礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2012年1月22日
 
「教会は『キリストの花嫁』」
総会礼拝に臨み
 
竿代 照夫 牧師
 
エペソ人への手紙5章22-27節
 
 
[中心聖句]
 
  26,27   キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。
(エペソ5章26,27節)


 
聖書テキスト
 
 
22 妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。23 なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。24 教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。
25 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。26 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。
 
はじめに:エペソ書における教会のイメージ
 
 
教会総会の朝を迎えました。今まで二回に亘って、エペソ書における教会のイメージを見てきました。

@キリストの体:体は教会の一体性を強調しています。
A神の御住まい:このイメージは、内住のキリストを強調します。
Bキリストの花嫁:このイメージは、教会の聖さと愛の関係を表します。

今日のテキストである5:22−27(と33節まで)は、第一義的には、夫と妻との関係を述べているところです。そうではありますが、同時に夫に譬えられるキリスト、妻に譬えられる教会についての大切な真理を示しています。以下、この部分からその真理の一端を学びます。
 
1.キリストは、教会を愛しておられる(25節)<イラスト@>
 
 
「キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように・・・」(25節)とは、教会がキリストの愛の対象であることを示します。

・変わらない誠実さ:
その愛も、「好きだよ」という程度のものではなく、そのパートナーのために命を捧げる愛なのです。振り返って私たち自身を省みると、主に愛される何の価値も、美しさも持ち合わせていませんでした。それどころか、自分勝手な、我侭な心で生き続け、神を畏れず、神に悪態をつく可愛げのない女性のようなものでした。しかし、それにも拘らず、主は私たちを愛してくださったのです。旧約聖書にホセアという預言者がいます。彼は浮気っぽいゴメルという女を娶るように命じられ、結婚します。案の定、彼女は、色々な男性に引かれてあちこち彷徨いますが、結局捨てられて、惨めな生活を送ります。主はホセアに対して、ゴメルを再び受け入れて慰めなさいと命じられます。ホセアも辛かったことでしょう。でも、その彼女を受け入れるという辛さを通して、神はどんなに大きな憐れみの器であるかを悟ったのです。イザヤ54:6−8には、「『主は、あなたを、夫に捨てられた、心に悲しみのある女と呼んだが、若い時の妻をどうして見捨てられようか。』とあなたの神は仰せられる。『わたしはほんのしばらくの間、あなたを見捨てたが、大きなあわれみをもって、あなたを集める。怒りがあふれて、ほんのしばらく、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ。』とあなたを贖う主は仰せられる。」と記されています。主は一時、その民を(短い間、その罪の罰として)見捨てる(ように見える)時がある、しかし、それを見て、神は永遠にその民を見捨てたと思ってはならない、主は永遠に変わらない愛をもってその民を愛しておられる、という神の恵みと憐れみを述べています。神は永遠の愛(これをヘブル語ではケセドと言います)をもってイスラエルを憐れんでおられます。その愛は私たちにも注がれています。

・ご自分の命を捨てるまでの愛:
主は、「教会のためにご自身をささげる」ほど愛してくださいました。人間同士の愛は、打算が入ったり、限界を設けたり、移ろい易いものです。しかし、キリストの愛はご自分の命を捨てるまでの愛です。主は私たちのために命を捨ててくださった、これ以上の愛はありません。クリスチャンとは何でしょう。それは、私のために命を捨ててくださった方への感謝、感動によって動かされている人間のことです。
 
2.キリストは、聖き教会を期待しておられる(26-27節)<イラストA>
 
 
キリストが命を捨てられたのは、「みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるため」(26、27節)でした。

・聖い花嫁のイメージ:
結婚式を控えた新郎が期待しているのは、最大限に着飾った花嫁さんの姿です。「ありのままのあなたが好きです」などとプロポーズされたのだから、普段着のままで、ろくにシャワーも浴びず汚れたままの格好で結婚式に向かう花嫁はまず居ないと思います。全く同じことが教会にも当て嵌まります。主が愛してくださったのはこのままのわたし、罪に塗れた私なのだから、泥だらけのままで構わないと言う理屈は成り立ちません。主は、確かに泥だらけの私たちを愛してくださったのですが、同時にその泥を取り除く備えと花嫁衣裳まで用意してくださいました。「水の洗い」といは、イスラエルにおいて、結婚式の前に花嫁が全身を洗い清め、花婿に相応しい姿となる習慣を反映しています。エゼキエル16:9には、そのような習慣が記されています。具体的には、主は貴い血を流し、その贖いの効果によって、私たちの内なる罪をきよめてくださいます。もし、私たちが、備えられた花嫁衣裳を「いえ、私は汚れたジーンズの方が気楽でいいから、このままで行きます」と断ったら、どんなに主はがっかりなさることでしょうか。

