礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2011年10月2日
 
「礼拝共同体の決まり」
ネヘミヤ記連講(20)
 
竿代 照夫 牧師
 
ネヘミヤ記9章38節,10章28-39節
 
 
[中心聖句]
 
  39   こうして私たちは、私たちの神の宮をなおざりにしないのである。
(ネヘミヤ記10章39節)


 
1.真実な悔い改め(9章、復習)
 
 
先週は、聖書の歴史を学びなおしたイスラエルの民が、先祖達を含め如何に神の掟から離れていたかを悟って真実な悔い改めを行ったこと、そして、これからは律法に忠実であることを約束したというところまでお話しました。特に彼らが悔い改めた罪は5つです。@裏切り:神の誠実を裏切る罪;A不服従:律法を守らない罪;B無関心:警告を無視する罪;C忘恩:恵を忘れ、主に仕えない罪;D頑固:悪から立ち返らない罪

今日は、その約束の中身について少し詳しく学び、私たちへの教訓を捉えたいと思います。
 
2.堅い盟約を結ぶ(9:38−10:29)
 
 
「9:38 これらすべてのことのゆえに、私たちは堅い盟約を結び、それを書きしるした。そして、私たちのつかさたち、レビ人たち、祭司たちはそれに印を押した。」
 
・堅い決意(9:38):
彼らは、歴史をしっかりと学んだ後に、もうこのような過ちは二度と繰り返すまいという堅い決意をもって「盟約」を結びます。その決意の固さが「堅い(忠実な)盟約」となったのです。そしてそれは新しい契約でした。今までの失敗を教訓として、主の新たな顧みと助けを期待する新契約であったのです。神との新しい関係を築こうとしたのです。

・署名者(10:1−27):
「そして、私たちのつかさたち、レビ人たち、祭司たちはそれに印を押した。」この盟約に署名した人々は40人ほどですが、その多くは家族を背景としていましたから、実質的署名者は40人より多かったことでしょう。さて、その署名の後、捺印されました。柔らかい粘土に署名し、それに熱を加えて恒久的なものとしたようです。

・のろいと誓い(10:28−29):
「このほかの民、祭司、レビ人、門衛、歌うたい、宮に仕えるしもべたち、また、国々の民と縁を絶って神の律法についた者全員、その妻、息子、娘たち、すべて理解できるまでになった者は、彼らの親類のすぐれた人々にたより、神のしもべモーセを通して与えられた神の律法に従って歩み、私たちの主、主のすべての命令、その定めとおきてを守り行なうための、のろいと誓いとに加わった。」署名者だけではなく、その家族や周辺の人々も、この盟約に「のろいと誓い」をもって加わりました。「のろい」というのは、盟約を破ったならば、どのような災いが降りかかろうとも、それを覚悟していると言う意味です。誓いは、当然、盟約の内容を実行すると言う誓いです。
 
3.盟約の内容(10:30−39)
 
 
どんな約束かの詳細が10:30−39までに記されています。その要点は6項目です。
 
@異教徒と結婚しない(30節):それは偶像礼拝を避けるため→クリスチャンの結婚のあり方
 
 
「10:30 すなわち、私たちの娘をこの地の民たちにとつがせず、また、彼らの娘を私たちの息子にめとらない。」
 
イスラエルに取って、民族の純血を守ることは、非常に大きな宗教的意味を持っていました。混血は、その配偶者の背景にある異教との妥協を意味していましたから、それを避けることが繰り返し強調されていました。しかし、実際には、混血の例は後を絶たず、この契約の後にもその傾向が見られたことがこのネヘミヤ記13章に記されています。少なくとも、ここで署名をした人々は、外国人との縁を切った人々でした(9:2)から、その決意を際表明したものと思われます。さて、私たちクリスチャンに当てはめて考えると、クリスチャンがクリスチャンと結婚すると言う大原則を示します。勿論、私はこれを絶対的な律法とは取りませんし、結婚を通して信仰に導かれるという積極的な意味もあることを頷きます。しかし、大原則はしっかりと保持しなければなりません。
 
