礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2012年1月8日
 
「教会はキリストのからだ」
教会総会に向けて(1)
 
竿代 照夫 牧師
 
エペソ人への手紙1章17-23節
 
 
[中心聖句]
 
  23   教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。
(エペソ1章23節)


 
聖書テキスト
 
 
17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。20 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、21 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。22 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。
 
はじめに
 
 
新年を迎え、また、第64次総会を控えて、3回ほど、「エペソ書の描く教会像」を取り上げます。エペソ書は、教会を比喩的に捉えた表現が三つあります。一つはからだ、もう一つは建物、更に一つは花嫁です。順次三回に亘って考えたいと思います。

その前に、エペソ書の成り立ちと性質について簡潔にお話します。

・執筆者はパウロ:
エペソ書はパウロの幽囚時に書かれました(1:1)。

・宛先はエペソの信徒達(だけではなく一般的):
手紙の宛先はそこにも記されているように、エペソの信徒達ですが、それだけではなく一般的な回覧をも目的として記されたと思われます。

・年代はローマでの第一幽囚時(59−61年):
パウロは、カイザリヤで二年(57−59年)とローマで二年(59−61年)の合計四年間、牢獄での時間を過ごしました。それまでの三回に亘る忙しい伝道旅行から切り離されて、牢獄での静かな思い巡らしのときが与えられました。

・テーマは「教会」:
その思い巡らしの中でパウロは、彼自身が携わった現実に存在する諸教会を理想化したものとして、「あるべき教会」の幻を与えられました。勿論、この手紙の受け取り手であるエペソ教会の現実が手紙の中に反映されてはいますが、他の手紙と比べるとそのような要素が少ないのが特徴です。従って、教会のあるべき姿の理想が結晶しているのがエペソ書と言えましょう。

この手紙の中から、教会とは何か、という課題について、特に今日はその「からだ性」に焦点をあてて学んで見ましょう。
 
1.キリストにあって一つ
 
 
・相互に依存関係にある有機体:
パウロは、教会とは「キリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところ」(23節)と定義しています。教会とはばらばらの人間の寄せ集めではなく、相互に生命的な依存関係にある共同体(有機体)です。

・異なる文化背景のものが一つにされる:
このエペソという(ユダヤ人から見て)異邦人が主体となっている町にある教会として、ユダヤ人と異邦人との文化的障壁と敵対関係を葬ることによって「一つの体として」下さったこと(2:16)が強調されています。特に異邦人が「福音により、キリスト・イエスにあって、・・・共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということ」が奥義として示されました(3:6)。この奥義こそが教会を通して宇宙に証しされるべきでありました(3:10)。
 
2.その頭はキリスト
 
 
・宇宙における頭はキリスト:
教会の頭であるキリストは「いっさいのものの上に立つかしら」(22節)であり、「すべての支配、権威、権力、主権の上に」立つお方です(21節)。目に見える教会はローマ帝国の片隅の限られた存在であるかも知れないが、キリストはその小さな現実教会の頭であるだけでなく、世界と宇宙の主であり給う、という目に見えない霊的なリアリティをパウロは信じていました。例えて言えば、Jリーグのあるチームの監督が、日本代表チームの監督を兼ねているようなものです。キリストは、一つ一つの地域的教会の頭でもあり、それを束ねた全世界の教会の頭でもあり、さらに全世界の政治・社会・経済を掌握する頭でもあり給うのです。

・そのお方が教会の頭:
教会はキリストの体ですが、その頭はキリストなのです(23節)。別な言い方をすれば、キリスト以外のお方を頭と考えてはなりません。地域教会で言えば、牧師やその他の指導者が頭になってはいけませんし、メンバーもそのように考えてはなりません。教団の頭も、代表ではなく、キリストご自身です。全教会の頭も、法王ではなくキリストです。私たちは、誰か人間を頭と考え易いものですし、その方が組織が纏まるという利点はありますが、教会においては、その考えを厳に慎まねばなりません。

・教会は頭なるキリストに従う:
具体的に、どのようにキリストの「頭」性が現されるべきなのでしょうか。答えは一つです。その所属メンバーが、聖書の教えと聖霊の導きを通して示したまうキリストの指示に従うことで、キリストの頭性が発揮されます(5:24)。組織的な意味での指導者は存在しますが、彼もキリストに従うのです。メンバー全員が従うのです。それによってキリストの頭性が現されます。この年の営みについても、牧師が何かを言うからついていこうではなく、個人個人として、また、全体として、キリストの御心を求め、従って行こうではありませんか。
 
3.教会には神の力と恵みが充満している
 
 
教会とは、「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方が満ちているところ」(1:23)です。

・全宇宙において:
「いっさいのものを」とは、全宇宙のことです。

・神の力(20節)と恵み(2:4−6)が満ちており、:
「いっさいのものによって」とは、神の力、恵みのことです。

・教会をも満たしている:
そのお方が教会を満たしていると言うのです。神の力について言えば、キリストを死者の中から甦らせた全能の力です(1:20)。神の恵みについて言えば、罪と咎の中に死んでいた私達を生かし、天の所に座らせてくださった恵みです(2:4−6)。

