礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2012年2月12日
 
「天にあるすべての霊的祝福」
エペソ書連講(2)
 
竿代 照夫 牧師
 
エペソ人への手紙1章1-10節
 
 
[中心聖句]
 
  3   私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
(エペソ1章3節)


 
聖書テキスト
 
 
1 神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。2 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。5 神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。6 それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。
7 私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。8 神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、9 みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、10 時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められるのです。
 
はじめに
 
 
・前回の復習(1節):
昨週からエペソ書連講を始めました。昨週は、1節の「挨拶」の中に見る恵みを学びました。私たちを「忠実で」「聖い」者とみなしてくださる神の恵みと期待の大きさを特に学んだことでした。昨週触れようとして省略してしまった一点があります。それは、1節の「キリストにある」という言葉の重みです。このことばはエペソ書において頻繁に出てきます。1章だけをとっても、11回です。つまり、私たちの救いも、存在も何もかもキリストに依存していると言うことです。3節以下の救いの計画に関する神への賛美は、私たちの救いが「キリストにある」ことから生まれます。

・「神の救いの計画」(3−14節):
3−14節は、「神の救いの計画」に関わる神への賛美です。その鍵のことばは「ほめたたえる」です(3、6、12、14節)。全てのみ業を通してほめたたえられるべきは神の栄光です。この部分は、「父なる神の計画」(3−6節)、「子なる神による贖い」(7−10節)、「聖霊なる神のみ業」(11−14節)と三つに分けることができますが、今日は3−6節に絞ります。
 
1.賛美から始まる(3節a)
 
 
「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。」
 
パウロは、1−2節で挨拶的な祝祷を行っていますが、直ぐに神への賛美へと移行します。通常の彼の手紙は、読者への感謝で始まるのですが、エペソ書は賛美なのです。人々への感謝は15節以下に後回しにされています。

私たち被造物にとって最も相応しい、そして喜ばしい務めは神への賛美です。また、神は私たちの賛美を喜びとなさいます。今日、私たちは賛美を捧げるために集まってきました。心からの賛美と感謝を捧げましょう。私たちの心が賛美で満ち溢れている限り、サタンの付け入る余地はありません。分派闘争が起きる隙もありません。
 
2.天において霊的祝福を頂いている(3節b)
 
 
「神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」
 
パウロの賛美の理由は、「天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださった」ことです。祝福について、三つの形容詞があります。

・天にある豊かな備え:
「天にある」とは、神の側における豊かな備えを意味します。人間世界では、貧しさがあり、戦争があり、飢えがあり、憎しみがあります。しかし、天の世界とは、神の御心が滞りなく行なわれている世界です。そこで、私たちは地上における様々な問題課題にかかわらず、もう祝されてしまっているのです。素晴らしいことではありませんか。

・聖霊を通して与えられる祝福:
霊的祝福というと、物質的祝福を対比した魂の祝福のみを考えますが、そういう意味でパウロが霊的と言っているのではなく、聖霊によって私たちに与えられるという意味での「霊的」です。その具体的には、13−14節において、救いの保証をするお方としての聖霊が紹介されています。「あなたがたも、・・・救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。」

・無限の可能性を含む祝福:
「すべての」という言葉の中に、無限の可能性が籠められています。中途半端ではなく、これ以上ないほどの徹底的な恵みです。この文節の中では、選び、子とされること、贖い、赦し、聖化、御国の相続などが記されていますが、それらを含む神の恵みの全てが意味されています。
 
3.永遠の昔から選ばれている(4節)
 
 
「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」
 
そのもろもろの祝福の一番大切なのが、「永遠の昔から選ばれている」事実です。

・価値や相応しさに関係なく・・・:
「永遠の昔から選ばれている」とは、とても奥が深い思想で、限られた人間の頭脳では究めることができない事実です。一つだけ申し上げておきますが、この選びの思想に、排除的な要素はありません、つまり、ここに居る教会の皆さんは選ばれているが、外にいる人は選ばれていない、むしろ、滅びるべき運命にあるというような狭い考えではありません。あの人はどうなっているだろうという他人との比較ではなく、ただ、キリスト者としてここにあるという事実の中に、神の選びを感じているという意識が大切なのです。もっと言えば、私たちの何らかの相応しさ、価値ある行動が今日の私たちの立場を齎したのではなく、それと全く無関係に、只々神の憐れみのゆえに私たちがここにある、という感謝が、「選ばれた」ということばに表れているのです。