A安息日を守る(31節a):礼拝が(商売より)最優先であることを示す→聖日礼拝の大切さ
 
 
「たとい、この地の民たちが安息日に、品物、すなわち、いろいろな穀物を売りに持って来ても、私たちは安息日や聖日には彼らから買わない。」
 
週の一日を礼拝の日と定め、他の活動をしないことがユダヤ人であることの証であり、アイデンティティの確保の道でした。この決まりは、今日に至るまで、しっかりと保たれています。ネヘミヤ時代の課題は、安息日を認めない異教徒との商売をどうするか、という現実的なものでした。捕囚から帰ってきたユダヤ人は、パレスチナにおいて少数派でしたから、安息日の何たるかを知らない圧倒的な数の異教徒に囲まれていましたから、この原則を守ることは容易ではありませんでした。周りの異教徒達は安息日にエルサレムを訪れて商売をしようとしました(13:16)。この人々を無視すれば、商売のチャンスを失うことにもなったからです。今日の日本人クリスチャンが、聖書を殆ど知らず、その原則を行っていない社会の中で戦っているのと似ています。ネヘミヤと仲間達は、商売の機会を失っても、安息日を礼拝のために守ろうと決意しました。さて、今日のクリスチャンは、安息日制度をどのように受け継ぐべきでしょうか。私は、旧約の安息日をそのままの形で日曜日に当てはめる必要はないと思っています。パウロが、日、月、などの決まりで私たちは縛られないと言っている通りです(コロサイ2:16)。しかし、週に一日を聖なる日と定めて、普段の活動から離れて礼拝のためにこの用いることは大切と信じています。律法の決まりとしてではなく、そのスピリットを酌むものでありたいと思います。
 
B安息年を守る(31節b):土地の安息と借財帳消し
 
 
「また、私たちは七年目には土地を休ませ、すべての負債を取り立てない。」
 
7年に一年を安息の年と定めて、すべての活動から解き放たれる、この制度は、安息日ほどの厳格さでは守られなかったようです。安息年の前年は倍の収穫があり、翌年にも豊かな収穫が約束されているから、安息年を守れと言うのがレビ記の定めですが、人々はそこまで、収穫の豊かさを信じ切れなかったようです。第二歴代36:21には、イスラエルが長年に亘って安息年制度を無視してきたので、神が無視された年々を積算して70年間の安息を強制的に与えた、それが捕囚であったと解説しています。とても興味深い歴史の見方ではないでしょうか。さて、安息年のもう一つの目的は、借財の帳消しです。これについては5章で詳しく話しましたので省略します。当時のイスラエル人にとってこれは切実な課題であったと思われます。さて、欧米の大学ではサバティカルイヤーという名前で、6年間大学で教えると7年目には休みを与えられて自由な研究と急速をするという制度があります。わが中目黒教会でも、会計とCS教師については、この制度を持っていますが、もっと拡げる必要があるかなと思います。
 
C神殿維持費を負担する(32−33節):(ペルシャ帝国への税金に加えて)生贄の費用として
 
 
「私たちは、私たちの神の宮の礼拝のために、毎年シェケルの三分の一をささげるとの命令を自分たちで定めた。これは、並べ供えるパンと、常供の穀物のささげ物、また常供の全焼のいけにえ、また、安息日、新月の祭り、例祭のいけにえ、聖なるささげ物、また、イスラエルの贖いをなす罪のためのいけにえ、さらに、私たちの神の宮のすべての用途のためであった。」
 
出エジプト30:13には神殿の維持のために年毎に半シェケル納めなさいと記されています。ネヘミヤ記では1/3シェケルとなりました。多分、貨幣価値の変動などによるものでしょう。彼らは、神殿維持だけではなく、ペルシャ帝国への重税も負担していました。ですから1/3に減額したのかもしれません。でも彼らは喜んで奉げることにしました。その目的は、神殿における生贄のためでした。
 
D燃料を提供する(34節):祭壇の生贄のために
 
 
「また私たち、祭司とレビ人と民とは、律法にしるされているとおり、私たちの神、主の、祭壇の上で燃やすたきぎのささげ物についてのくじを引き、毎年、定まった時に、私たちの父祖の家ごとに、それを私たちの神の宮に携えて来ることに決めた。また、私たちの土地の初なりと、あらゆる木の初なりの果実とをみな、毎年、主の宮に携えて来ることに決めた。」
 
献金だけではなく、現物献品も推奨されていました。神殿での薪についてはくじ引きで、農業の収穫の初物は現物献品で、という形です。非常に具体的ですね。ケニアでの話を思い出します。現金をもっていない人が現物の捧げものをする例が良くありました。羊、鶏、ジャガイモなどなど、主は喜んでそれを受け取ってくだいました。
 
