礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2012年3月4日
 
「心の開眼を」
エペソ書連講(5)
 
竿代 照夫 牧師
 
エペソ人への手紙1章15-23節
 
 
[中心聖句]
 
  18,19   あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって・・・神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを・・・知ることができますように。
(エペソ1章18,19節)


 
聖書テキスト
 
 
15 こういうわけで、私は主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを聞いて、16 あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚えて祈っています。
17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。
20 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、21 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。22 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。
 
はじめに
 
 
エペソ書に入りましたが、仲々進みません。というのは、一句一句に籠められたパウロの深い思いが重く私の心に語りかけてくるからです。昨週は、13節から「聖霊の証印」をテーマに、キリストの贖いを私たちの心の中に確かなものとしてくださる聖霊のお働きについて、学びました。

パウロは、贖いの恵みを賛美した後で、その贖いが本当にエペソ信徒にリアリティとなるようにと祈ります。その祈りが15−23節です。この祈りは、内容的に以下のように分けることができます。
@エペソ信徒に関わる感謝(15−16節)
A神を知る知恵が与えられるように(17節)
B心の目が開かれるように(18−19節)
C全能の力は復活に現れた(20−21節)
D復活したキリストは教会の頭(22−23節)
 
1.感謝される恵み(15−16節)
 
 
「こういうわけで、私は主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを聞いて、あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚えて祈っています。」
 
・聖霊に証印を受けた信徒たち:
「こういうわけ」とは、当然、前の14節を引き継いでいると考えられます。エペソ信徒は、聖霊による証印を受け、また、将来の祝福の手付金を頂いていました。それゆえ、彼らは祝福されていたのです。

・エペソ信徒の信仰と愛:
「私は主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを聞いて」この部分は、依然に学びました第一テサロニケ書を思い出させます。そこでは、テサロニケ信徒達の信仰の働き、愛の労苦が詳しく描写され、感謝されています。しかし、エペソ書では、信仰と愛とがどのようなものであったか、詳しく描写はされていません(愛という言葉が原文に入っていたかどうか、議論のあるところでもあります)が、主イエスに対する純粋で単純な信仰、そして自分の周りの人々だけではなく、「すべての」聖徒に対する愛が溢れていた信徒達の姿に大きな励ましを受けます。

・パウロの祈りの姿:
私たちが誰かにおぼえられるとき、感謝をもって覚えられ、祈られるとしたら、これ以上の幸いはありません。いつも心配される対象であったならば、どんなに悲しいことでしょうか。また、パウロのあり方からも励ましを受けます。信徒達のために「絶えず感謝をささげ、覚えて祈っている」という伝道者の姿です。
 
2.神をより深く知るように(17節)
 
 
「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。」
 
・現世ご利益ではなく:
パウロがエペソ信徒のために祈ったのは、彼らの現世ご利益ではありませんでした。つまり、家内安全・商売繁盛という目に見える祝福ではありませんで、彼らの霊的な祝福を祈ったのです。もちろん、私たちに霊的な祝福が注がれますと、他の祝福は付いてくるものではありますが・・・。

・神を個人的に知ること:
元々異教徒であったエペソの人々が、真の神を知ったことは感謝です。でもパウロは、それだけで満足せず、より深く知ってほしい、もっと言うと、神との個人的な交わりの中に成長して欲しいと願ったのです。口語訳では、「神を認識し」と訳していますが、共同訳では「神を深く知ることができますように」と訳しています。「神を知ること」は、ギリシャ語でエピグノーシスですが、それは認識というよりも個人的な交わりを含む「知識」とのニュアンスが強いのです。特に、旧約における「知識」とは、個人的な深い交わりのことです。つまり、神がおられるとか、神がこんなお方だという認識から一歩も二歩も進んで、神との個人的な交わりを持つことなのです。先週の聖別会において、神のイメージについて6つの面から学びました。父として、夫として、内にすみ給うお方、私たちと一体化してくださるお方などです。説教の前に黒川神学生が、神を近くに居るお方として捉えなおしたことが、自分にとっての聖めであったと証ししておられましたが、正にその通りです。

・神知識を与える聖霊:
その神知識を与えるのが「知恵と啓示の御霊」です。ヨハネ16:13−14には、「真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。・・・御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。」と記されている通りです。私たちは漠然たる神知識は持っていますけれど、本当の神知識は、自分の思索や修行によって得られるものではなく、神ご自身が与えて下さるときのみ可能です。その管となるのが聖霊です。

