を着け、土をかぶって集まった。2 そして、すべての外国人との縁を絶ったイスラエルの子孫は立ち上がって、自分たちの罪と、先祖の咎を告白した。 3 彼らはその所に立ったままで、一日の四分の一は、彼らの神、主の律法の書を朗読し、次の四分の一は、告白をして、彼らの神、主を礼拝した。
9 あなたはエジプトで私たちの先祖が受けた悩みを見、また、葦の海のほとりでの彼らの叫びを聞かれました。10 あなたは、パロとそのすべての家臣、その国のすべての民に対して、しるしと不思議を行なわれました。これは、彼らが私たちの先祖に対して、かってなことをしていたのをあなたが知られたからです。こうして、今日あるとおり、あなたは名をあげられました。11 あなたが彼らの前で海を分けたので、彼らは海の中のかわいた地を通って行きました。しかし、あなたは、奔流に石を投げ込むように、彼らの追っ手を海の深みに投げ込まれました。12 昼間は雲の柱によって彼らを導き、夜は火の柱によって彼らにその行くべき道を照らされました。13 あなたはシナイ山の上に下り、天から彼らと語り、正しい定めと、まことの律法、良きおきてと命令を彼らにお与えになりました。14 あなたの聖なる安息を彼らに教え、あなたのしもべモーセを通して、命令とおきてと律法を彼らに命じられました。15 彼らが飢えたときには、天からパンを彼らに与え、彼らが渇いたときには、岩から水を出し、こうして、彼らに与えると誓われたその地を所有するために進んで行くよう彼らに命じられました。
16 しかし、彼ら、すなわち私たちの先祖は、かってにふるまい、うなじをこわくし、あなたの命令に聞き従いませんでした。17a 彼らは聞き従うことを拒み、あなたが彼らの間で行なわれた奇しいみわざを記憶もせず、かえってうなじをこわくし、ひとりのかしらを立ててエジプトでの奴隷の身に戻ろうとしました。
17b それにもかかわらず、あなたは赦しの神であり、情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かであられるので、彼らをお捨てになりませんでした。18 彼らが自分たちのために、一つの鋳物の子牛を造り、『これがあなたをエジプトから導き上ったあなたの神だ。』と言って、ひどい侮辱を加えたときでさえ、19 あなたは、大きなあわれみをかけ、彼らを荒野に見捨てられませんでした。昼間は雲の柱が彼らから離れないで、道中、彼らを導き、夜には火の柱が彼らの行くべき道を照らしました。20 あなたは、彼らに悟らせようと、あなたのいつくしみ深い霊を賜わり、彼らの口からあなたのマナを絶やさず、彼らが渇いたときには、彼らに水を与えられました。21 四十年の間、あなたは彼らを荒野で養われたので、彼らは何も不足することなく、彼らの着物もすり切れず、足もはれませんでした。
 
復習:仮庵祭の月に行われたこと(8章)
 
 
・7月1日:
エルサレム城壁再建一ヶ月後の7月1日(今の暦では10月頃)、人々が御言に飢え渇いて集まり、聖書朗読聖会を開催しました。その結果彼らが再発見したのは、この7月に祝われるべき仮庵祭の規定でした。15日から7日間、人々は木の枝などで仮小屋を作り、そこに住みました。

・10日:
その前の10日には、「贖いの日」として、年に一度の大いなる贖いのための生贄が捧げられたはずです。

・15−22日:
さて仮庵祭の期間中、人々は仮小屋生活を通して、出エジプト直後の40年間テント生活をしながら荒野を放浪した先祖の苦労を偲びました(絵図参照)。彼らは、キャンプ生活の興奮と聖会的な厳粛さが一体となった、何とも言えない不思議な感動を味わいました。この様に正式な仮庵祭が、しかも意義深く行われたのは、千年も前のヨシュア以来であったと言うのです(8:17)。彼らは、みことばをその通り実行したと言う大きな喜びを経験しました。彼らは、この7日間、ずっと神の言葉の朗読を聴き続けました(8:18)。その間に彼らは、出エジプトの出来事の素晴らしさに感動し、それに対比して、先祖達が犯した罪の数々を深く思い巡らしました。その思い巡らしの結果が、9章の悔い改め集会です。
 
