礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2012年3月11日
 
「一切の頭なるキリスト」
エペソ書連講(6)
 
竿代 照夫 牧師
 
エペソ人への手紙1章17-23節
 
 
[中心聖句]
 
  22   神は、一切のものをキリストの足の下に従わせ、一切のものの上に立つ頭であるキリストを、教会にお与えになりました。
(エペソ1章22節)


 
聖書テキスト
 
 
17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。
20 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、21 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。22 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。
 
はじめに:19節と20節の繋がり=「全能の力」が共通
 
 
エペソ書に入って6週目、漸く今日で1章を終えます。昨週は、パウロの祈りについて学びました。彼は、エペソ信徒達の心の目が開かれて、神をより深く知るように、神の全能の力の偉大さを信じて経験的に捉えるようにと祈りました。

20節冒頭の「その全能の力」とは、19節の「全能の力」を説明する言葉です。英語で言うと“in which”という関係代名詞(受験英語では懐かしい名前ですね)です。つまり、信仰者の中に働く神の偉大な力は、既にキリストの中でフルに示されている、その力が信じる者に働くよ、というのが19節です。

さて、その全能の力の偉大さの現われが、キリストにおいてどのように現れたかが20−23節のテーマです。以下の5つに纏められましょう。
 
1.キリストの復活において(20節a)
 
 
「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ・・・」
 
・完璧な働き:
「働かせて」というこの動詞は完了形です。神の全能の力がキリストの肉体に現れた、もっとはっきり言うと、死んでしまったキリストのみ体に完璧に働いて、復活を齎したのです。

・復活体のあり方:
キリストの復活は、死んだ体が元の生きた体に戻るという以上のことです。キリストの場合、それは「霊的肉体」と呼ばれる新しい肉体のあり方への昇華でした。復活物語を思い出してください。主イエスは、仮死状態ではなく、完璧に死なれました。その死の中から甦られた主は、ご自分の体を弟子達に示し、「自分は幽霊とか、単なる『霊的存在』でもないよ。その証拠を見せよう」と言って、焼いた魚を召し上がったのです(ルカ24:39、43)。それでは、元通りの肉体かというと、そうでもありませんでした。閉まっているドアをすり抜けたり、エルサレムにおられるはずなのに、エマオへの道筋を歩まれたり、という風に、私たちが肉体を持っているゆえの制限からは自由でした。パウロは、このような肉体のあり方を「御霊のからだ」(1コリント15:44)と呼んでいます。

・私たちの復活の初穂:
実はこのキリストのからだこそ、私たちがやがて与るべき復活体への道筋を示すものでありました。いわば、キリストの復活は、それに続く私たちの復活のさきがけ、初穂でもありました。私たちは肉体の衰えを日々感じながら生きているのですが、この復活の望みこそ、私たちの弱さへの励ましであるのです。それを齎すのが、神の全能の力です。
 
2.キリストの天への着座において(20節b)
 
 
「天上においてご自分の右の座に着かせて・・・」                _
 
・贖いのみ業の完成:
神の右の座とは、どこか物理的な場所を指すのではなく、キリストの贖いのみ業の完成、完了であり、み父と共に宇宙の支配を分担なさる、その立場を意味します。

・徹底的な謙卑への報償:
同時にこれは、天の御座を捨てて受肉し、十字架の死にまで従われた主の謙卑以前に持っておられた権威と栄光への復帰であり、いやそれ以上の勝利を指すものです。「諸王の王、すべての君主の上の君主」となり給うたことです。ピリピ2:6−11を読みましょう。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」

・高く揚げ給う神=上昇志向への警鐘:
私たちの人生でも同じです。私たち人間は、癒しがたいほどの上昇志向を持っています。クラスでもあの人には負けたくない、スポーツでも金メダルを取りたい、会社の出世競争でも同期の人に負けたくない、近所のおばさんたちよりも立派な服装をしたいとか、ともかく上へ上へと登りたいのが人間の常です。聖書は全く反対のことを言います。謙るものが幸いだと(ヤコブ4:6)。そして、必要な時に、神は私たちを揚げ給うのです。それも私の名誉のためにではなく、神のお仕事の必要のためです。「高く上げることは、東からでもなく、西からでもなく、荒野からでもない。・・・神が、さばく方であり、これを低くし、かれを高く上げられるからだ。」(詩篇75:6−7)とある通りです。私たちは、この面で、神の全能を信じているでしょうか。信じていたら、出世競争に勝ったとか負けたということで一喜一憂することから救われるのではないでしょうか。
 
3.キリストへの権力賦与において(21節)
 
 
「すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。」
 
・すべての名に勝る名=救い主:
この世において、また、来るべき世において、様々な立場と地位がありうると思いますが、想定される全ての名前の上に立つ名前が与えられ、すべての権威の上に立つお方とされたことを意味します。先ほど読みましたピリピ2章の表現によれば、それは「救い主」というお名前です。

・全ての権威の上に立つ:
「すべての支配、権威、権力、主権」と4つの名詞が並べられていますが、その一々の違いはないと思います。言おうとしていることは、あらゆる権威を総称したものです。その中には、悪の力、反神的イデオロギーや反神的政府、知的勢力や哲学、不道徳な組織、物質的勢力であれ、他に名のあげられるいかなる権力すべてを含みます。それらすべての権力が主の至高権威の下に服させられるということです。

