礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2011年11月20日
 
「世界の光」
宣教聖日に因み
 
竿代 照夫 牧師
 
マタイ福音書5章13-16節
 
 
[中心聖句]
 
  14   あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
(マタイ5章14節)


 
聖書テキスト
 
 
13 あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。
14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
 
はじめに
 
 
今日は、教団の宣教聖日で、特に国外に使わされている宣教師のために祈り、サポートし、さらに新たな宣教師候補を募る日です。さらに、今日(厳密に言うと4日後)は、現会堂を献堂して8周年を記念する日でもあります。もう一つ言えば、昨週の特別伝道会を終えて最初の日曜日でもあります。それらのことを思い巡らしつつ、主イエスの「山上の垂訓」から、「世界の光」としての私たちの存在意義を考えたいと思います。
 
A.世にあるキリスト者:「地の塩・世の光」
 
1.八つの祝福の続き
 
 
主イエスは弟子達に向かって「あなたがたは地の塩、世界の光」と語られました。この譬えは、山上の垂訓の冒頭の「幸いなるかな」で始まる八つの祝福(ベアティトュード)に続いています。八つの祝福の最後は「正義のために迫害される者の幸い」で終わっていますが、「地の塩、世の光」とは、真実な信仰者を迫害するような世の中にあって、恐れずに輝け、塩気を失うなという極めて現実的な勧めです。
 
2.私達はキリストの命という塩を持っている
 
 
主イエスはここで、「あなたがたは、地の塩です」と言っておられます。「地の塩になりなさい」でもなく、「なればよいですね」でもなく、「既に地の塩なのです」と語っておられます。つまり、キリストに従うという人々には、その心の中に「塩気」が与えられているのです。生まれ変わってキリストの命を頂いていることが、もう塩を持った人間なのです。文頭の「あなたがた」は強意で使われています。他ならぬあなたがた、弟子たるみなさんよ、という主の信頼が込められています。
 
3.塩の役割
 
 
塩には二つの大切な働きがあります。

@味を付ける:
塩は食物に味付けをします。スープに塩を入れなかったら、味気ないものになります。僅かの分量でも、あると無いでは大違いです。キリスト者はこの社会にあって、無くてはならない味付けです。家庭で、職場で、学校で、隣近所で、キリスト者が存在するだけで、その場所が明るくなり、和みます。

A腐敗を防止する:
塩は保存材料です。魚、肉、野菜などに塩を振りかけますと、腐敗防止に役立ちます。聖書の時代にも保存食を作るために塩は大切な役割を果たしていました。キリスト者も、この腐敗傾向にある世にあって腐敗を止める働きをします。塩味をもったキリスト者がおり、社会の悪に対して賛成しない態度を示すことで、この世の悪の進行に歯止めが掛けられます。大勢が悪に走った時でも、はっきりとノーと言える存在は大きな助けです。日本が戦争一色になったとき、勇気をもって疑問を投げかけたのは(全部でなかったことは残念でしたが)何人かのクリスチャンでした。
 
4.塩気を保つ
 
 
塩がもしその効力を失ったら、という言い方は現代的に考えるとちょっと分かりにくいものです。イスラエルでは、岩塩という塩分を含んだ岩を「塩」と呼んでいたので、その岩塩が水気を吸って塩分を失ってしまったら塩としての役に立たない、という意味で、「塩が塩気を失う」と言う方になるのです。麻袋に詰められてる岩塩の底の部分は湿気のために塩分が失われて、塩気が殆どなくなっている、という場合がありました。このような「塩」は道路の穴を埋めるしか役に立たない、という意味で、主は「もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」と語られたのです。同様に、キリスト者がその塩気を失い、社会の悪にすべて妥協し、これは必要悪だ、仕方がないと言ったならば、それこそ塩気を失った塩となってしまいます。そうは言っても、実際問題として、地の塩であるということはたやすくはありません。会社がみんなグルになって他の会社と談合して不正入札をしているときに、それを一社員がノーと言えるか、実際問題となるとそう簡単な答は出ません。しかし、知恵を用いて、適切に、効果的にノーと言うことは可能ですし、必要であります。主はそのような証を望んでおられます。
 
B.行動と言葉を通して証しする
 
1.私たちは光である
 
 
・光源体は主:
「私は世の光」と言われる主イエスが、弟子達に向かって「あなたがたは、世界の光です。」と語られました。彼等は本当の意味では光源体ではないかも知れないが、キリストの光を照らし映す光なのです。「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」(ヨハネ1:9)とありますように、クリスマスでは光としてこられたキリストを祝います。その光の中に神の愛と真理が含まれていました。そのキリストが「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」と語られました(ヨハネ8:12)。キリストの中に真理があり、清さがあり、喜びと幸せがあるのです。

