礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2012年1月1日
 
「我が民を慰めよ」
年頭講壇
 
竿代 照夫 牧師
 
イザヤ書40章1-11節
 
 
[中心聖句]
 
  1   「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」とあなたがたの神は仰せられる。
(イザヤ40章1節)


 
聖書テキスト
 
 
1 「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」とあなたがたの神は仰せられる。2 「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。」
3 荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。4 すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。5 このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の口が語られたからだ。」
6 「呼ばわれ。」と言う者の声がする。私は、「何と呼ばわりましょう。」と答えた。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。7 主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。8 草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」
9 シオンに良い知らせを伝える者よ。高い山に登れ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ。力の限り声をあげよ。声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え。「見よ。あなたがたの神を。」10 見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。11 主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。
 
はじめに
 
 
明けましておめでとうございます。未曾有の災害を経験し、その影響を重く引きずりながらの越年でしたが、そうであればあるほど、主の大いなる慰めのメッセージが新年の御言として私の心に響きました。イザヤ40:1の「慰めよ」との御言を私たちへの語り掛けとして頂きたいと思います。

40:1に入る前に、この御言の背景を見ます。
 
A.「慰めのメッセージ」の背景
 
1.イザヤ書全体から見る
 
 
イザヤ書は66章から成る長い預言書です。それは大きく二つに分けられます。それを下の図に纏めます。

・前編(1―39章)は、イザヤの時代に対するメッセージで、イスラエルへの審判が基調です。

・後編(40―66章は)将来的メッセージで、イスラエルの回復がその基調です。特に後編では、やがて起こるであろうバビロン捕囚からの釈放に焦点が当てられます。しかし、イザヤはこの捕囚からの釈放だけを預言しているのではなく、このことに象徴されるキリストの贖いを預言しているのです。
 
2.40:1−11の位置と内容
 
 
40:1−11は、イザヤ書後編の序曲としての呼びかけです。その内容を要約すると、次のような表になります。

1)慰めの声(1−2節):
「1『慰めよ。慰めよ。わたしの民を。』とあなたがたの神は仰せられる。2 『エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼び。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。』」これは明らかに捕囚からの釈放を意味しています。その労苦(懲役)は終わった、咎は(メシヤの贖いの故に)帳消しとなった、その代償として、失った物の倍の祝福を受けたという宣言です。尤も、「受けた」ものの目的語がありませんので、それは祝福ではなく罰である、という解釈もあります。この場合は2倍も罰を受けたものと計算される、と理解できます。捕囚からの釈放は、イスラエルの民にとって、信じがたい、しかし喜ばしいものでした。しかし、もっと先には、この預言はキリストを通して成し遂げられる大きな贖いのみ業を示しています。私達が何かをしたからではなく、キリストご自身の贖いの業の故に、私達の全ての罪が赦さるのです。

2)備えよとの声(3−5節):
「3 荒野に呼ばわる者の声がする。『主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。4 すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。5 このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者(イスラエルだけではなく全世界の民)が共にこれを見る。主の口が語られたからだ。』」このアイデアはオリエントにおける王様の振舞いを良く反映しています。彼が通る所はどこでも、先遣隊が遣わされ、道をきれいにするのです。王様のたった一回のお通りの為に、凸凹道が平らにされ、曲がりくねった道も真直ぐにされ、谷は埋められて高くされ、峠道は削られて低くされる、といった具合です。イザヤは、捕囚からの帰還のために備えよ、というメッセージを象徴的な表現で示します。そして、このメッセージは、メシアとして来られる主の来臨に対する備えの必要を語ったものです。この預言は、福音の時代のための備えを行うバプテスマのヨハネで成就しました。ヨハネが悔い改めを説教したのは、正に、キリストを迎えるための露払い的な役割でありました。

3)福音の声(6ー8節):
「6 『呼ばわれ。』と言う者の声がする。私は、『何と呼ばわりましょう。』と答えた。『すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。7 主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。8 草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。』」人間が本来持っている力、命、栄光のはかなさが、神とその言葉の永遠性と比べられます。1ペテロ1:23−25は、この文章を引用し、その神と神の言葉に信頼する者の持つ永遠の命を保証します。

4)神の来臨を告げる声(9−11節):
「9 シオンに良い知らせを伝える者よ。高い山に登れ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ。力の限り声をあげよ。声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え。『見よ。あなたがたの神を。』10 見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。11 主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。」来るべきメシアの力強い統治、豊かな恵み、そしてその羊飼い的なケアが述べられます。良き羊飼いとしての主イエスの姿は、ヨハネ10章で遺憾なく発揮されています。
 
B.「慰め」のメッセージ
 
1.慰めは主から来る
 
 
語りかけの主体は主ご自身です。慰めに満ちた主が慰めの業をなしてくださることが、その背景にあります。「わたし、このわたしが、あなたがたを慰める。」(イザヤ51:12)と記されているように、人間的な慰めでは届き得ない真の慰めが主ご自身によって与えられるのです。
 
2.慰めを伝える預言者
 
 
語りかけられた対象は、「主の道を備えるべき」預言者です。彼は、主の業の道を備えるために、慰めのメッセージを伝えるべきなのです。打ちひしがれた神の民の中に入って、神の慰めを齎すのが預言者の務めです。私たちも悲しみの中にある人々に対して(自分の言葉で)慰めることは勿論ですが、神の慰めをもって慰める、そのような慰め手となりたいものです。
 