E主の奉仕者の必要を満たす(35−39節):初物と十分の一献金(品)→月定献金
 
 
「また、律法にしるされているとおり、私たちの子どもと家畜の初子、および、私たちの牛や羊の初子を、私たちの神の宮に、私たちの神の宮で仕えている祭司たちのところに携えて来ることに決めた。また、私たちの初物の麦粉と、私たちの奉納物、およびあらゆる木の果実、新しいぶどう酒と油を、祭司たちのところに、私たちの神の宮の部屋に携えて来ることにした。また、私たちの土地の十分の一はレビ人たちのものとした。レビ人が、彼ら自身で私たちの農耕するすべての町から、その十分の一を集めることにした。38 レビ人が十分の一を集めるとき、アロンの子孫である祭司が、そのレビ人とともにいなければならない。レビ人はその十分の一の十分の一を、私たちの神の宮へ携え上り、宝物倉の部屋に納めなければならない。39 この部屋に、イスラエル人とレビ人たちは、穀物や、新しいぶどう酒や油の奉納物を携えて来るようになっているからである。そこには聖所の器具があり、また、当番の祭司や門衛や歌うたいもいる。こうして私たちは、私たちの神の宮をなおざりにしないのである。」
 
祭司、レビ人など礼拝の奉仕のためにフルタイムで当たっている人々の生活上の必要を満たすことが一般イスラエル人の務めでした。この箇所では実に細かくそのサポートシステムが規定されています。それは、農業の収穫の初物を奉げること、また、その十分の一を奉げることでした。レビ記27:30に「地の十分の一は、地の産物であっても、木の実であっても、みな主のものである。それは主の聖なるものである。」と記されています。暫く、この制度が絶えかけていたのですが、ネヘミヤの時代に再確立しました。そして、これが礼拝の指導に携わる人々の生活を支える原資となりました。マラキ書などには、十分の一を捧げない事が神に対する泥棒行為だとまで記されています(マラキ3:8)。私たちクリスチャンは、十分の一献金を掟としてはもっていません。しかし、恵として、特権として、この十分の一を維持したいものです。私たちの教会では月定献金という形がそれに相当します。文字通り十分の一にしなければならないと言うわけではありません。税金を引いた手取りか、総額からかという議論もそんなに意味はありません。感謝して、おのおの自分に定めたように行えばよいのです。ただ、月定献金を無視して、教会の責任あるメンバーでございますと言うことは決してありえません。もし、この点でキチンとしていない方があれば、今月から主に対する契約として始めてください。私たちのクリスチャンは、フルタイムで献身しているスタッフを良き心遣いをもって支える必要があります。私もスタッフの一人ですから、余りこの面を強調したくはない面がありますが、しかし、聖書の教えですからはっきりと語ります。霊の物をもって養いを受ける信徒達は、肉の物をもって指導者達を支えるべきです(1コリント9:11)。
 
4.盟約の主眼
 
 
このようないくつかの決まりの眼目は何かといいますと、それは礼拝共同体をしっかりと立ち上げることでした。

・礼拝は、神と民とを結ぶ絆:
エルサレムの城壁が完成した今、その内実を深めるのは、礼拝が定期的に、意味深く、妨げられずに捧げられることでした。礼拝の継続によって、彼らは神の民として自覚し、神に従う生活に進むことができたのです。

・礼拝は、神の民同士を結ぶ絆:
捕囚から帰還したばかりのイスラエルの民にとって、律法に定められた通りの礼拝儀式を継続することは容易ではありませんでした。しかし、この少数の帰還者たちは、この重荷を喜んで背負って行こうという決意を表明したのです。そのための協力が、この契約の眼目でした。このような礼拝をしっかり守ることで、帰還ユダヤ人の結束は固められていきました。これがなければ、ユダヤ人はバラバラの民族になって行ったことでしょう。ですから、礼拝に加わることは、神と人とを繋ぐと共に、礼拝者同士を結ぶ絆でした。

・私たちへのチャレンジ:
翻って、私たちは、21世紀の東京と言う環境において礼拝共同体の確立のために戦っています。「私たちの神の宮をなおざりにしない」だけではなく、神の宮における礼拝の営みを大切にし、教会の運営に責任をもって加担する態度を、あらゆる形で表したいものです。それは、ネヘミヤ時代以上に大きなチャレンジです。神の民が共に集まり、活ける主に礼拝を奉げ、それによって互いの絆を深める、それが礼拝共同体の基礎です。そして、その共同体の維持のためには、一人ひとりが、祈りにおいて、奉げものにおいて、奉仕において、責任あるパートを担っています。そのために、一人一人がこのネヘミヤ時代の署名者に似た厳粛さをもって、主の前に誓いを立てたいものです。
 
お祈りを致します。