礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2011年11月27日
 
「尋ね求めている主が」
アドベント第一聖日
 
竿代 照夫 牧師
 
マラキ書3章1-4節,4章1-6節
 
 
[中心聖句]
 
  1   あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、来ている。
(マラキ3章1節)


 
聖書テキスト
 
 
3:1「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、来ている。」と万軍の主は仰せられる。2 だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現われるとき立っていられよう。まことに、この方は、精練する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ。3 この方は、銀を精練し、これをきよめる者として座に着き、レビの子らをきよめ、彼らを金のように、銀のように純粋にする。彼らは、主に、義のささげ物をささげる者となり、4 ユダとエルサレムのささげ物は、昔の日のように、ずっと前の年のように、主を喜ばせる。
4:1 見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行なう者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。――万軍の主は仰せられる。―― 2 しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、癒しがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。3 あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行なう日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ。――万軍の主は仰せられる。―― 4 あなたがたは、わたしのしもべモ-セの律法を記憶せよ。それは、ホレブで、イスラエル全体のために、わたしが彼に命じたおきてと定めである。
5 見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。6 彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」
 
はじめに
 
 
アドベント第一聖日を迎えました。これから四週間、メシアを待ち望んだ昔の聖徒達のように、クリスマスを待ち望みつつ、日々を送りたいと思います。

さて、今年はずっとネヘミヤ記を学び、ネヘミヤが模索した礼拝共同体というテーマ考えてきましたので、ネヘミヤとほぼ同時代の預言者が、メシアをどのように待ち望んだかを見たいと思います。旧約聖書最後の預言者マラキを取り上げます。
 
1.マラキ預言の背景
 
 
・マラキという人:
マラキの意味は、「我が使者」です。人物についての説明は本文中に一切ありませんので、推測する以外にないのですが、ネヘミヤと同時代であったことが預言の背景となった状況から推測されます。マラキは、旧約時代最後の預言者であり、旧約と新約との橋渡しをした人物と言えます。年代的には、BC440年頃と考えられます。

・マラキの時代:
マラキが描いている時代の社会的・宗教的状況は、ネヘミヤが抱えていた問題と驚くほど似ています。例えば、
@神の愛への疑い(1:2)
A神への畏敬の念の喪失と礼拝の形骸化(1:6−7)
B外国人との結婚(2:11)
C離婚(2:14−16)
D弱い者たちへの圧迫(3:5)
E十分の一の怠り(3:8−10)
F信仰の形骸化(3:13−14)
この状況は、ネヘミヤが不在をしていた期間であったと言う注釈者もありますが、正確なことは言えません。いずれにしても、捕囚から帰ってきて、神殿は建て直され、城壁は再建され、町の仕組みも整えられ、特にエルサレムが「礼拝の共同体」としての形を整えては来ましたが、その内実はお寒いものでした。
 
2.マラキ預言の内容
 
 
マラキの預言は、神は生きておられる、悪を裁き、真実なものに祝福を与えなさるとの約束が主でした。さらに、メシアは間もなく来たり給うという希望を伝えました。その裁きと祝福が与えられるのが「その日」と呼ばれるメシア来臨の時です(3:2、4:1、5)。3:1aと4:5−6は、主がその使いを送り、道を備えることを預言し、3:1b−4はメシアご自身の来臨について預言します。マラキの描くメシアおよび先駆者は、罪をきよめる者としての側面を強調します。
 
3.メシアの先駆者(3:1a、4:5−6)
 
 
・道を備えるもの:
「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。」(1節a)とは、メシアの先駆者の出現の預言です。このことは、イザヤによっても預言されていました。「荒野に呼ばわる者の声がする。『主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ』。」そしてこの預言は、バプテスマのヨハネによって実現しました。「彼は言った。『私は、預言者イザヤが言ったように「主の道をまっすぐにせよ。」と荒野で叫んでいる者の声です。』」」(ヨハネ1:23)さらに、マルコ福音書は、バプテスマのヨハネについてこう語ります、「預言者イザヤの書にこう書いてある。『見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。荒野で叫ぶ者の声がする。「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。」』そのとおりに、バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いた。」(マルコ1:2−4)驚くべき預言ではないでしょうか。

・彼は「エリヤ」的である:
先駆者の野人的風貌、その鋭いメッセージは、正にエリヤを髣髴とさせるものでした(マタイ11:14)。

・彼は、人と人、神と人を和解させる(4:5−6):
彼の使命は、審判的要素を持ったメシアの出現の前に、人々の心を整え、その審判を回避させることです。「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」「子の心をその父に向けさせる」という意味は、家庭内、世代間、社会階層間の和解です。人間相互の和解は、神と人との和解から生まれます。このメッセージは、バプテスマのヨハネ誕生の告知としてザカリヤに告げられた内容と全く一致します。ザカリヤは、その子の使命についてこう告げられます、「そしてイスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます。彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子供たちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」(ルカ1:16−17)
 
4.メシアの出現(3:1b−4)
 
 
メシアご自身については、「あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、来ている。」と表現されています。

・このお方は「主」:
「主」(ハ・アドン=神なる主)とは、神ご自身です。具体的には、人となり給うた神でのことです。

・契約の使者である:
受肉した神であり、エレミヤ、エゼキエルが預言した新しい契約の創始者としておいでくださるのです。古い契約は、人間の罪ゆえに廃棄されました。しかし、律法を心の中に植え込んで、神に従う自主的な心を育てるのが新しい契約です。その契約を齎すのがメシアです。エゼキエルは、「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。」(36:26−27)と言います。また、エレミヤも、「見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。――主の御告げ。――彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――主の御告げ。――わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。――主の御告げ。――わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」(31:31−34)と預言しています。

・祭司と罪人を清める:
金属を不純物から精錬する火のように、また、着物の汚れを洗い落とす灰汁のように、徹底的な聖めが約束されます。これも、主がバプテスマを受けたときバプテスマのヨハネによって宣言され、ペンテコステにおいて成就されました。

・その主の出現は、祈りの答えとしてである:
エレミヤ29:13に「心を尽くしてたずね求めるなら」とありますが、そのような求めのことです。それはメシア待望の祈りとなって続けられました。その祈りは、ザカリヤ、シメオン、アンナ、その仲間達によって真剣に続けられてきました。ルカを見ましょう。2:25ではシメオンが「イスラエルの慰め」を待ち望み、キリストを見るまで死なないとまで告げられていました(2:26)。アンナは、エルサレムの贖いを待ち望む祈祷会の重要なメンバーでした(2:38)。その一人ひとりの祈りが積み上げられ、発火点に達したとき、祈りが答えられ、キリストが来臨されたのです。
 
5.私達への挑戦
 
 
・祈りをもって待ち望もう:
このように見ると、クリスマスは自動的に起きたのではない、祈り求められた方として来られたことが分かる。私達も同じように、再臨の主を求めている。祈り求めによって起きる。また、私達は信仰の覚醒を求めている。それも真剣な祈りによって起きる。その祈りが聞かれ、メシアが出現されることは、私達にとって無上の喜びである。私達も真剣な祈りに加わり、その答えの故に無上の喜びに与りたいものである。

・メシアのきよめを頂こう:
何よりも、そのメシアが来られた目的は、人々を清めるためであったことを確認しましょう。そして、私たちもそのきよめに与るものとさせていただきましょう。
 
お祈りを致します。