・知恵と啓示:
そして、パウロは聖霊が与えなさるのは「知恵と啓示」だと言います。知恵とは一般的なものであり、啓示とは神に関する特別な知識です。啓示(アポカリュプシス)とは、覆われていたものが顕れるという意味です。除幕式のようなもので、幕のしたに覆われていた銅像のようなものが、式典の時にベールを取られてその姿を現す、というようなイメージです。聖霊がベールを取り払い、心の目の曇りを取り去って、はっきり神を見ることができるようにしてくださるのです。
 
3.望みと豊かな財産と力を知る(18−19節)
 
 
「また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」
 
・心の目が開かれること
:「あなたがたの心の目がはっきり見えるように」とパウロは祈ります。私たちの肉眼ではなく、心の目が開かれること、つまり、私たちが常識的に抱いている概念ではなく、神が与えて下さる啓示によって物事が示されることです。「はっきり見える」とは、フォーティゾー(照らす)の受身形で、「照らされる」「光が与えられる」ことです。2コリント4:6に「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。」とあるとおりです。つまり、自分の眼力のようなもので神を知るのではなく、神に関する光が聖霊によって与えられることが必要なのです。

・キリスト再臨の望みの大きさ:
神が召してくださる大きな目的、それに至る光栄ある過程のことです。私たちが何かを望むというよりも、神の召しが齎す希望のことです。その希望とは、キリスト再臨の希望です。自分がこうしたいとか、こうなりたいとか、自分の事業がこうなって欲しいとか言うような、具体的な望みのことではなく、究極的な望みのことです。

・相続財産の豊かさ:
私たちが神の子として受け継ぐはずの相続財産の豊かさを知るようにとの祈りです。これは、復活の命によって神と共に所有する豊かな永遠の命のことです。

・神の全能の力の偉大さを知ること:
「偉大なもの」というのは、パウロ独特の言い回しでして、ヒッペル(限界を超えて)とバロー(投げる)をくっつけて、想像を超える大きさを言い表そうとした苦心の造語です。「神の全能の力の働き」もパウロ独特の言い方です。直訳すると「神の大きな潜在的能力が顕在的になり、目に見える働きとなった」という感じです。ともかく、パウロは、キリスト復活に現れた神の偉大な力を何とか言い表そうとして苦心しているのです。そして、キリストの復活に現れたその全能の力が信じる者にも及び、それを私たちの実生活の面で体験できるようにという祈りです。具体的には、罪に打ち勝つ力を与えます。ローマ6:4−14を読みましょう。「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。・・・キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。・・・罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。」キリストを甦らせた力が私たちの内に働くことで、罪に打ち勝つ力となるのです。さらに、私たちの肉体にも活力を与えます。ローマ8:11には「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」と現在的活力の賦与を約束しています。この節に関するウェスレアン注解の言葉が心に留まりました。「神の全能を信じることは、真のキリスト教信仰を保ち、宣べ伝えるために不可欠である。神を、限りある存在者にまで引き下げるなら、貧血気味でやせ衰えたキリスト教を生み出すことは間違いない。」と。
 
おわりに:私の心の開眼を、エリシャと共に祈ろう(2列王記6:14−17)
 
 
「目を開いてください」という祈りについて、列王記第二のエリシャの物語をもって締め括りたいと思います。預言者エリシャが活躍していた頃、イスラエルの北隣のアラム(現在のシリア)の軍隊がイスラエルの首都サマリヤを取り囲みました。エリシャの召使が朝起きてみると、外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していたのです。彼は、「ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう。」と言いました。するとエリシャは、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」と言い、そして、祈って主に願いました。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」その時、主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていたというのです。(2列王6:14−17)。私たちは、私たちを取り囲んでいる現実が現実の全てであると思いがちです。しかし、その背後には霊的現実があります。主が生きておられ、私たちを十重二十重に取り囲んでおられるという霊的現実です。この現実に目が開かれますと、恐いものはありません。どんな事態にも落ち着いて対処ができるのです。この朝、私たちの目を開いてくださいと、エリシャと共に祈ろうではありませんか。
 
お祈りを致します。