礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2011年12月4日
 
「自分で私の羊を捜し出し」
アドベント第二聖日
 
竿代 照夫 牧師
 
エゼキエル書34章7-16節
 
 
[中心聖句]
 
  11   まことに、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。
(エゼキエル34章11節)


 
聖書テキスト
 
 
7 それゆえ、牧者たちよ、主のことばを聞け。8 わたしは生きている、――神である主の御告げ。――わたしの羊はかすめ奪われ、牧者がいないため、あらゆる野の獣のえじきとなっている。それなのに、わたしの牧者たちは、わたしの羊を捜し求めず、かえって牧者たちは自分自身を養い、わたしの羊を養わない。9 それゆえ、牧者たちよ、主のことばを聞け。10 神である主はこう仰せられる。わたしは牧者たちに立ち向かい、彼らの手からわたしの羊を取り返し、彼らに羊を飼うのをやめさせる。牧者たちは二度と自分自身を養えなくなる。わたしは彼らの口からわたしの羊を救い出し、彼らのえじきにさせない。
11 まことに、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。12 牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。13 わたしは国々の民の中から彼らを連れ出し、国々から彼らを集め、彼らを彼らの地に連れて行き、イスラエルの山々や谷川のほとり、またその国のうちの人の住むすべての所で彼らを養う。14 わたしは良い牧場で彼らを養い、イスラエルの高い山々が彼らのおりとなる。彼らはその良いおりに伏し、イスラエルの山々の肥えた牧場で草をはむ。
15 わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らをいこわせる。――神である主の御告げ。――16 わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。わたしは、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う。
 
はじめに
 
 
アドベント第二聖日を迎えました。先週は、マラキ書から、私たちが尋ね求めるお方としてのメシア、罪をきよめるお方としてのメシアを学びました。今日は、矢張り捕囚時代の預言者であるエゼキエルから、羊飼いとしてのメシアへの待望を学びます。
 
1.エゼキエルについて
 
 
・BC597に連行された捕囚第一グループ:
エゼキエルは、バビロンがエルサレムを攻略したBC597年に連れて行かれた、バビロン捕囚第一グループの一人です。捕囚から3年後、彼はケバル川の辺りのユダヤ人入植地で預言を始めました。

・審判的預言(1−32章):
エゼキエルの預言の前半は、厳しい裁きの宣言です。人々は、バビロン捕囚という裁きを受けながらもその意味を深く理解しないで、「神は私達の国とその都エルサレムを守られる」という根拠のない期待をもっていました。そんな同胞に対して、「淡い期待を持ってはならない。神はイスラエルとエルサレムをその罪の故に、徹底的に滅ぼされる。」と語りました。それが前半の1章から32章です。

・慰めの予言(33−48章):
33章から預言の内容ががらりと変わって、希望と慰めに満ちた調子になります。そのきっかけは、彼の捕囚の11年後、BC586年に起きたエルサレムの最終的な陥落・破壊です。これによってイスラエルの淡い期待を砕かれ、絶望のどん底に突き落とされたのです。預言者とは不思議なもので、一般の人々と反対の事を見、語ります。エゼキエルは、「絶望するのではない。神はその民をもう一度回復させなさる。」と預言を始めました。その一環が、34章の「羊飼い」のメッセージです。ここでは、羊飼いの心を持たない羊飼い(指導者)によって痛めつけられたイスラエルの民が、本当の羊飼いによって回復される絵が描かれています。
 
2.羊を飼わない羊飼い(政治的・宗教的指導者)
 
 
34章前半では、「羊飼い」に譬えられるイスラエルの政治的・宗教的指導者が、羊をケアしないで自分を肥やしている状況(特に2節)を厳しく糾弾しています。指導者達の姿を見ると本当に暗澹とした気持ちになります。それは、昔だけではなく、今にも通じるものが多分にあるからです。エゼキエルが描いている当時の指導者像はどんなものでしょうか。

