礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2011年12月18日
 
「わがたましいは主をあがめ」
アドベント第四聖日
 
竿代 照夫 牧師
 
ルカの福音書1章46-56節
 
 
[中心聖句]
 
  46-   わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。
(ルカ1章46-48節)


 
聖書テキスト
 
 
46 マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。48 主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。49 力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、50 そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。
51 主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、52 権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。54 主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。55 私たちの先祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」
 
1.マリヤの賛歌の背景
 
 
この「マリヤの賛歌」はそのラテン語の出だしである「あがめる」から、マグニフィカートと呼ばれています。その背景を簡潔に述べます。

・マリヤへの受胎告知:
主の母であるマリヤは、ガリラヤの寒村であるナザレで受胎告知を受けます(31−33節)。

・エリサベツを訪問:
その知らせを、ユダの山地に住んでいる親戚のエリサベツに伝えに行きました(39−40節)。

・エリサベツの賛歌:
マリヤを迎えたエリサベツは、大声で神を賛美します(42節)。不可能を可能とする神の言葉を信じきったマリヤ、それ故に女の中で一番祝福されたマリヤ、救い主の母となったマリヤへの祝福を、賛美します。

・マリヤの応答:
そして、それに対するマリヤの応答がこの歌です。エリサベツとの違いは、その穏やかさです。「マリヤは言った」(46節)とありますように、静かに、そして謙って主を賛美するのです。
 
2.ハンナの賛歌との比較
 
 
さて、マグニフィカートの特徴は、その千年も前に、不妊であったハンナに子供(サムエル)が与えられたとき、感謝の心をもって歌われた歌と並行しているという点です。特に下記二つの節をマリヤのそれと比べてみてください。

・神への賛美:
マリヤは言います、「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。」(46−48節)これに比べてハンナは、「私の心は主を誇り、私の角は主によって高く上がります。私の口は敵に向かって大きく開きます。私はあなたの救いを喜ぶからです。」(1サムエル2:1)大変似ています。

・神による逆転:
マリヤは「主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。」(51−53節)これもハンナの賛歌と似ています、「主は、貧しくし、また富ませ、低くし、また高くするのです。主は、弱い者をちりから起こし、貧しい人を、あくたから引き上げ、高貴な者とともに、すわらせ、彼らに栄光の位を継がせます。まことに、地の柱は主のもの、その上に主は世界を据えられました。」(1サムエル2:7−8)神が人間の立場を逆転なさると言う発想が共通です。

マリヤは、ハンナの賛歌を良く学び、覚えていました。マリヤは、聖書を良く学ぶ敬虔な生い立ちをしたということが伺えます。しかし、マリヤは、ここでハンナの賛歌をそっくり復唱したのではなく、自分なりに消化した物として、自分の賛歌として歌ったのです。もっと言いますと、ハンナの賛歌は、勝利の感情の高ぶりから生まれていますが、マリヤのそれは、落ち着きと謙遜が際立っています。
 
3.賛歌の内容
 
 
さてマリヤの賛歌は、三つの部分から成り立っています。

@46節―49節b:マリヤに示された神の憐れみ

A49節b―53節:一般の人々に示された神の業
・神を恐れる者への憐れみ
・高ぶる者、権力者、富める者を低くする
・低い者を高め、飢えた者を満ちたらせる

B54−55節:イスラエルへの顧み
 
4.神の恵みの表れ
 
 
マリヤの賛歌の中から、神の恵みがどのように現れるかを、下記の7つの側面から学ぶことができます。

@目を留める恵み:「卑しいはしために目を留め」(48節)

A奇跡を行う恵み:「力ある方(ホ デュナトス=able, mighty, powerful,可能なお方、力強いお方、力に満ちたお方)が、私に大きなこと(メガレー=大きなこと、栄光に満ちていること、素晴らしいこと、人間の常識では考えられないような奇跡的なこと、素晴らしいこと、心を弾ませ、心を喜びで満たすような業)をして・・・」(49節)

B主を恐れる者を憐れむ恵み:「そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって」(50節)

C低い者を高くあげる恵み:「低い者を高く引き上げ」(52節)

D供給する恵み:「飢えた者を良いもので満ち足らせ」(53節)

E覚える恵み:「いつまでも忘れないで」(54節)

F助ける恵み:「しもべイスラエルをお助けになり」(54節)

これらは今年の私達の感謝の材料でもありましょう。この年、私達になされたみ業を数えましょう。人間の通常のコースでは考えられない事柄が、この年豊かに与えられたのではないでしょうか。感謝しましょう。「大きな」目立つような出来事ではなかったかもしれませんが、小さなことでも積み重ねてみると、「大きなことだったんだ」ということが分かるでしょう。
 
