礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2012年2月19日
 
「贖い、神の豊かな恵み」
エペソ書連講(3)
 
竿代 照夫 牧師
 
エペソ人への手紙1章3-14節
 
 
[中心聖句]
 
  7   私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。
(エペソ1章7節)


 
聖書テキスト
 
 
3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。5 神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。6 それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。
7 私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。8 神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、9 みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、10 時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められるのです。
11 この方にあって私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました。みこころによりご計画のままをみな行う方の目的に従って、私たちはあらかじめこのように定められていたのです。12 それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。13 この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。
 
はじめに
 
 
・神の驚くべき祝福(3−6節、復習):
@選び、A養子とされる恵み:先週は、3節の「神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」を中心に、私たちが、既に豊かな備えを意味する天において、驚くべき祝福を頂いてしまっている、という点を学びました。その祝福の中には、@元々は汚れていて何の価値も無かったものを「聖く、傷無き」者とするために「永遠の昔から」選んでいて下さったこと(4節)、A神から離れていたものを「神の養子」として、その全ての特権と名誉を与えてくださったこと(5節)が含まれていました。これだけでも素晴らしいことです。

・「キリストの贖い」に現れた恵み(7−10節、イラスト@):
今日は7−10節に進み、神の祝福が「キリストの贖い」という形で成就したことを学びます。この7−10節の思想の流れを示すキーワードは4つで、それを図式で表すと[恵み→贖い→罪の赦し→(全てが一つにされる)奥義]となります。それを絵にしたのがイラスト@です。その一つ一つが、ものすごい思想ですが、順々に学ぶことにしましょう。

 
1.恵み:すべては恵みから始まる(イラストA)
 
 
・恵みがすべて:
この文節のテーマである贖いが紹介される7節には、「・・・贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。」と言いつつ、パウロは「恵み」こそが、贖いと罪の赦しの基礎であることを語ります。さらに続く節では、「神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ・・・」(7−8節)と、恵みが溢れることが、知恵と思慮深さとなること記しています。正に、神の恵みがキリストの福音の根幹です。恵みとは、「価しない者に注がれる神の顧み」のことですが、その恵みが福音の始まりであり、動因であり、そして私たちの生涯を支え導くものです。

・恵みが本当に分かるクリスチャンとなろう:
クリスチャンとは言いながら、この「恵み」が分かりませんと、自分で自分を責める律法的な罠に陥ります。或いは、他人を責める審判的なクリスチャンになってしまいます。本当に、自分は神の顧みを頂くには価しない、愚かで罪深い人間だ、その者に神は驚くべき恵みを注いで下さったから、救われ、きよめられ、力づけられて存在しているのだ、という福音の原点に立つ時に、私たちは自分を責めるのをやめ、他人を責める必要がなくなると思います。恵みを知ったクリスチャンとさせていただきましょう。
 
2.贖い:恵みは贖いに現れた(イラストB)
 
 
7節は、「御子の血による贖い」という言葉で始まります。まず、この「贖い」という言葉から学びましょう。

・贖い(アポストローシス):
「代価を払って人を釈放する、買い戻すこと」:ここでの贖いは、アポストローシス(apolytrwsis)です。これは、「代価(身代金=lytron)を払って人を釈放する(買い戻すapolytrow)」という意味です。この場合は、「罪の力とその結果から、ご自分の命を身代金として捧げたキリストを通して救い出すこと」と定義されます。これは比喩的表現ですから、身代金を誰に対して払ったのか、悪魔か、或いは父なる神に対してなのかという不毛な神学論争は考えますまい。誰に払ったか大切なのではなく、キリストが考えられないほどの大きな犠牲を払われたことが強調点なのです。それが、「血による贖い」という言葉なのです。

・旧約における贖い(ガーアル):
「近親者として買い戻しの務めを果たす」:贖いの思想は、当然ながら、旧約聖書にその始まりを見ます。ルツ記の連講で、ゴエル(買い戻しの権利のある親類)ということばについて説明しました。これはガーアル(買い戻す、近親者として買い戻しの務めを果たす)という動詞から来た名詞です。これは、元々自分の所有であったものが何らかの理由で人手に渡った場合、それに対して代価を払って買い戻す行為をさすものです。この贖いの行為に含まれる要素は、@買い戻す者と買い戻されるものとの密接な関係、A落ちぶれた状態(土地が売られたとか、人が奴隷として売られたとか、持ち物が奪われたとか、いのちが奪われたという状態)、Bそして買い戻す際に払われる高価な代価です。

・旧約と新約の繋がり:
このガアルと言う言葉が旧約聖書ギリシャ語訳に訳されるとき、ルトロオー(lutrow=切る、釈放する)と言う言葉が使われました。更に、キリストがご自身の肉体を犠牲として私達罪人を罪の中から釈放されたその代価をルトロンと言表わしたのです。つまり贖いと言う思想は旧約時代の社会制度から始まり、神の奇跡的な救いを表わす言葉となり、究極的にはキリストの完全で決定的な救いを表わす言葉になったのです。

・キリストの十分な代価:
「血による贖い」:この節では、「血による贖い」と「血」が強調されています。近代人にはなじまない表現かもしれませんが、実は、ここが大切なのです。主キリストは、精神的な代価で私たちを贖ったのではなく、文字通り、肉を裂き、血を流して、最大限の苦しみを経験して、私たちを罪の束縛から贖ってくださったのです。命を捨てて愛してくださった主を心から賛美したいと思います。