私たちが世における教会の存在というテーマを考える時、世界という海のような巨大な存在の中で、小船が進んでいくと言う小さなイメージではなく、教会が世界をリードしているのだという高い見識を持つべきなのです。このような雄大な教会観こそが、21世紀の世界をリードし、新しい世界の秩序を建設し、この世界に平和と共生と成熟を齎すものです。
 
4.多様性の中の一致
 
 
・異なる賜物を持ったメンバー:
からだが多くの異なる部分をもちながら、それらが有機的に働いて、一つの行動を可能としているように、教会も、様々な賜物を持った人々がそれぞれの賜物を生かして、一つの目的=神の栄光をあらわすことに用いられるのです。つまり、キリストご自身が、「ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになった」(4:11)のです。

・それは「聖徒を整える」ため:
そして、その異なる肢々が、一つ目的に進んで行くのです。その目的とは「聖徒を整えること」(4:12)「整える(カタルティゾー、骨格などの再構築)」とはメンバーが働きやすいように環境を整え、必要な装備を提供することです。

・ゴールはキリストらしさ:
教会成長のゴールは、「キリストの身の丈に成長すること」(4:12−15)です。「私たちがみな、信仰の一致(御子を信じる信仰における一致)と神の御子に関する知識の一致(御子を知る知識における一致)とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」「かしらなるキリストに達する」といった句の要点は、キリストらしさが私達個人のものとなり、また教会全体として確立することです。「キリストの身たけにまで達する」このことは、3つの分野で一人一人のクリスチャンがキリストらしくなることです。
@信仰において:
「内なる人の強化」(3:16−19)されること、具体的には、信仰によってキリストを心の内に宿す、捉えること、キリストの愛の深さ、大きさを捉えるようになることです。
A知識において:
神をより深く知ること、特に私達に与えられた望み、嗣業、力の大きさを知るようになることです(1:17−19)。
B品性において:
キリストの満ち満ちた身の丈(これがクリスチャンの成長を計る計り)に至ることです。互いを愛する愛と神を愛する愛の大きさにおいて、キリストの愛にまで成長したいものです。
 
5.連帯する
 
 
・相互の生命的連結関係:
4:16に、「あらゆる結び目(=アフェー=関節:エピホレーゲオー=供給の為の)によってしっかりと組み合わされ(スンハルモログウメノス=joint together, fit or frame together=一旦ばらばらにした人体を再結合させる移植手術の絵がぴったり来るであろう)、結び合わされる(スムビバイゾメノス=bring together=共に結び付けられている=連帯、やや人為的な要素がある)・・・」と記されています。このアイデアは、信徒は連帯してこそ霊的な命を保ちうるという相互の生命的関係を表わしています。個々が主に結びつくことが基本ですが、同時に横なりのメンバー同士の繋がりも教会の命です。それは、霊的な結び付き、相互に励まし、祈り合う関係です。ちょうど炭火が一つでは燃えないように、私たちは合わさってこそ燃えることができます。その為の公的な集会であり、組会であり、スモールグループなのです。

・連帯の原動力は愛:
そして、その連帯の原動力は愛です。「愛のうちに建てられる」と記されている通りです。愛は、からだを建て上げます。これを建徳と言いますが、全てが建徳的なスピリットでなされることが大切です。破壊的な言動、空気、動機が支配してはなりません。醜い競争心、嫉妬、誤解、噂話、批判(その根本は自己中心)は教会の成長を妨げます。それと反対が愛です。全ての活動が主に対する愛と兄弟愛の現れとして行われるとき、主のからだは成長します。
 
終わりに
 
 
こうしたパウロの教会描写は、いわば「理想の教会観」ですが、現実の教会はというと、この通りではなく、多くの欠陥を持っています。しかし、教会の背後には、永遠的な、不可視的な神のご計画と青写真があり、神はそのように現実を動かしなさいます。この理想的教会の絵は、教会建設に携わる全ての人々に大きな励まし、目標を与えるものです。建築者が、建物を建てているときに、しばしば設計図に目をやって、その建物が設計図どおりに言っているかを確かめるように、私たちもこのからだ性を見つめつつ、私たちの現実の歩みに当てはめたいと思います。締め括りに三つ申し上げたいと思います。

1.大きな教会観を:
小さな教会観ではなく、神の宇宙的な視野から教会を見ましょう。

2.理想を求めよう:
現実の教会を見て幻滅しないようにしよう。主の理想に向かって近づくように祈り、励みましょう。

3.自分がはまる分野を:
教会の営みの中で、自分に当てはまる分野を考え、忠実にその務めを果たしましょう。
 
お祈りを致します。