A.悔い改めの集会(1−3節)
 
 
・集会の時期:
仮庵祭の最終日が7月22日ですから、その2日後の24日です。人々が自発的に集まったような雰囲気が伺えますが、エズラの招きもあったことでしょう。レビ人が指導的な役割を果たしていますが、恐らくレビ人でもあるエズラがリーダーシップをとっていたものと思われます。

・集まった人々:
1節には単に「イスラエル人」と書いてありますが、10:1−27には、集会後に行われた誓約への署名人の名前が80以上記されています。10:28−29には、その他大勢と記されていますから、相当の人数が参加していたものと思われます。特徴的なのは、彼らが「外国人との縁を断った」人々であったということです。捕囚からの帰国が始まって100年近く経っていましたから、近隣住民との間に親戚関係が相当生じていました。これらの関係を断って、純粋なイスラエル人としてのアイデンテイティを確立し、先祖の罪を告白し、律法の遵守を誓約することがこの集会の目的でした。その誓約に加わるのは純粋なイスラエル人であることが要件でした。

・悔い改め:
断食・荒布・土かぶりという三つの動作が記されていますが、これは心からの悔い改めのジェスチャーです。「すべての外国人との縁を絶ったイスラエルの子孫は立ち上がって、自分たちの罪と、先祖の咎を告白しました。」とあります。自分達の罪とは、民族としての純粋性を保たず、文化的にまた、人種的に周りの人々に影響されて律法から離れてしまっている現状のことです。また、先祖の咎とは、先祖達の罪と不服従が齎した捕囚という出来事への反省です。

・律法の朗読:
「その所に立ったままで、一日の四分の一は、彼らの神、主の律法の書を朗読し・・・」朝早く(6時ごろでしょうか)から昼頃までの集会の前半は聖書の朗読に耳を傾けました。つまり、約三時間を聖書の朗読に費やしたのです。忙しい現代人から見ると、気が遠くなるような長時間の集会です。しかし、みことばに乾いている彼らには、その長さが感じられませんでした。

・告白・礼拝:
「次の四分の一は、告白をして、彼らの神、主を礼拝した。」残りの半分(約3時間)は告白、賛美の時でした。その内容が5節から38節です。
 
B.告白と賛美
 
1.創造の神を賛美(4−6節)
 
 
彼らは神を賛美することから始めます。「とこしえからとこしえまでいますあなたがたの神、主をほめたたえよ。すべての祝福と賛美を越えるあなたの栄光の御名はほむべきかな。ただ、あなただけが主です。あなたは天と、天の天と、その万象、地とその上のすべてのもの、海とその中のすべてのものを造り、そのすべてを生かしておられます。そして、天の軍勢はあなたを伏し拝んでおります。」と理屈抜きに、創造者・保持者であられる神をほめたたえます。この賛美は、私たちの礼拝の原点でもあります。
 
2.アブラハムの選びと約束(7−8節)
 
 
主が、アブラハムの選び、カナンを約束の地として与えなさったことが回顧されます。「あなたはアブラムを選んでカルデヤ人のウルから連れ出し、彼にアブラハムという名を与えられました。あなたは、彼の心が御前に真実であるのを見て、カナン人・・・の地を、彼と彼の子孫に与えるとの契約を彼と結び、あなたの約束を果たされました。あなたは正しい方だからです。」
 
3.出エジプトの奇跡(9−11節)
 
 
出エジプトの前に行われた数々の奇跡と紅海の渡捗の奇跡が回顧されます。「あなたはエジプトで私たちの先祖が受けた悩みを見、また、葦の海のほとりでの彼らの叫びを聞かれました。あなたは、パロとそのすべての家臣、その国のすべての民に対して、しるしと不思議を行なわれました。・・・あなたが彼らの前で海を分けたので、彼らは海の中のかわいた地を通って行きました。しかし、あなたは、奔流に石を投げ込むように、彼らの追っ手を海の深みに投げ込まれました。」
 
