礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2011年12月25日
 
「『ことば』が人となった」
聖誕節講壇
 
竿代 照夫 牧師
 
ヨハネの福音書1章1-18節
 
 
[中心聖句]
 
  14   ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
(ヨハネ1章14節)


 
聖書テキスト
 
 
1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。2 この方は、初めに神とともにおられた。3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
6 神から遣わされたヨハネという人が現われた。7 この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。8 彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。
9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。13 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。15 ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。』と私が言ったのは、この方のことです。」16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。17 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。
 
始めに
 
 
2011年のクリスマス、おめでとうございます。今年は大地震と津波、そして原発事故など歴史上稀な大災害に見舞われた忘れ難い年でした。本当に厳しい一年でありました。そのような暗い時代であればあるほど、「光として来られた」キリストの恵みを深く感じます。

ヨハネ福音書1章は、この世に来られたキリストの序論です。この紹介文を通して、「ことばが人となった」という聖句の意義について思い巡らしたいと思います。
 
A.「ことば」とは(1−5節)
 
 
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」
 
1−5節は言葉について、6つのことを語っています。
 
1.はじめから存在していた(1節a):
この文語訳「元始(はじめ)に言葉あり」が大変有名で、「言葉」と言うところに他の文字を入れ替えて使われることがしばしばです。例えば、「『はじめに消費税ありき』の議論はいかん」というような言い方です。それらの元は、ヨハネ1:1にあります。ことばは、世のはじめから存在していました。

2.神と共にあった(1節b、2節)

3.神であった(1節c):
言葉が神と共にあり、神である、という不思議な言い方は、三位一体を前提にしなければ分かりません。つまり、この神を父なる神に置き換えて、子なる神が父なる神と共にあり、そのお方も神であった、という声明なのです。一つでありながら、別な人格を保ちなさる、これが三位一体の教理です。

4.万物を造った(3節):
これは、宇宙の創造が、神の言葉によってなされたことと関連があります。三位一体としての「子なる神」は、父なる神と対話をされる理性的存在であり、父なる神の心を言葉によって表された方であり、その言葉によって世界は成り立ったのだと言うことです。神が「光あれ」と語られた言葉によって、「光があった」のです。

5.その中に命があり、人の光であった(4節):
キリストは万物の命の源であり、そのお方が光として世に来られたこと、彼に従うものに永遠の命が与えられると言う意味です。

6.闇はそれに打ち勝たなかった(5節):
神に逆らう勢力の存在が示唆されます。しかし、それは、詰まる所、キリストに打ち勝つことはできません。

このような言い方でヨハネは、キリストがクリスマスに突然誕生したお方ではなく、永遠的な存在がこの地上に降りてきたことを宣言するのです。それが14節です。
 
B.「ことば」は人となった(14節)
 
 
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」
 
1.神が人(肉)となった=受肉(14節a)
「人となる」と訳されていますが、元々は「肉となる」と言う意味です。ここから受肉という言葉がキリスト誕生に関して使われるようになりました。でも、肉となるという表現では読んだまま直ぐには分かりませんので、「人となる」と翻訳したものと思われます。それは、神であることを止めたのではなく、神でありつつ人となられたとヨハネは言うのです。人の形を仮に取ったのでもありません。100%人間であり、100%神でありつづけました。この真理は、理性では分かりかねますが、これが聖書の主張です。

2.人々の間に「幕屋張り」をした(14節b)
そのことが、「私たちの内に宿った」という言葉でダメ押しされます。受肉は一時的なものではなく、継続的なものだったのです。「内に宿った」とは「幕屋を張った」という語源です。「神が人の形をもって人々を訪れた」という事実は、旧約聖書に折々見られます。例えばアブラハムを訪れた3人の使いたち、彼らのうち一人がアブラハムのところに残りますが、会話の途中から、「私は」と言う言い方で「神は」という意味になっています(創世記18章)。サムソンの両親に現れたのも、「み使い」でありましたが、実は、神ご自身でした(士師記)。こうした出来事は、プレ・インカーネーション(受肉前の受肉)と言われます。限定的な時と所で、神は人の形を持って現れてくださったのです。しかし、主イエスにおける受肉は、そうした暫定的なものではなく、誕生から死まで、人間の生きる全ての過程を余すところなく経験されたという意味で、正に「幕屋を張って」住んでくださった受肉です。しかも、この著者であるヨハネは「私たちの間に」と言って、個人的な親しさをもって、キリストが彼と交わってくださったことを思い起こしています。