・自分たちを肥やす:
「自分を肥やしている・・・脂肪を食べ、羊の毛を纏う、肥えた羊を食べる」(2−3節)とありますように、羊のことを自分達の利用の対象としか考えないのです。勿論、羊飼いが、羊の毛を利用し、限られた範囲で羊を食べることはありうるでしょう。しかし、それは飽くまでも十分なケアを行なった結果としてであって、何のケアもしないで搾り取るだけでは、悪代官と同じです。「彼らの餌食」(10節)との言葉はもっと直接的に、指導者が民を食い物にしていることを表しています。

・ケアをしない:
「弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず・・・」(4節a)羊は弱い動物です。寄生虫やダニなどに蝕まれ、暑さ寒さに弱く、ちょっとしたことで傷を負い、それによって弱り、死に至るのです。羊飼いは、ただ杖をもってあちこち移動するだけではなく、一頭一頭細かい配慮をもってケアしなければ、生きていけません。しかし、これらの羊飼いは、弱い羊や病気の羊をただほおって置くだけです。「羊飼いが見た詩篇23篇」という本があります。実際に羊を飼っていたケラーという人はケニア生まれですが、カナダで農業を学び実践した人です。ケラーは、その羊飼いとしての経験から、自分の隣の農場の悪い羊飼いのことを描写していますが、正にこのエゼキエルの絵とぴったりです(p.30−31)。

・散らされた羊を捜し求めない:
「迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず」(4節b)ご存知のように、羊は方向音痴の傾向があるのです。道を迷い、そのままになってしまうことが多々あります。しかし、これらの羊飼いは、迷った羊は迷ったほうが悪いとばかり、ほうっておくだけです。

・暴力的支配をする:
「かえって力ずくと暴力で彼らを支配した。」(4節c)そして言うことを聞かない羊がいると体罰を加えて従わせようとしました。何とも恐ろしいパワハラです。

この指導者達の姿は、捕囚前の指導者達の姿でした。ユダ最後の王様であるゼデキヤは、バビロンによって包囲された時には、「今降伏して、自分と民を救いなさい」という預言者エレミヤの言葉を聞かず、かえってエレミヤを迫害していました。しかし、篭城が長引き、これ以上抵抗は無理と思われたときに、彼は秘密の通路からエルサレムを脱出して自分だけ生き延びようとしました。捕囚以後の指導者達も同様でした。ゼデキヤの前の王であったエホヤキンは、バビロンで生き延びていました(エレミヤ52:31−34)が、その同胞を顧みることはありませんでした。今の時代も、独裁者が次々失脚していますが、同じようなピクチャーを見ます。
 
3.羊飼いのいない羊
 
 
このような指導者によって導かれる民は災難です。エゼキエルは民の状況を以下のように描写します。

・欠食と病気のまま:
「弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、傷ついたものを包まず、・・・」(4節a)

・野山に散らされたまま:
「彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。わたしの羊はすべての山々やすべての高い丘をさまよい、わたしの羊は地の全面に散らされた。尋ねる者もなく、捜す者もない。」(5−6節)これは、全世界に散らされたイスラエルの状況を物語ります。

・野獣の餌食となった:
「あらゆる野の獣の餌食となり・・・わたしの羊はかすめ奪われ、牧者がいないため、あらゆる野の獣のえじきとなっている。」(5、8節)野の獣とは、アッシリヤ、バビロンのような武力を背景とした大帝国が牙をむき出しにして、少数民族を痛めつけている様を表しています。エゼキエルは、イスラエルが経験している捕囚は、強欲で自己中心的な指導者が原因だと糾弾しているのです。
 
4.主ご自身が羊飼いとなる
 
 
・神ご自身が乗り出す:
「まことに、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。」(11節)神はイスラエルに指導者を立て、彼らを通して民をケアしようとなさいましたが、指導者がその務めを果たしていない状況にたまりかね、ご自身が乗り出してくださると宣言されました。「わたしは自分でわたしの羊を捜し出し」という言葉がその気持ちを表しています。他人任せではない、自分でやるよ、という物凄い意欲をこの言葉に見ます。ちょうど、負けチームの監督が、リリーフピッチャー、リリーフピッチャーが皆ノックアウトされるのにたまりかねて、自分がマウンドに立とうとするようなものです。具体的には、メシアと呼ばれる救い主を通してです。「わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしのべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。主であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデはあなたがたの間で君主となる。主であるわたしがこう告げる。」(23−24節)とあるように、メシアをダビデの子孫からリリーフエースとして送り出すことを約束されました。