4.荒野における導きと供給:(12−15節)
 
 
「昼間は雲の柱によって彼らを導き、夜は火の柱によって彼らにその行くべき道を照らされました。あなたはシナイ山の上に下り、天から彼らと語り、正しい定めと、まことの律法、良きおきてと命令を彼らにお与えになりました。あなたの聖なる安息を彼らに教え、あなたのしもべモーセを通して、命令とおきてと律法を彼らに命じられました。彼らが飢えたときには、天からパンを彼らに与え、彼らが渇いたときには、岩から水を出し、こうして、彼らに与えると誓われたその地を所有するために進んで行くよう彼らに命じられました。」
 
5.罪の告白(16−17節a)
 
 
こんなに主の恵みが注がれているにも拘らず、イスラエルの人々は、心から神に従おうとはしませんでした。「しかし、彼ら、すなわち私たちの先祖は、かってにふるまい、うなじをこわくし、あなたの命令に聞き従いませんでした。彼らは聞き従うことを拒み、あなたが彼らの間で行なわれた奇しいみわざを記憶もせず、かえってうなじをこわくし、ひとりのかしらを立ててエジプトでの奴隷の身に戻ろうとしました。」何という我がまま、何という恩知らずでありましょうか。私たちも、自分がどのようなところから救い出されたかという原点を忘れると、彼らのような勝手な言い分を主の前に並べ立ててしまいます。
 
6.神の憐れみへの感謝(17節b−21節)
 
 
「それにもかかわらず、あなたは赦しの神であり、情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かであられるので、彼らをお捨てになりませんでした。18 彼らが自分たちのために、一つの鋳物の子牛を造り、『これがあなたをエジプトから導き上ったあなたの神だ。』と言って、ひどい侮辱を加えたときでさえ、19 あなたは、大きなあわれみをかけ、彼らを荒野に見捨てられませんでした。昼間は雲の柱が彼らから離れないで、道中、彼らを導き、夜には火の柱が彼らの行くべき道を照らしました。20 あなたは、彼らに悟らせようと、あなたのいつくしみ深い霊を賜わり、彼らの口からあなたのマナを絶やさず、彼らが渇いたときには、彼らに水を与えられました。21 四十年の間、あなたは彼らを荒野で養われたので、彼らは何も不足することなく、彼らの着物もすり切れず、足もはれませんでした。」

9章の長い告白の祈りを見ると、「しかし」とか「にも拘らず」がしばしば登場します。26節の「しかし」は神の恵みにも拘らずの「しかし」です。「彼らは反抗的で・・・」 28節の「しかし」は、「ひと息つくと、彼らはまた、あなたの前に悪事を行ないました。」です。 30節の「それでも」は神の忍耐です。「あなたは何年も彼らを忍び・・」 31節の「しかし」は、神の憐れみの「しかし」です。「あなたは大いなるあわれみをかけて・・・」一言で言いますならば、イスラエルの度重なる反逆にも拘らず、神は大いなる憐れみをもって彼らを扱いなさいました。どんなに背く子であっても、親は大いなる忍耐と愛と憐れみをもって、その子の回復を待ち望みます。それと同じように、いやそれ以上に、神の憐れみの懐は広いのです。実際に出エジプト32−34章に記されている「金の子牛」の記事を見ますと、神は、イスラエルの反逆を黙って見過ごし、赦しなさった訳ではありません。「こんな反逆的な民は一度滅ぼして、モーセによって新しい民族を起こし、再出発する」とか、モーセの執り成しによって、滅ぼす計画は中止なさったものの、「この民とは一緒に行かない。使いを遣わす。私が一緒にいれば、怒ってしまうだろう。」とまで語られたのです。再度モーセの祈りと執り成しによって、一緒に行くことを約束されました。つまり、主が私たちを限りなく赦し、受け入れてくださると言うことは、正義の要求を棚に上げて無原則に見逃すことではなく、ご自分の大きな痛みを乗り越えてのものであることを私たちは知ります。厳粛です。

