礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2011年12月11日
 
「日の出が、いと高き所から」
アドベント第三聖日
 
竿代 照夫 牧師
 
ルカの福音書1章67-79節
 
 
[中心聖句]
 
  78,79   これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。
(ルカ1章78,79)


 
聖書テキスト
 
 
67 さて父ザカリヤは、聖霊に満たされて、預言して言った。68 「ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、69 救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。70 古くから、その聖なる預言者たちの口を通して、主が話してくださったとおりに。71 この救いはわれらの敵からの、すべてわれらを憎む者の手からの救いである。72 主はわれらの父祖たちにあわれみを施し、その聖なる契約を、73 われらの父アブラハムに誓われた誓いを覚えて、74-75 われらを敵の手から救い出し、われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される。
76 幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え、77 神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。
78 これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、79 暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。」
 
はじめに
 
 
アドベント第一と第二は、旧約の預言者達のメシア預言を通して、彼らが待ち望んでいたメシア像を学びました。今日はメシア到来を告知されたザカリヤを通して、預言の成就の喜びを学びます。今日のテキストである67−79節は、メシアの先駆者ヨハネの父ザカリヤが主をほめたたえた賛歌です。その背景から学びます。
 
1.賛歌の背景
 
 
・ユダヤ王ヘロデ(BC40−4年)の時:
5節には、「ユダヤの王ヘロデの時に、アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。」と、ザカリヤの時代が紹介されています。イスラエルの捕囚以来、ペルシャ(BC6世紀)、ギリシャ(BC4世紀)、ローマ(1世紀)という世界帝国によって、パレスチナは植民地支配を受け続けます。エドム人ヘロデは、ユダヤの支配階級と姻戚関係を結び、ローマの支配者と援護でユダヤ王になりました。彼は多くの親族や政敵を殺し、過酷な支配を続けました。そんな暗黒の時代は、民衆の間に強いメシア待望を生み出します。メシアの来臨を祈る特別な祈りのグループがエルサレムの神殿内に生まれ、アンナとかシメオンという人々は自分の目の黒い内にメシアが現れるという御告げ迄受けていました。ザカリヤもメシア待望祈祷会のメンバーであったと思われます。

・祭司ザカリヤ:
ザカリヤ(名前の意味は「主の記念」)は祭司でした。その妻エリサベツと共に「神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行なっていた。」(6節)のです。多くの祭司が住まいとしているエリコではなく、ユダの山地の小さな町を住まいとしていたことでも、その生活の質実さが分かります。しかし、問題がひとつありました。「エリサベツは不妊の女だったので、彼らには子がなく、ふたりとももう年をとっていた。」(7節)のです。子供が与えられるように家庭礼拝のたびに祈っていましたが、それも半ば諦めの祈りとなっていました。

・神殿での奉仕:
「さて、ザカリヤは、自分の組が当番で、神の御前に祭司の務めをしていたが、祭司職の習慣によって、くじを引いたところ、主の神殿にはいって香をたくことになった。」(8−9節)当時イスラエルには二万人近い祭司がいましたが、彼らは24組に分かれていて、交替で一年に2週間神殿の奉仕をします。そして、その組の中でくじ引きに当たった人が聖所での奉仕をすることになっていました。しかも、くじが当たると、二度と籤を引いてはならないという決まりがありましたから、この勤めは、ザカリヤにとって最初で最後でした。ザカリヤは、この記念すべき晴れ舞台の朝、身を清め、恐れと戦きをもって主に仕えるそなえをしました。

・天使のみ告げ:
「ところが、主の使いが彼に現われて、香壇の右に立った。・・・ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。・・・彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子供たちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」(11−17節)神殿で香を焚き、順序どおりの礼拝を捧げていたザカリヤに天使が現れ、メシアの先駆者であるヨハネがザカリヤ・エリサベツに生まれることを告げるのです。

・不信仰的な答えと叱責:
「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。」(18節)ザカリヤの祈りは見事に答えられたのですが、いざ本当にそのことが起きると告げられて、動転してしまいます。主の恵みを単純に捉える代わりに、一歩引いたような言葉が出てきてしまいました。こんな年寄り達にどうして子供ができようかと言ってしまったのです。冷静に考えてみれば、アブラハムやイサクの例もあり、決してありえないことではないのに、つい疑いの言葉が先に出てしまいました。これに対して天使は、「見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、おしになって、ものが言えなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。」(20節)ザカリヤは、必ず実現する神の言葉を信じなかった不信仰のゆえに口が利けなくなりました。勤めの期間を終えて自宅に戻ったザカリヤを、妻のエリサベツは温かく迎えました。沈黙の10ヶ月、ザカリヤは旧約聖書からメシア預言を学び直し、その期待感を強めて行きます。

・ヨハネの誕生と命名:
「さて月が満ちて、エリサベツは男の子を産」見ました(57節)。ザカリヤが、「書き板を持って来させて、『彼の名はヨハネ。』と書いた」時、彼の口が開け、舌は解け、ものが言えるようになって神をほめたたえた。」(63−64節)のです。因みに、ヨハネは「主の恵み」という意味です。ザカリヤは、それまで暖めてきた自らの不信仰への反省と神の恵への感謝の爆発を賛歌という形で表しました。
 
