礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2012年1月15日
 
「神の御住まいである教会」
教会総会に向けて(2)
 
竿代 照夫 牧師
 
エペソ人への手紙2章11-22節
 
 
[中心聖句]
 
  21,22   この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。
(エペソ2章21,22節)


 
聖書テキスト
 
 
11ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、12 そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。
13 しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。
14 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、15 ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、16 また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。17 それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。18 私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。
19 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。20 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。21 この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、22 このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。
 
はじめに
 
 
・キリストのからだのイメージ(復習):
教会総会を前にして、エペソ書から教会のイメージについて学んでいます。昨週は、キリストのからだとしての教会から、@一体性、Aキリストの主権、B神の力と恵みの充満、C多様性の中の一致、D連帯の必要という5点を学びました。

・建物に譬えられる教会:
今日は、建物に譬えられる教会を、特に2:19−22を中心に学びます。言うまでもありませんが、次の二点を確認します。

@教会≠建物:多くの人々は、教会というと建物と同一視していますが、それは誤りです。

A教会≒建物:しかし、教会は建物に譬えられます。1コリント3:9にも「あなたがたは、神の建物です」というイメージで描かれているからです。というのは、その土台がキリストであり、その中に住んでおられるのが聖霊だからです。

さて、どのような意味で、教会が建物と似ているのでしょうか。この文節から読み取れる点は5つです。
 
1.多様な素材の組み合わせ(19節)<イラスト@>
 
 
・異なる人々が家族に:
19節の「こういうわけで」というのは、異邦人という「神無く望み無く」罪の中を歩いていた人々が神の家族に入れられたという恵です。11−12節から拾い読みをしましょう。「あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、・・・無割礼の人々と呼ばれる者であって、そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。」しかし、「以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。」(13節)そして、異邦人とユダヤ人を隔てていた律法という壁を打ち砕き、キリストにあって一つとしてくださいました(14−17節)。そして、「私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。」(18節)と記されているように、異なった背景の人々が一体として神の御前に近づくのです。この手紙の受け取り手であるエペソ人クリスチャンは多く「異邦人」でしたから、自分たちは、ユダヤ人中心の教会においては「よそもの」という意識に陥りがちでした。パウロは、そうではなく、みんなが同じように「神の家族」になったと説くのです。主を受け入れたものに、「よそ者」はいません。私が〇〇年先にいたから、あなたは新入りで大きな顔をしてはいけないとか、私は〇〇代目のクリスチャンだから、クリスチャン一世は小さくなっていなさいとか、そんな区別は全くないのが教会です。みんなが家族なのです。

・支えあう建築素材:
全ての信仰者がそれぞれの場所に嵌められて、共に建てられ、共に御住まいとなります。彼にあって建物のおのおのの一片一片は、その隣と組み合って共に成長して神にささげられた宮となるのです。21節に「この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し・・・」とあるとおりです。昨週も強調しましたが、私たちは、一人ひとりかけがえのない一片なのです。私が欠けると建物が弱くなるのです。みんなが大切、みんながみんなを支えている共同体なのです。>
 
2.聖書の教えが土台(20節a)<イラストA>
 
 
・使徒たちと預言者たち:
「あなたがたは、使徒と預言者という土台の上に建てられており」(20節a)とあるのは、教会の土台が、キリストの直接の教えを受け、霊感を受けた使徒と預言者達の教えにあることを示します。使徒とは、在世中のキリストの直接の教えを受け、その弟子となった人々、つまり、ペテロやヨハネたちのことです。預言者とは、この場合、旧約聖書の預言者たちと言うよりも、新約時代の説教者達のことを指します。

・「聖書のみ」:
彼らの教えが凝縮したものが新約聖書です。彼らの人柄が大切なのではありません。また、彼らの後継者の権威を大切にせよというものでもありません。プロテスタントのモットーは「聖書のみ」です。人間は、色々な組織やカリスマ的な指導者に権威を求めたがるものですが、教会はそうあってはなりません。立てられた指導者を尊敬し、従う事は大切ですが、盲従ではありません。御言に照らして、教会が正しいことを教えているかどうか、正しい方向に進んでいるかどうか、一人ひとり吟味し、チェックしあうことが基本的に大切です。
 
3.隅の親石はキリスト(20節b)<イラストB>
 
 
・教えの中心はキリスト:
使徒達の教えの中心はキリストでしたから、土台の中の土台、つまり隅の親石はキリストであると言えるのです。「だれも、既に据えられている土台のほかに、ほかのものを据えることはできない。その土台とはイエス・キリストです。」(1コリント3:11)と記されている通りです。