その神の憐れみが現れたのが次の出来事です。

・荒野で全く見捨てることはなさらなかった(18節)
・偶像を作って神から離れた時も、雲の柱火の柱をもって導き(19節)
・あなたのいつくしみ深い霊を賜わり(20節a)
・彼らの口からあなたのマナを絶やさず(20節b)
・彼らが渇いたときには、彼らに水を与えられた(20節c)
・着物は擦り切れず、足は腫れなかった(21節)=これは、次項で取り上げます。
 
7.捕囚によっても滅ぼさなかった(22−31節)
 
 
これは(次回に学びますが)彼らが今滅ぼしつくされなかった(31節)のも、神の憐れみのゆえです。
 
C.神の驚くべき忍耐と憐れみ
 
1.目立たない奇跡(21節)に目を留めよう
 
 
私は、特に21節が好きです。40年間擦り切れなかった着物、40年間ほころびなかった靴(申命記29:5)、40年間腫れなかった足、どれ一つとっても奇跡です。奇跡には、目立つものと目立たないとがありますが、これらは当然後者です。前者は、紅海の渡捗とか、マナの賦与とか、岩から湧き出た水です。これと分かるような華々しい、ドラマになるような奇跡です。それに比べると、着物が擦り切れないとか、靴が壊れないとか、足が腫れないと言うような奇跡は、後から振り返って「なるほど考えてみればそうだったなあ」と気がつく程度のものです。でも実際的に考えると、この方が余程「助かる」奇跡です。考えても見てください。私の靴は2、3年で磨り減ってしまい、新しいゴム底を貼り付けて履いていますが、そのゴム底も磨り減ってしまいました。つまり、私たちはしょっちゅう靴を取り替える生活を送っています。ところが、イスラエルの人々は、40年荒野をあちこち歩きながら、磨り減るはずの靴が磨り減らない、岩で叩きつけて洗濯をして、擦り切れるはずの着物が擦り切れない、ということに最後の段階で気がついたのです。私たちの人生でも、このような経験を多くしているように思います。24時間心臓が休まず動き続けている、という事実をそれほど強く意識してはいませんが、これは驚くべき奇跡です。当たり前と思っていることをそのままに過ごしてはなりません。毎日毎日が奇跡の連続です。感謝しましょう。
 
2.人間の重ね重ねの不服従
 
 
もっと感謝すべきことは、このような奇跡を頂いている私たちは、神の恵みを受けるのには誠に相応しくない人間だと言うことです。重ね重ね不服従であり、反抗的であり、自分勝手です。16、26、28節の「しかし」を見ると、人間が如何に恵みを忘れ、自分勝手で、わがままであるかを思い知らされます。イスラエルの歴史は遠い昔の事ではなくて、今起きている、しかも、私たちの内側に起きていることを示します。
 
3.神の忍耐と憐れみ
 
 
人間の「しかし」を乗り越えるのが、神の「しかし」です。17,18,28、30、31節に見られる「それにも拘らず」「でさえ」「しかし」「それでも」とは、神の憐れみの懐の大きさを示します。反抗的な私たちを主は見捨てずに愛し、導き、守り、満たしていてくださいます。この神の大きさに私は圧倒される思いです。主の恵みを感謝しましょう。

 
4.「恵みに甘えない」生き方も大切(ローマ5:20−6:7)
 
 
神は、私たちに無条件の愛を注いでいてくださいます。しかし同時に、私たちが神の寛容と忍耐に甘えて、罪と不服従に留まってよい、と聖書は語っていません。パウロは、「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」(ローマ5:20)と言いながら、「恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。」(ローマ6:1−2)と言って、信仰者が罪の中に生きることを否定しています。そして、罪に勝たせ給う主イエスの救いを信じて罪に勝つ生涯を歩もうと語ります。「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」(ローマ6:6−7)

これは次回に学びますが、ネヘミヤ時代のイスラエルは、この神の恵みを味わいつつ、しっかりと契約を立てて、主に従う決意を新にしました(38節)。私たちも、ここで主に誓いを立て、主に従う歩みを進めましょう。
 
お祈りを致します。