礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2012年2月5日
 
「キリストにある忠実な聖徒たち」
エペソ書連講(1)
 
竿代 照夫 牧師
 
エペソ人への手紙1章1-6節
使徒16章1-10節
 
 
[中心聖句]
 
  1   神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。
(エペソ1章1節)


 
聖書テキスト
 
 
エペソ 1:1 神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。2 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。5 神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。6 それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

使徒 16:1 それからパウロはデルベに、次いでルステラに行った。そこにテモテという弟子がいた。信者であるユダヤ婦人の子で、ギリシヤ人を父としていたが、2 ルステラとイコニオムとの兄弟たちの間で評判の良い人であった。3 パウロは、このテモテを連れて行きたかったので、その地方にいるユダヤ人の手前、彼に割礼を受けさせた。彼の父がギリシヤ人であることを、みなが知っていたからである。4 さて、彼らは町々を巡回して、エルサレムの使徒たちと長老たちが決めた規定を守らせようと、人々にそれを伝えた。5 こうして諸教会は、その信仰を強められ、日ごとに人数を増して行った。6 それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。7 こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。8 それでムシヤを通って、トロアスに下った。9 ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願するのであった。10 パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤへ出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。
 
A.エペソ書の魅力
 
 
今日から数ヶ月間、新約聖書の中の真珠のようなエペソ書を取り上げることにしました。一月の教会総会に向けて、エペソ書から「教会のイメージ」について三題話を致しましたが、この連講では、手紙自体をずっと掘り下げて、じっくり学びたいと導かれています。エペソ書の執筆背景と内容については、皆さんに配りました「しおり」(※)に記しましたので、ここでは要点のみに致します。
※エペソ書「しおり」は、こちらをクリックして下さい。
 
1.著者:パウロ
 
 
59−61年にかけてローマで囚われの身となっていたパウロが書いた4つの手紙の内の一つです。
 
2.宛先:エペソと周辺の教会(への回覧状)<地図参照>
 
 

1:1には「エペソにある教会」という言葉がありますが、最も古い写本グループには「エペソにある」という言葉がありません。難しい議論は省略しますが、私の結論から言いますと、この手紙は、第一義的にはエペソあてに書かれた、しかし、エペソだけに向けて書かれたのではなく、エペソを中心とした周りのアジヤ諸教会、例えばラオデキヤ、スミルナなどへの回覧状として書かれたと見ることができます。これは、その内容が非常に一般的であることからみても頷けます。
 
3.エペソの町:アジヤ州の首都、政治・宗教の中心地
 
 
エペソは、アジヤ州(今のトルコ西部)の西海岸に近い町です。古代から、アジヤにおける交通・商売の中心地として栄えていました。運河を通じてエーゲ海と結ぶ道が作られていたからです。BC113年にローマの支配下に入り、アジヤ州の首都となりました。使徒の働きにも出てきますが、アルテミス(ギリシア名はダイアナ)神殿が信仰の中心でした。アテネのパルテノン神殿の二倍もある大きなもので、周りの人々が巡礼に集まってきました。豊穣の神として崇められており、それにまつわる神殿娼婦も多く存在していました。また、魔術も盛んに行われていたことが使徒の働きの中からも伺えます。
 
4.エペソ教会:アジヤ州の拠点的教会
 
 
エペソ教会は、パウロが開拓したアジヤ州の拠点的教会でした。パウロが教会を開拓する場合には、割合短い滞在で次から次へと移動していくというパターンを持っていましたが、エペソに限っては、3年間という比較的長期滞在をしました。それは、エペソを拠点にして、周りの町々に教会を立てるという目的があったためと考えられます。その時間的順序を追って、教会の足跡を辿ります。

・パウロ、第二次旅行の帰路立寄る(使徒18:18−21):
「パウロは、・・・シリヤへ向けて出帆した。・・・彼らがエペソに着くと、パウロはふたりをそこに残し、自分だけ会堂にはいって、ユダヤ人たちと論じた。人々は、もっと長くとどまるように頼んだが、彼は聞き入れないで、『神のみこころなら、またあなたがたのところに帰って来ます。』と言って別れを告げ、エペソから船出した。」つまり、この時は、様子見に留めた訳です。