2.賛歌のテーマ:神の救い
 
 
ザカリヤの賛歌はその出だしの「誉むべきかな」という言葉から「べネディクトス」と呼ばれています。彼の賛歌のテーマは神の救いでした。この12か節の歌の中に、「救い」という言葉が5回(69、71、74、77節)、「贖い」が一回(68節)出てきます。彼の子供ヨハネが神の大いなる救いの管として用いられること、その後に来るキリストを通して神の救いの到来する事をザカリヤは予見しました。その救いの内容は3つです。

・敵からの救い:
イスラエル民族は、隷属状態から解放され、全人類はサタンによる罪の力への隷属状態から解放される(71、74節)

・恐れからの救い:
様々な恐れの中でも最大である死の恐れから、十字架によってみな解放される(75節)

・豊かな人生への救い:
きよい心と正しい行い、喜びから来る奉仕、それらを可能とする力を与えて下さる。しかもそれは、私達の全生涯を通じてである(75節)

なんと豊かな救いを主は与えようとしておられることか、ザカリヤの心は高鳴りました。
 
3.賛歌の根底:神のあわれみへの感謝
 
 
・「あわれみ」とは「契約の愛、忠実な愛」:
ザカリヤの賛歌の根底にある思想は、神のあわれみでした。「あわれみ」は3回(72、78節)、類語である「顧み」、「訪れ」、「覚え」も出てきます。ここで使われている「あわれみ」というギリシャ語はエレオスですが、ザカリヤの心にあったことばはヘブル語のケセドであったと思われます。というのは、ヘブル語聖書がギリシャ語に翻訳された時、ケセドは殆どエレオスと訳されたことがそれを物語っているからです。ケセドとは、真実さ・愛・あわれみを合わせたような言葉で、「契約の愛、忠実な愛」のことです。オズワルト博士は、ケセドとは「たとい契約の相手が不誠実であっても、誠実に寛容を示される神の愛・忠実さ」あると言っています。聖書に出てくるとき、このことばは「信じられないほど忍耐深い」神を示しています。このケセドがどのように現れたかをザカリヤの賛歌では、二つの面から述べています。

・誠実さ:
68節でザカリヤは「主はその民を顧みて(<エピスケプトマイ=よく見るために行く、とか、世話をするために訪問する、と言う意味>・・」、72,73節では「その聖なる契約を、われらの父アブラハムに誓われた誓いを覚えて」と言いながら、神がそのお約束を忘れなさらなかったことを感謝しています。ではどのような約束なのでしょうか。それは預言者達、父祖達を通して与えられたメシア預言です。旧約時代最後の預言者マラキから400年経過し、もう忘れられたのかという思いを打ち破って、神が「訪問してくださった」という感激が、彼を包みました。神は約束を守って、「訪問してくださる」神です。

・心を照らす光:
ザカリヤは、メシアによって齎される救いを朝日が天から指してきた、と感じたのです。78節を味わって見ましょう。「これ(76−77節に記されている、ヨハネが救いの知識を与えるという奉仕全体)は、神の深いあわれみ<スプラックマ エレウース=憐れみの腸、他の痛みを見ると自分の腸も痛むそのような同情>によるもので、そのあわれみによって朝日<アナトレー=アナテロー(立ち上がる)から来た名詞で日の出、または月の出>が高いところ<ヒプスース=ヒプソス(高さ、しばしば、神の別表現として使われた)>から私たちに訪れた<エピスケプトマイ=68節にも出てきた言葉で、「よく見るために行く、とか、世話をするために訪問する」と言う意味>のです。」朝日は普通水平方向から来るものですが、ザカリヤにとっては天から差してきたように思えました。これに興奮しなくて、何に興奮したら良いのでしょうか。預言者たちも、メシアの来臨が、日の出のように訪れることを予告していました。「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現われる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。」(イザヤ60:1−3)また、マラキも「わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、癒しがある。」(マラキ4:2)この光は、「暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし」ます。これも旧約聖書のメシア預言を反映した言葉です。イザヤは、「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」という預言に関連して、「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。」(イザヤ9:2、6)とメシア誕生を預言しています。

・ザカリヤ個人の感謝:
ザカリヤが、このように神のあわれみを感謝しているのは、彼個人に与えられた神のあわれみを感じていたからです。枯れたような老人夫婦に子どもが与えられたこと、こともあろうにその子どもがメシアの先駆者という光栄を与えられていること、神の御言を疑って叱られた不信仰な者を見捨てずに包んで受け入れてくださったその神のあわれみを考えると、感謝感動以外の何物もありませんでした。
 
おわりに:私たちへのあわれみ
 
 
私達も、この当時の人々と同じように、「暗黒と死の陰にすわる者」です。特に、今年のクリスマスは未だに復興の道筋が見えてこない大震災の影響を受けながら、いわば重苦しい時期に迎えるクリスマスです。しかし、それだからこそ、私たちは神のあわれみに目を向けるのです。約束を守り給う真実さ、暗きものを訪問してくださるその憐れみ、冷たい心を温かく包んでくださる恵、不信仰のものを赦して回復してくださるそのあわれみ、その恵みに頼り、感謝し、甘えるものでありたいと思います。

「そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし」という言葉の確かさと深さを噛み締めるクリスマスでありますように。
 
お祈りを致します。