・羊を探し出し:
「見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し・・・」(11節)そのメシアは、良い羊飼いとして、失われた羊を探し出す優しいお方です。「わたしの羊を捜し出し」とは、何と慰めと励ましに満ちた言葉でしょうか。自力で這い上がって来いとか、自分の努力と修業で私を求めなさいではなく、神が私たちの迷い出たその道筋を尋ね、捜し求めて、その迷いから救い出そうとしておられるのです。ルカ15:4−7に、迷い出た羊を見出すまで尋ねもとめた羊飼いの物語がありますが、主は本当の羊飼いであってくださいます。

・羊の世話をする:
「・・・これの世話をする。牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。わたしは国々の民の中から彼らを連れ出し、国々から彼らを集め、彼らを彼らの地に連れて行き、イスラエルの山々や谷川のほとり、またその国のうちの人の住むすべての所で彼らを養う。わたしは良い牧場で彼らを養い、イスラエルの高い山々が彼らのおりとなる。彼らはその良いおりに伏し、イスラエルの山々の肥えた牧場で草をはむ。わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らをいこわせる。――神である主の御告げ。――わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。」(11−16節a)この預言は、バビロンを滅ぼしたペルシャ王のクロスによって部分的には成就しましたが、究極的には、来るべきメシアによって成就すべきものでした。イザヤもまた、力ある主権者であると同時に、優しい羊飼いとしてのメシアについて預言しています。「見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。」(イザヤ40:10−11)ヘンデルのメサイアの中でも、“He shall feed his flock like a shepherd”の旋律は誠に美しく感動的です。

・乱暴な羊や野獣をさばく:
「わたしは、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う。」(16節b)「それゆえ、神である主は彼らにこう仰せられる。見よ。わたし自身、肥えた羊とやせた羊との間をさばく。あなたがたがわき腹と肩で押しのけ、その角ですべての弱いものを突き倒し、ついに彼らを外に追い散らしてしまったので、わたしはわたしの群れを救い、彼らが二度とえじきとならないようにし、羊と羊との間をさばく。わたしの群れよ。あなたがたについて、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは、羊と羊、雄羊と雄やぎとの間をさばく。・・・彼らは安心して荒野に住み、森の中で眠る。」(22―25節)良き羊飼いは、羊同士の争いを鎮めます。乱暴なボス羊を戒め、弱い羊を守ります。
 
5.主イエスによる成就
 
 
・羊を探すために来られた:
エゼキエルの預言は570年後のキリスト誕生によって成就しました。主イエスは、地位も高く、金持ちでありながら、孤独と罪責感に苛まれていたザアカイという男に対して、「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:10)と語られました。ザアカイだけではなく、神の愛から遠く生活している人々を探して救うために、神は人となり、彼らの側に生活し、神の愛に立ち戻るように招いておられます。

・十字架で命を捨てられた:
主イエスは、当時の宗教指導者が自分の利益しか考えない「盗人、強盗である」そして、「雇い人であって、羊のことを心に留めない」と厳しく糾弾されました(ヨハネ10:8、13)。そして、良い羊飼いとは羊を知り、羊の先にたって指導し、羊に牧草を与えるものだと語り、究極は、羊のために命を捨てる(3、4,9,11)と宣言されました。「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(10:11)最も大事なことは、主イエスは、十字架の上で文字通り羊のために命を捨てなさったことです。
 
おわりに:よい羊飼いとしてのメシアを迎えよう
 
 
私たちの救い主・メシアが、「よい羊飼い」としておいでくださったことを心から感謝しましょう。羊である私たちを、誰彼に任せるのではなく、「わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。」とご自分で世話をしてくださいます。しかも、「わたしの羊」と呼んで・・・。このような羊飼いを与えられたことを感謝し、このお方を信頼し、従って行きましょう。
 
お祈りを致します。