5.卑しい自分の自覚
 
 
・マリヤの謙り:
48節でマリヤは「主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。」(主はそのはしための低くされた状態を顧みて下さった)と語っています。マリヤは自分を卑しいものという自覚を持っていたのです。それは38節にも現われています。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と言っています。尤も、マリヤとて誇ることがありました。光栄あるダビデの子孫だったからです。しかしダビデから見ると千年、子孫といってもかなり薄まっていたことでしょう。実際、彼女は庶民の中の庶民でした。聖書の描くマリヤは、全く平凡な少女です。特別な金持ちという訳でもなく、大工さんの嫁になるはずの田舎の少女です(大工さんは、その当時は余り高い地位ではありませんでした)。そうした比較上の謙りよりも本質的なものは、神の前の謙りです。ですから「主のはしため」と言ったのです。マリヤが自分を「いやしい」と言っているのは、彼女が何かまっとうではない仕事や立場を持っていた訳ではなく、聖なる神の前に出たときに、真に小さく、卑しいものだとの自覚です。その謙遜の故に彼女は救い主の母として選ばれたと私は思います。「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」(1ペテロ5:5)後のペンテコステの記事を見ますと、聖霊を求める祈りのグループに、マリヤが加わっていたことが記されています。

・イスラエルの低い状態:
マリヤは、自分が低い状態にあるだけではなく、イスラエル全体も卑しい状態に置かれていると認識していました。54節には「主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。」低くされた者の代表として、イスラエルが引き合いに出されています。イスラエルは今や外国に蹂躙されています。その王家であるダビデの末裔も貧しげな暮らしをしています。しかし神はイスラエルを祝福するという約束をお忘れにならないで、救いの御手を伸べようとしておられます。

・人間一般の低い状態:
自分を卑しいと感じたマリヤよりも、私たちはさらに卑しいものです。人間は元々偉大なる神の御目から見れば、卑しく小さい、虫のような存在に過ぎません。自分が低い、卑しいものという自覚は、神を畏れる真実な畏れへと私達を導きます。「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」(詩篇 8:3、4)と。今日私達は「誇り」の時代に生きています。教育の誇り、民族の誇り、富の誇り、社会的地位の誇り、社会的な知識や科学技術の誇り、などなど、私達は神なしに何でも出来ると考えがちです。誇りこそ現代の大きな病です。しかし、今年の地震災害は、人間の誇りを打ち砕いてしまいました。人間の小ささ、無力さをいやというほど知らされてしまったのです。この年のクリスマス、私たちはどんな年に勝って、主の前に謙って祈るものでありたいと思います。
 
6.神の顧み
 
 
実は、神は卑しいと自覚しているものを顧みなさいます。「だれが、われらの神、主のようであろうか。主は高い御位に座し、身を低くして天と地をご覧になる。主は、弱い者をちりから起こし、貧しい人をあくたから引き上げ、彼らを、君主たちとともに、御民の君主たちとともに、王座に着かせられる。」(詩篇 113:5―8)「まことに、主は高くあられるが、低い者を顧みてくださいます。しかし、高ぶる者を遠くから見抜かれます。」(詩篇 138:6)マリヤが、自分の卑しい状態を自覚した時、主は彼女に「目を留めてくださった」のです。卑しい状態なのに、というよりは、卑しい状態だから、と言ったほうが正確でしょう。顧みるとは、最も優しく同情的な態度で好意的に見て下さるということです。その理由は私の中にある価値ではなく、単純に神の親切と愛の故なのです。主は謙るものを顧みなさいます。
 
7.神への賛美
 
 
・「主を拡大する!」:
この神の顧みは、マリヤを大きな賛美と感謝へと導きました。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」マリヤは、この感激をもって主を崇め、神を喜びたたえます。「あがめる」とは、「大きくする」(magnify)という意味です(メガルノーは、「大きくする」、「拡大する」、という原意から、「高める」、「賛美する」という意味に使われる。因みにメガスとは大きいということで、今日でも、メガバイトとかメガロポリスとか頻繁に使われています)。神は元々偉大なお方ですから、私たちが大きくしなくても、大きなお方です。その大きなお方を大きな方として認めることが「崇めること」です。

・自分の小ささを認める:
反対の言い方をすれば、神を崇めるということは、自分で大きな顔をしないということです。自分が何者かであるという驕りが頭をもたげると、その分、神の意識と出番を小さくしているのです。しかし、マリヤを見ましょう。彼女は、自分の小ささ、卑しさを深く自覚していました。その小さな自分を大きな愛と憐れみをもって包んでくださった神の大きさを讃えたのです。

私たちも、このクリスマスに当たって、その憐れみの大きさと深さを覚えて、心からの感謝をささげましょう。マリヤと共に、「わがたましいは主をあがめる」と心から主を讃えましょう。
 
お祈りを致します。