・第三次伝道旅行で3年間滞在(使徒19:1−20:1):
「パウロは奥地を通ってエペソに来た。そして幾人かの弟子に出会って、『信じたとき、聖霊を受けましたか。』と尋ねると、彼らは、『いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。」と答えた。『では、どんなバプテスマを受けたのですか。」と言うと、『ヨハネのバプテスマです。』と答えた。そこで、パウロは、「ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」と言った。これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。その人々は、みなで十二人ほどであった。」(1−7節)ここで、パウロが以前の約束を果たしたこと、聖霊の注ぎを奉仕の主眼に置いたこと、そして、基礎メンバーが12名であったことが分かります。続く8−10節では、3ヶ月ユダヤ人会堂で説教し、後にそこから追放されて、別な場所で2年間、合計3年近く滞在し、多くの成果を挙げたことが記されています。「パウロは会堂にはいって、三か月の間大胆に語り、神の国について論じて、彼らを説得しようと努めた。しかし、ある者たちが心をかたくなにして聞き入れず、会衆の前で、この道をののしったので、パウロは彼らから身を引き、弟子たちをも退かせて、毎日ツラノの講堂で論じた。これが二年の間続いたので、アジヤに住む者はみな、ユダヤ人もギリシア人も主のことばを聞いた。」「アジヤに住む者はみな」ということばが、パウロ伝道の広範な成果を物語っています。

・旅行の最後に再度立寄る(使徒20:17−38):
15−17節には、「その翌日ミレトに着いた。それはパウロが、アジヤで時間を取られないようにと、エペソには寄港しないで行くことに決めていたからである。」とあります。エペソの近くのミレトで「エペソに使いを送って、教会の長老たちを呼んだ」のです。その時の声涙滴る説教は、彼の伝道者魂を物語るものですが、特に19節「謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練の中で、主に仕えました。」とのことばが象徴的です。さらに、そのメッセージの中心については、21節「ユダヤ人にもギリシア人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。」と、「悔い改め」と「信仰」の二本柱であったことが思い出されています。

・牧者としてテモテを派遣(1テモテ1:3):
オネシポロが引継ぐ(2テモテ1:18) 

・使徒ヨハネ
使徒ヨハネも、この場所で牧会したと言われています。
 
5.手紙の事情:実践から離れたパウロの思い巡らしの中から
 
 
エペソ教会開拓後約8年が経過し、囚人となったパウロは、激しい伝道活動から離れ、教会に関する思索の中でこの手紙を書きました。
 
6.主題:キリストのからだである教会
 
 
同じ時期に書かれたコロサイ書のテーマは、「教会の頭であるキリスト」ですが、同じ真理の裏返しとして、エペソ書は「キリストのからだである教会」をテーマとしています。
 
7.コロサイ書との類似と相違:
 
 
・同じ配達人テキコ
・同じテーマの異なる面(エペソはキリストの体、コロサイは教会の頭)
・同じ構造:前半は教理、後半が実践
・同じ倫理的教え
・エペソは一般的、コロサイは個人的
 
8.アウトライン:1−3章が教理的部分、4−6章が実践的部分
 
 
エペソ書は大きく言って、1−3章までの教理的部分、4−6章の実践的部分に分かれます。今日はその内の挨拶1:1−2の部分だけに絞ります。
 
B.「挨拶」の中に見る恵み
 
1.召されたパウロ
 
 
・パウロの召命意識:
パウロは、その殆どの手紙の冒頭で自己紹介をするときに、自分は神に直接召された使徒なのだと強調しています(1および2コリント、コロサイ、2テモテなど)。特に1コリント9:16−17には、自分の願いや意志で使徒職に就いたのではなく、避けがたいほどの神の召命によったのだと記しています。「私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。・・・私には務めがゆだねられているのです。」

・私たちも召されている:
そうです、私たちがどの道に進むにしても、自分の願いや環境によってそのようになったという考えを持つのか、それとも自分の存在自体が神の御心によってあるのだ、その道筋を定めなさるのは主によるのだという自覚を持つかは、私たちの人生観に大きな影響を与えます。主は私たち一人ひとりにも語り給う神です。み言葉に対して私たちが心を開き、聖霊の語りかけに心を開くときに主は語り給います。
 