・私たちが見ている「現実」とどう繋がるか?:
私たちが現実に見ている政府、社会的勢力は、キリストとは全く関係のない原理とイデオロギーで動いているように見えます。そして、そのことは私たちの心を痛めます。しかし、私は、この御言に基づいて確信します。たとえ、現実に動いている政治原理が、キリストの支配とかけ離れたものに見えたとしても、より高度な観点から見ると、全てはキリストのご支配の下にあるということです。
 
4.教会の頭の賦与において(22節)
 
 
「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。」
 
・勝利者の姿:
「足の下に」という言葉が特に強調されています。それは、戦いを終えて、すべての敵を征服した勝利者の姿です。キリストは宇宙の完璧な支配者となられたのです。

・普遍的・永遠的教会:
パウロがここで「教会」と読んでいるのは、地域的な一つ一つのことではなく、制限無しの普遍的、霊的教会の意味です。これが真の公同的教会です。そこには今生きているものも、肉体的には死んでしまったものも、あらゆる時代の、キリストにある全ての信仰者達を含む生きた共同体のことです。

・全宇宙の支配者が教会の頭:
今年一月の講壇でも語りましたが、例えて言えば、日本サッカー協会が、日本代表チームの監督を、Jリーグの1チームの監督として任命した、ということなのです。キリストは、全宇宙の支配者として君臨しておられるお方ですが、その方が、教会の頭なのです。

・教会におけるキリストの頭性:
キリストが教会の頭ということは、キリスト以外のお方を頭と考えてはいけないということです。地域教会で言えば、牧師やその他の指導者が頭になってはいけませんし、メンバーもそのように考えてはなりません。教団の頭も、代表ではなく、キリストご自身です。全教会の頭も、法王ではなくキリストです。私たちは、誰か人間を頭と考え易いものですし、その方が組織を纏めるのに便利はありますが、教会においては、その考えを厳に慎まねばなりません。それでは、どのようにキリストの「頭」性が現されるべきなのでしょうか。答えは一つです。その所属メンバーが、聖書の教えと聖霊の導きを通して示し給うキリストの指示に従うことで、キリストの頭性が発揮されます(5:24)。組織的な意味での指導者は存在しますが、彼もキリストに従うのです。メンバー全員が従うのです。それによってキリストの頭性が現されます。個人個人として、また、全体として、キリストの御心を求め、従って行こうではありませんか。
 
5.キリストの体の形成において(23節)
 
 
「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」
 
・「教会はキリストのからだ」:
キリストがかしらとして教会に与えられたという声明から導き出される論理的帰結として、教会はキリストの体という声明となります。つまり、教会とはキリストが頭となっている生きた有機体なのです。人間の寄せ集めではなく、相互に生命的な依存関係にある共同体(有機体)です。特にこのエペソという異邦人が主体となっている町にある教会として、ユダヤ人と異邦人との文化的障壁と敵対関係を葬ることによって「一つの体として」下さったこと(2:16)が強調されています。教会は体としてお互いの関係において一体です。その教会はキリストと縦なりの関係で一体です。二つの意味で一体なのです。

・「教会に満ちている恵み」:
教会は空っぽな場所でもなく、空っぽな器でもありません。教会には、「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところ」です。「いっさいのものを」とは、全宇宙のことです。「いっさいのものによって」とは、神の力、恵み、賜物のすべてです。つまり、全宇宙をその恵みと力によって満たしておられるお方の存在感が満ちている場所、それが教会なのです。大海が水で満ちているように、大空が星で満ちているように、教会は神の恵みと力と賜物に満ちています。その恵みを感謝しましょう。「余りそんな感じがしないなあ、教会だって人の集まりだから、問題が沢山あるではないか」と感じる方もあるでしょう。それは一面の真理です。コリント教会も、ガラテヤ教会も、問題に満ちていました。しかし、少なくとも、そのメンバーがキリストを頭といだき、キリストに従おうとするとき、「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところ」となるのです。その恵みを心から感謝し、聖名をたたえましょう。
 
終わりに
 
 
・キリストの主権を仰ごう:
今日は、東日本大震災一周年に当たります。厳しい出来事が続き、そして未だその状況は殆ど変わっていない状況ですけれども、世界におけるキリストの主権を見つめ、主を崇めましょう。表面だけを見ると、主は支配しておられるのか分からなくなることも正直に言ってあります。しかし、私たちの信仰の目を開いていただいて、キリストの主権を仰ぎ、確認しましょう。

・祈ることで教会の一体を確認しよう:
もう一つ、教会の一体性について新しい光と力を頂きましょう。今日は、世界中が日本のために祈る日なのです。世界中の祈りが一点に集中する時、私たちは一つのからだに属しているということを実感します。私たちが被災地のために祈る時、彼らと一体となります。それ以上に、主は、悩み苦しむ民と一体化されます。教会はキリストの体、この思想で本当に励ましを頂きます。
 
残りの時間、共に祈りましょう。