・私たちはその光を反映する:
塩の場合もそうでしたが、主イエスはここで、「あなたがたは世界の光です」と断言しておられます。光となれ、光であるように努力せよではなくて、光なのです、と語っておられます。どんな意味なのでしょうか。彼等は本当の意味では光源体ではないかも知れないが、キリストの光を反映する光なのです。キリスト者はキリスト者として存在するだけでも光り輝くものです。山の上にある町が周りの町々から隠れて存在する事はあり得ないのと同じです。周りの人々に、あの人はどうして逆境のなかにいても明るく振る舞えるのだろう、喜んでいられるのだろうという不思議さを感じさせる存在となりうるのです。教会の一人の兄弟が教会に導かれたきっかけは、職場にいた同僚がクリスチャンであった、その人が他の人とは違う輝きを持っていたからだと言っておられました。すばらしいことです。
 
2.光を放つ
 
 
・光を高く掲げる:
光は自然にも輝きますが、より一層その光を輝かせるように期待されています。主イエスはここで、光になれという命令ではなくて、光を高く掲げなさいという命令をしておられます。「あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。」と光を隠してはいけないことを示唆しておられます。私達は「私は会社や学校の仲間に自分がクリスチャンであることを知らせないで3年もいます。私は『隠れキリシタン』なんです。」といったように軽い意味で使いますが、こんな言い方は徳川時代の隠れキリシタンからは叱られてしまうでしょう。その頃の隠れキリシタンは、表はお地蔵さんだが裏には十字架を刻んだり、アルファやオメガというギリシャ文字を刻んだりという形で彼らの信仰を必死で守ろうとしていたのです。それに比べると、クリスチャンであるゆえに首が飛ぶこともない現代の私達が隠れキリシタンなどと簡単に自称してはならないと自戒させられます。もちろん、証をするといっても、宴会か何かの席でみんなが飲んでいる最中に襟を正して、「では証をさせていただきます」という形が相応しいとは思えません。自然な形でよいのです。何かで誉められたとき「いえ、そうでもありませんよ。」と謙遜する代わりに、「私はダメな人間なんですけど、イエス様に会って、変えていただいたんです。」位は言えるのではないでしょうか。

・光を強く放つ:
「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」という最後の命令の中に示唆されているのは、良い行い、積極的な愛の行いによる証です。良い行いをやってやるぞというショウでないことは、もちろんです。ごく自然で良いのです。でも恥ずかしがらずに行いましょう。電車の中で、お体の不自由な方が立っておられたら、「どうぞ」と譲ることだって良いのです。一番良いのは、こうしたことを余り意識しないで行えるような、内なる恵みに富むことですが、最初は意識しても良いと思います。偽善的なことはするな、などと言って何にもしないよりはずっと良いのです。冬が近づいて、東北のボランティアの数が減りつつありますが、このようなときこそ、時間と機会の許せる方、クラッシュジャパンに申し出てみてはいかがでしょうか。良き業を行うときの心のあり方は、神の恵みが与えられているから、その恵みに押し出されての自分なんだ、という恵みに対する感謝と信頼によるものです。その時初めて、「天におられるあなたがたの父があがめられ」すのです。

・光を遠く放つ:
ここで譬えられている光は、三つの段階の光です。
@一つは、家庭内の光です。私たちが先ず証する場が家庭であることを示唆します。
Aもう一つは、社会です。山の上にある町という譬えがそれを現しているようです。その町が周りの町々を照らします。
Bもう一つは、世界です。新改訳聖書がworldという言葉を「世界」と訳したのは名訳であると思います。「世」とも訳することができるし、それでよいとは思いますが、日本語で「世界」と「世」とはニュアンスが違います。世は世間一般、世界とは国にとらわれない広い世界のことです。主は「あなたがたは世界の光です」と語り、私たちに世界の光となることを期待しておられます。今日は宣教聖日です。キリストの光を携えて地の果てまで行かれた宣教師のために祈り、支えましょう。また、私の証人となれと主は語っておられます。
 
おわりに
 
 
私たちが「世界の光」として主に信頼されていることを感謝しましょう。そして、私たちに与えられた光をより高く、より積極的に、より遠くまで輝かせましょう。
 
お祈りを致します。