3.慰めを必要としている民
 
 
慰めのメッセージの対象は主の民です。捕囚の苦しみに遭って、そこに呻吟している民です。61:2―3には「すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。」とありますが、主に油注がれたメシアは、悲しみと憂いにある民を擡げるメッセージを伝えます。今正に、日本社会全体が悲しみに沈んでいます。主ご自身の慰めを必要としています。
 
4.実体(贖いの事実)の伴う慰め
 
 
慰めの内容について考えましょう。通常私たちの会話では、実体の伴わないことば、つまり、「気慰め」的な言葉が多いのですが、神の慰めは違います。実際的な救いという裏づけがあってのものです。「まことに主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。そこには楽しみと喜び、感謝と歌声とがある。」(51:3)とありますように、廃墟がエデンの園に変えられる、そのような変化を伴う慰めです。

40章の慰めの内容は、捕囚からの釈放です。その労苦(懲役)は終わった、咎は(メシヤの贖いの故に)帳消しとなった、その代償として、失った物の倍の祝福を受けるのです。歴史的には、クロス王の釈放令は、イスラエルの民にとって、信じがたいほど喜ばしいものでした。

しかし、もっと先には、この預言はキリストを通して成し遂げられる大きな贖いの業を示しています。私達が何かをしたからではなく、キリストご自身の贖いの業の故に、私達の全ての罪が赦された、と言うことは何という大きな恵みでしょうか。
 
5.「虚しい慰め手」エリファズ
 
 
話しが急に飛びますが、言葉だけの虚しい慰め手の例は、ヨブの友人のテマン人エリファズ、シュアハ人ビルダデ、ナアマ人ツォファルの3人です。彼らはヨブの苦難を聞いて、「ヨブに悔やみを言って慰めようと互いに打ち合わせて来た。」(ヨブ2:11)のです。「彼らは声をあげて泣き、おのおの、自分の上着を引き裂き、ちりを天に向かって投げ、自分の頭の上にまき散らした。こうして、彼らは彼とともに七日七夜、地にすわっていたが、だれも一言も彼に話しかけなかった。彼の痛みがあまりにもひどいのを見たからである。」(ヨブ2:12−13)とそこまでは良かったのですが、彼らはヨブの苦難を因果応報的な考えで捉えてヨブを非難し始めます。本当にヨブの立場に立とうとしませんでした。ヨブはそのような態度を見てこう言います。「そのようなことを、私は何度も聞いた。あなたがたはみな、煩わしい慰め手だ。むなしいことばに終わりがあろうか。あなたは何に興奮して答えるのか。」(ヨブ16:2−3)と。ああ、私たちは如何にしばしば、困った人々に慰めを与えたいと思いながら、本当にその人々の気持ちに沿えずに、傷に塩を塗ってしまうことでしょうか。
 
6.慰めを得て、伝えたパウロ
 
 
そこへ行くと、本当の慰め手として見ることができるのはパウロです。2コリント1:3−7を読むと、「慰め」という言葉が10回も出てきます。ここを読みながら、慰めの本質を思い知らされます。「3 私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神(神は慰めの源であり、慰めを専門とするお方)がほめたたえられますように。4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。(神からの慰めを自分が頂くことで、他人を慰めうる) 5 それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです(苦難が大きければ大きいほど慰めも大きい)。6 もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです(神からの慰めは、困難に絶える力を与える)。7 私たちがあなたがたについて抱いている望みは、動くことがありません。なぜなら、あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、慰めをもともにしていることを、私たちは知っているからです(苦難を共有するものは、慰めをも共有する)。」

苦難の中で、神からの慰めを得て、その慰めをもって、苦難にある人々を慰める使徒の姿を見ます。
 
7.私たちも慰め手となろう
 
 
私たちが社会に存在しているのは、「慰め手」としてであります。精神的にも物質的にも荒廃の中にある社会にあって、主が与えて下さる、中身のある豊かな慰めのメッセージを人々に伝える役割が期待されています。今日、如何に多くの批評家・評論家がいることでしょうか。私たちが必要としているのは、励まし手、慰め手としての信仰者の存在です。

私たちが神によって慰められると言う経験を頂いて、そして、その経験をもって他の人々を慰めるものとなりたいと思います。「キリストの心で」の中で、アフリカへの宣教師の実話が載っています。彼女は内戦の時現地兵士に乱暴されました。打ちひしがれている彼女に主は「彼らは私に乱暴したのだ。」と語られます。同じく乱暴され、打ちひしがれていたカトリックの修道女に対してこの言葉をもって慰めました(p.177−178)。主が私を慰めてくださる慰めこそ、他の人々を本当に慰める慰めです。「わたしをあなたの平和の道具にしてください」というアッシジのフランシスの祈りの一節に「ああ主よ、わたしに、慰められるよりも、慰めることを求めさせてください。」とあります。「主よ、私をあなたの慰めによって他を慰める慰め手としてください。」との祈りをもって、一年を始めましょう。
 
お祈りを致します。