・パウロの実感:
パウロ自身の人生において、これは実感でした。1テモテ1:12−17を読みます。「私は、私を強くしてくださる私たちの主キリスト・イエスに感謝をささげています。なぜなら、キリストは、私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです。私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。・・・私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。どうか、世々の王、すなわち、滅びることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄えとが世々限りなくありますように。」と彼に与えられた神の恵みをたたえています。

・永遠の昔から:
パウロはさらに、ガラテヤ1:15には、「生まれた時からわしを選び分け」と言いながら、彼の決心とか選択とか善行とか努力・精進によるのではなく、神の選びは生まれた時からなのだと告白しているのです。そのパウロが、生まれた時よりも遡って、世のはじめの先からだ、と言うのです。これは、私たちの選びがどこまで遡れるかという時間的な問題ではなく、何の価値も無く、相応しさもないものが神に選ばれたのだという神の憐れみと恵みを強調するための表現だと私は思います。

・「聖く、傷無き」者となるために:
(繰り返しますが)神は、私たちが元々聖いから選んでくださったのではありません。その反対です。ものすごく汚れた着物を選んで、洗剤のすぐれたことを宣伝するコマーシャルのように、私たちは本当に汚れたものでしたが、聖いものとするサンプルとして選ばれたのです。「聖く」とは積極的に主のために用いられる器として、「傷無く」とは、消極的に責められる要素の無いものとして、主は整えてくださいます。それを可能とするのがキリストの贖いであり、それを個人にあてがってくださる聖霊の力です。
 
4.神の子とされる祝福(5節)
 
 
「神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」
 
・養子となる重み:
選ばれた目的は、「ご自分の子とされること」と、そこに含まれる特権の全てです。この場合の「子とする」というのは、「養子にする」という意味です。もともと罪人であり、神の祝福から遠かった私たちが神の子となるのは、特別な措置として受け入れていただく手続きが必要なのです。それが贖いであり、その贖いを私たちにあてがう新生であり聖化なのです。ローマ法における養子とは、その養父となる人の全ての財産と特権を実子と同じように相続することを意味していました。これを思い出させる一番の例は、ベン・ハーの物語です。濡れ衣を着せられてガレー船の漕ぎ手にまで落とされたベン・ハーが提督であるアリアスを救い、養子にされます。その時、アリアスの権威と財産を譲り受ける徴として指輪を頂くシーンがあります。あれです。私たちは全く相応しくないものですが、その憐れみと恵みのゆえに、神の子とされたのです。

・祝福を確信しよう:
このことを考えただけでも興奮して、眠れなくなるほどです。現実の私たちの生活は、貧しかったり、弱かったり、家庭的な問題に取り囲まれていたりしていて、「祝福」とは程遠いかもしれません。どこも八方塞がりで、生きていくのが嫌になってしまうような環境かも知れません。でも、どんなに環境が厳しくても、「私たちは祝福されているのだ」と確信できる根拠が、神の選びの中にあるのです。その意味では、私たちは「癒しがたいほどおめでたい」存在でありましょう。それで良いのです。そのように確信しながら人生を歩むのと、自分はダメだ、神から見放されているのだ、と暗い気持ちで人生を歩むのとは雲泥の差です。どうか、今日、ここにいるすべての人、神にとことん愛され、祝福されているのが私たちなのだと言うことを確信してください。

・祝福を素直に頂こう:
それは、私たちの一生懸命さ、真面目さ、頑張りによって獲得される祝福ではありません。無条件に備えられている祝福なのです。ただ、私たちがそんなものは要らないと、心を塞ぎ、入り口を塞いでしまわないことが、強いて言えば唯一の祝福の条件です。
 
5.神をほめる(6節)
 
 
「それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」
 
・神の恵みを証しよう:
もし、私たちの内に自分でも感じ、また、他人にも認められる良きものが少しでもありますならば、それは神の恵みだと証ししましょう。神が私たちを愛し、私たちに注いでくださった恵みの故だからです。

・神の恵みを賛美しよう:
更に、それら全てのことに関して、神の素晴らしさをほめたたえましょう。私たちの存在の目的は、神の栄光のためです。神の栄光をあらわすとは、分かり易い言葉でいえば、神の素晴らしさを表わすことです。主を賛美しつつ、この一週間を過ごしましょう。
 
お祈りを致します。