・信仰の土台もキリスト:
教会の信仰の土台はキリストです。使徒たちが土台とはいっても、私たちはペテロを信じているわけではありません。主キリストだけが私たちの信仰の対象、土台です。「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。」(イザヤ28:16)人々には捨てられて、十字架に掛けられました。しかし、その十字架が救いのよすがとなったのです(詩篇118:22)。私たちの信仰の基礎はキリストへの単純な寄りすがりです
 
4.建築は続行中(21節)<イラストC>
 
 
・完成の時はない:
「建物の全体が成長し」とは、教会という有機体が継続して成長していくことを意味しています。つまり、中目黒の会堂も含めて普通の建物のように、ある日完成式を迎えるのではなく、絶えず増改築がなされ続けているのです。建物が成長するというのは不思議な概念ですが、私たちのような地震の少ない国の石造りの建築では珍しいことではありません。

・「ガウディの会堂」の例:
建物が成長する例として、世界遺産に登録された「ガウディの会堂」を挙げることができます。この会堂は、スペインのバルセロナにあるサグラダ・ファミリア(聖家族贖罪教会)です。2010年11月7日、ローマ法王が出席した献堂式に合わせて会堂の内部がほぼ完成ました。でもこれは完成ではありません。工事は1882年に始まりましたが、翌1883年、初代建築家が辞任しました。設計を引き継いだのがアントニオ・ガウディ(1852-1926年)でした。綿密に構成された象徴、放物線状アーチや、鐘楼に据えられた彫刻などで、大胆な建築様式を誇っています。生前のガウディが実現出来たのは地下聖堂などですが、これらは2005年にユネスコの世界文化遺産に指定されました。現在も建築が続くサグラダ・ファミリアは、先頭に十字架を抱いた高さ170メートルの主塔を含む塔10本の建設が残っており、完成までには少なくとも15年は要するとみられています。1926年6月10日に路面電車にひかれて死去したガウディの没後100年にあたる2026年までに、正面だけでも完成させたいと期待しているそうです。

  

・サイズにおいて成長:
さて、会堂の話から、教会の話に戻します。教会は数的にも、内容的にも成長を続けます。数的には新しい人々を受け入れて大きくなるということです。4:12の「キリストのからだを建て上げる」という表現は、福音の奉仕の結実として、魂が救われ、キリストの共同体がより充実する事が示唆されています。

・内容的成長:
さらに、内容的には、一人ひとりが、また、グループとして、よりキリストらしくなっていくことです。「私たちがみな、信仰の一致(御子を信じる信仰における一致)と神の御子に関する知識の一致(御子を知る知識における一致)とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」(4:13)「かしらなるキリストに達する」といった句の要点は、キリストらしさが私達個人のものとなり、また教会全体として確立することです。
 
5.聖霊が住み給う(21節b−22節)<イラストD>
 
 
・「御住まい」の意味:
教会の中に、主が住み給います。これが教会の価値であり、目的です。神の内住とは、聖霊が先ず個人々々に住み、その個人の集まりである教会に住み給うということです。個人が聖霊に導かれ、教会が導かれます。個人が満たされ、教会が満たされます。この場合個人の成長と、全体の成長は切り離せません。

・臨在の証:
初めて教会の集まりに来られた方も含め、すべての者が、「ここに神はいます」と、襟を正し、主を礼拝する教会となりたいものです。

・聖さが鍵:
特に清さこそが、その最大の特色です。聖霊は、清くない所に住み給いません。主の血潮を頂いて、個人として、また、共同体として聖い歩みを全うしたく願います。

・動力としての愛:
パウロは、3:17−19において「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」と祈っています。「愛に根ざし、愛を基とし」とは何を意味するでしょうか。それは@愛の建徳です。全ての言動が建徳的なスピリットでなされることです。破壊的な言動、空気、動機ではなく、互いを建て上げる心を持って会話をすべきです。「愛は人の徳を建てる」(1コリント8:1)からです。また、それは、A愛の動機です。全ての活動が主に対する愛に基づき、兄弟愛の現れとして行われることです。さらに、私は、B愛の機転という側面を考えたいと思います。愛がある時に働きは有機的になされます。例としてモーセが祈り、ヨシュアが戦うと言う具合に、全てが参加し、カバーし合って働く時にのみ、教会は建て上がって行きます。
 
おわりに:神の宮の一部とされた光栄を感謝しよう
 
 
私たちがともに主の宮の一員として召された幸いを感謝しましょう。そして、互いに建て上げていく群れとなりましょう。
 
お祈りを致します。