・教会の聖化:
主は、「みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の」姿となすべく、贖いの血潮を流されました。ずいぶん沢山の形容詞が付けられていますが、要は「聖化」の一言で纏められます。キリストの血潮は生きて働き、私たちのどんなしつこい罪の性質をも聖め抜いてくださるのです。
@過去の罪の清算:
「水の洗いをもって・・・きよめて」とは、バプテスマのイメージです。過去の罪と咎を水によって赦し、洗い流してゼロとします。
A現在的な罪の聖め:
きよめるのは現在的な罪の性質に関するものです。どんなにしつこくて、人間的には癒しがたい罪の性質、傾向性をも主の血潮は清め抜いてくださいます。
B聖化の結果:
「しみもなく皺も無く」とは、キリストによってなされる聖化の結果です。
 
3.キリストは、教会と一体となる(31-32節)<イラストB>
 
 
「『人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。』この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」と言いつつパウロは、夫と妻が一体となる以上に、キリストと教会は一体となることを示します。

・個人と主との結びつき:
主キリストとの分かちがたい結びつき、それは、個人とキリストとの内面的結びつき、デボーションの形で現れます。賛美歌の中に「昼となく夜となく、主の愛に包まれて、いつか主に睦びけり。世のならぬ 交じらいよ。」という節があります。正にその境地です。私たちの毎日のデボーションは、お勤めではなく、主との楽しいデートです。主と物語り、主のみ声を聞き、主に祈りをささげる時間を大切にしましょう。

・教会と主との結びつき:
そして、キリストは信徒の集まりである教会とご自分を一体化されます。特に礼拝という営みにおいて、私たちは共に主を愛する愛を告白し、主もまた、私たちを愛し、導いてくださることを約束されます。今朝歌いました最初の賛美は、正にその告白です。原詩を紹介します。

‘My Jesus, I love Thee, I know Thou art mine;
(私のイエス様、あなたを愛します。あなたは私のものです)
 For Thee all the follies of sin I resign;
(あなたのために、私は罪に関わる全ての愚かさを捨てます)
 My gracious Redeemer, my Saviour art Thou;
(あなたは、恵み深き私の贖い主、私の救い主です)
 If ever I loved Thee, my Jesus,'tis now.’
(私のイエス様、私があなたを愛したとすれば、それは今なのです)

この詩はWilliam R. Featherstonという若者が作ったものですが、ある女優さんがこの詩を引用して有名になりました。その女優さんは、主を愛して輝いている女の子を見て感動して、自分の華やかな愚かな生涯を悔いて、献身を決意しました。彼女の最後のステージの時に、この詩を朗読したのです。礼拝は、正に、結婚の誓約を共に繰り返すような厳粛な営みです。

・完全な結合の時:
キリストと教会とのより深い、そして真の意味での一体化は、終りの日に結婚式と言う形で成就します。それは黙示録によれば「小羊の婚姻の時」(19:7)です。その時、花嫁の仕度が完成するのです。彼女は「光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許され」(19:8)ます。つまり、その清さにおける完成を見るのです。その後「聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。」(21:2)それこそが完成された教会の姿です。そこでは、神と教会が一体化します。神が人がいと近しく共に住み、交わり、一切の悩みと苦しみから解き放ってくださいます(21:2−4)。神ご自身が彼らの光となるために、「太陽も月もいらなくなる」(21:23)のです。何という希望でしょうか。この望みがあるから、試練に耐えることができるのです。この望みがあるから、私たちは宣教のために戦うことができるのです。
 
おわりに:主を心から愛し、仕えよう
 
 
教会を完成させなさるのはキリストご自身です。しかし、そのために私達の側でなすべき分野があります。花嫁のように初々しい心を持って主を心から愛し、従い、なすべき戦いを戦うのです。

教会総会において、私たちはその立場をもう一度確認し、主を愛する心をもって議事に臨みましょう。
 
お祈りを致します。