2.忠実なエペソ信徒
 
 
パウロが、エペソの信徒達を「キリスト・イエスにある忠実な・・・聖徒たち」と言っています。クリスチャンの形容詞として「忠実さ」と「聖さ」が二つ並べられているのですが、これについて考えて見たいと思います。

・ピストス:
「信頼できる」、「忠実な」、「信じている」:「忠実な」とは、ギリシア語ではピストスで、「信仰」を表すピスティスから派生した言葉です。「信頼できる」(trustworthy)、「忠実な」(faithful)または、「信じている」(believing)という意味です。この場合は、三つの意味を全部含んでいると私は思います。私たちが主を信じる信仰を持っているから、その信仰のゆえに、人々にも信頼される、という訳です。

・エペソ信徒の信仰:
エペソのクリスチャンが「忠実な」と評されたのは、素晴らしいことです。彼らは、信仰によって救われた民であり(2:8)、主に対して揺れ動かない信仰を抱いており、主に従うことにおいて忠実であり、主に仕えることにおいて忠実でありました。私たちも、色々な欠点がありましょうが、主に対する信頼と服従において揺ぎなきものでありたいと思います。

・「キリストにある」人々:
1節の「キリストにある」という言葉は、エペソ書において頻繁に出てくる言葉です。1章だけをとっても、11回出てきます。つまり、私たちの救いも、存在も何もかもキリストに依存していると言うことです。そして、彼に依存している人間の集まりである教会はキリストにあって一体的な存在です。

・私たちの信仰:
「あの人は信仰がしっかりしている、しかし、私の信仰はいい加減でダメだ。」などという「謙遜な」言い方をする人があります。でも考えてみると、信仰がいい加減という事は、実は私は傲慢であるという表明なのです。私たちが本当の意味で弱いことを自覚していれば、信頼できるお方はキリストのみであると言い表すはずです。信仰は、自分がゼロであり、キリストがすべてということから始まり、それに終わるのです。私たちは主に対する100%の信仰を持っているというあり方を確認し、その中に留まりたいと思います。
 
3.私たちも「聖徒」
 
 
・全てのクリスチャンは聖徒:
パウロは、その多くのの手紙の冒頭に、宛先であるクリスチャン達を「聖徒」と呼んでいます。ローマ1:7、1コリント1:2、2コリント1:1を見てください。1コリント1:2を見ます。「コリントにある神の教会へ。すなわち・・・聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。」コリントの聖徒達は、ちょっと聖徒と呼べないような、沢山の問題を抱えていました。

・実質と期待と:
しかし、敢えてパウロは、そのような人々を「聖い者達」と呼んだのです。それは、かれらが、罪深い世から聖別された(神のために取って置かれている)聖い民という意味での聖さであり、また、実質的にもキリストの血潮によって罪赦された民である、という意味での呼び名でしょう。さらに、キリストの似姿にまで聖められる過程にあるという期待も籠められた呼び方と思います。

・私たちも「聖徒」:
私たちも、聖書の見方からすると聖徒なのです。何か面映い感じがしませんか。「私は罪深い人間で、救われたとは言え、罪に囚われています。ですから、とても聖徒など呼ばないでください。」というのがなんとなく謙ったクリスチャンのイメージです。パウロは、そんな言い方をしていません。あなた方は聖徒だ、と。それはエペソ人クリスチャンが皆天使のような清らかな人々であるとか、欠点のない人々であるという意味ではなくて、キリストの血によって聖められているという意味です。驚くべきステートメントです。私たちも「聖山田さん」、「聖黒田さん」、「聖照山さん」と呼ばれるのです。それは、私たちの実態というよりも、神の期待を表わしています。こんな人間を聖徒と読んでくださる神の信頼、実質的に聖徒として下さる神の恵みと贖いの力を表します。私たちの実質はお粗末なものでありましょう。それどころか、神の基準からは遠く、ご期待に添えないことだらけの人間でありましょう。それなのに、神は私たちを聖徒と呼んでくださいます。
 
おわりに:贖いの恵みを感謝しよう
 
 
その大きな信頼と、その大きな期待のゆえに神に感謝しましょう。神の贖いの恵みに感謝しましょう。
 
お祈りを致します。