3.栄光に満ちていた(14節c、16−17節)
ヨハネは、イエスという方が、その生まれも育ちも全くフツーの人間として過ごされたことを知っていました。ヨハネは主イエスと親戚筋であったので、その感想をずっと持ち続けていました。しかし、イエスの弟子となって3年半、寝起きを共にするようになり、最後の十字架と復活を見ることによって、考えが変わりました。フツーの人間という衣の中に、神の栄光の輝きがあったことに気付いたのです。かぐや姫ではありませんが、天の光りを竹の中に閉じこめようとも、その竹を通して光り輝くようなものです。ヨハネは、人間としてのイエスの中に、神のご性質、特に溢れるような愛を見ました。ここで使われている「見た」という言葉は、チラッと見ることではなく、じっと見つめることです。ヨハネは、主イエスをじっと見つめ、そノ結果、主イエスとは、人となって下さった神だと感じたのです。
主イエスが神であるという事実は、「満ち満ちた豊かさ」という言葉で表わされています。神のすべてのご性質が、キリストのご人格の中に凝縮して込められているのです。このクリスマスの朝、ヨハネが見つめたように、うまぶねに生まれて下さったみどりごを、しっかり見つめましょう。馬ぶねのみどりごの中に、輝くような神の光りを認めたいと思います。
 
C.受肉の目的
 
 
新約聖書によれば、イエスにおける受肉の意味は、三つあります。

1.目に見えない神を紹介するため(18節)
 
「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」
 
もし、キリストの受肉という出来事がなければ、私たちは「神」に関する漠然とした知識以上のものは持ち得なかったと思います。しかし、神の豊かなご性質を凝縮して持っておられたキリストのゆえに、神を知ることができるようになったのです。

2.私たちと共体験をするため(ヘブル2:17−18)
人間とは、多くの弱さ、苦しみ、試練を抱えて生きている存在です。神が人となった、この事実は、キリストが普通の人間として、私たちと同じ体験をするためでした。ヘブル2:17は、キリストが「すべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。」と記しています。貧しさから来る辛さ、人々から捨てられる悲しみ、疲れから来る無力感など、私たちと「すべての点で」同じ経験をされました。ですから、今でも神の御前で、大祭司として執り成しておられるのです。「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」(18節)「いつくしみ深き友」という賛美歌にあるように、本当の友達となってくださったのです。

3.十字架の贖いを成し遂げるため(ヘブル2:14−15)
そして、最終的には、人間の最大の敵である「死」を経験するためでした。しかも、最大の苦しみと悩みを経験し、身代わりの死を遂げてくださるためでした。「子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」(ヘブル2:14−15)
 
終わりに:主の恵みをまっすぐ受け取ろう(16節)
 
 
「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」
 
神の恵みは、人となったキリストを通して豊かに注がれています。それを受けるための私達の側での条件は信仰です。「あなた方は恵みによって、信仰を通して救われたのです」(エペソ2:8)とあるとおりです。色々な教えが、これに何かを付け加えさせようとしますが、これは福音からの逸脱です。人間は傲慢ですから、自分でも何かが出来るという風に考えて、恵みの原理を薄めてしまおうとします。「恵みを知らないクリスチャン」という本に「福音主義のクリスチャンを悩ましている感情的・霊的トラブルの主要な原因は、神の無条件の恵みを受け損なっていること、そしてその恵みを他の人に与え損なっていることにある」と書かれています。さらに、「人間が最後に明け渡さなければならない砦は、自分で自分を救うことが出来ないと言う無力さを認めること」と言います。この弱さに徹すると、恵みが分かってきます。恵みの素晴らしさが実感されます。クリスマスと十字架に現れた神の恵みを素直に、感謝して受け取りましょう。
 
お祈りを致します。