・私たちは贖われた:
私たちは罪の奴隷で、自力解放できない囚人のようなものであったのですが、一方的な愛と憐れみのゆえに、神は贖い主キリストを与えなさいました。そのみ力によって、私たちは釈放されたのです。
 
3.赦し:罪の赦しを受けた(イラストC)
 
 
・罪(パラプトーマトーン):意志的な逸脱行為:
「罪の赦しを受けている」(7節)と書かれていますが、この「罪」ということばは「パラプトーマトーン」(paraptwmatwn)で、その元々の意味は、「逸脱」です。しかも、知らず知らずに逸脱したというよりも、意志的に、分かっていながら道を外す行為です。ですから、これは罰せられ、その罰のゆえに赦されることができるのです。「咎の数々」「多くの負債」と訳したほうが良さそうです。

・罪が赦された:
私たちのとがの数々、多くの負債がどんな内容であれ、どんな深刻なものであれ、人間的には赦し難いほどの罪であれ、キリストの贖いのゆえに赦されているのです。こんなに素晴らしい福音は他にありません。心から感謝をささげます。

・赦しを軽く見ないように:
勿論、この節は、「私たちはどんな悪いことをしても、結局神は赦してくださるのだから、のんきに行こう」というように、クリスチャンが罪に対して軽い考えを持つことを勧めているのではありません。全く逆です。この赦しは、測り知れないほどのむごたらしいキリストの十字架の苦しみの結果に与えられたということを考えると、安直な罪観念に陥るはずはないでしょう。私の罪が、こんな主の御苦しみを齎すということが分かると、安易に罪を繰り返すことは申し訳なくて、できなくなるはずです。
 
4.奥義:奥義が知らされた(イラストD)
 
 
「神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められるのです。」(8−10節)
 
・知恵とは、本質を見極める力:
ここで「知恵」と記されているのは、物事の究極の原因・目的(終わり)を見極める能力のことです。この場合は、特に、神の奥義を理解する能力です。

・奥義:「隠されていた真理が、時に至って明らかにされたもの」:
さて、パウロは、この手紙のみならず、色々な場所で「奥義」に言及しています。先ず奥義から定義しなければなりません。「奥義」(mysteria)とは、何か神秘的な真理のことではなく、「理由があって隠されていた真理が、時に至って明らかにされたもの」です。それは、「天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められる」ことです。
@異なる文化背景のものが一つに:
さて、一切のものがキリストにあって統合されるという第一の側面は、ユダヤ人と同様に、異邦人も神の共同体として受け入れられることです。「この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。」(3:5−6)
A宇宙の回復と統合:
第三の側面は、またあらゆる被造物を含む贖いがなされ、被造物が回復されることも、キリストの贖いの結果です。これはコロサイ1:20に記されている通りです。「その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」これは、ローマ8章において詳しく語られている真理です。罪によって分離、分裂、死、幻滅が齎されたと同じように、キリストが人間に入り込むことによって、宇宙の全てが贖われ、再生され、結合されます。その中心がキリストです。キリストは教会の頭であり、宇宙の頭だからなのです。一つにするとは、大きなポイントを中心に「再び」物事を一つに纏め上げることです。創造のときに持っていた全宇宙の調和が実現するのです。罪ゆえに起きた宇宙的混乱が完全に収まるのです。「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。」(ローマ8:19−21)
 
おわりに:厳しい現実の中で「霊的」現実を見つめよう
 
 
・獄中のパウロが見た霊的現実:
パウロが見た奥義は何と大きくて豊かな奥義だったことでしょうか。この奥義を記した現実のパウロは、軟禁状態とはいえ、ローマの獄中でした。ローマ帝国という圧倒的な異教勢力の前に、クリスチャンの存在は吹けば飛ぶような微々たるものでしかなかったのです。ローマ帝国の膝元のローマで、権力によって身柄を拘束されていました。自分が生涯をかけて開拓してきた諸教会も、成長しているものもあり、様々な問題でトラブル続きの教会もありました。そんな中にあって、キリストが宇宙の中心であり、文化背景を異にする全ての人々を統合する教会の頭であり、自分はその統合のために戦っているのだという大きなビジョンを持っていたのです。考えようによっては何たる楽天家、何たる大風呂敷と言われかねません。しかし、これが彼が捉えた「霊的現実」だったのです。

・私たちも神の目から現実を見よう:
私たちが、今日、寒さを衝いて、しかも遠くから近くから礼拝のために集まって来たという事は、自分にとって、社会にとってどんな意味があるのでしょうか。日本社会全体が、日曜日どこ吹く風で、遊び、休み、或いは働きに没頭している中で、この「教会」とは何なのでしょうか。私たちはパウロと同じように、キリストが教会の頭であり、すべての人々を統合し、壊れた宇宙全体を美しく統合しておられる全地の主であることを礼拝で確認し、その統合のお働きに自分の身をささげますと告白するのです。これは、偉大な営みです。その心をもって一週間家におり、職場におり、学校にあって戦うのです。主の恵みの支えを信じましょう。
 
お祈りを致します。