礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2012年3月18日
 
「罪の中に死んでいた者」
エペソ書連講(7)
 
竿代 照夫 牧師
 
エペソ人への手紙2章1-7節
 
 
[中心聖句]
 
  22   あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
(エペソ2章1,2節)


 
聖書テキスト
 
 
1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、 2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。・・6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。7 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。
 
1章と2章の繋がり:「復活」が鍵
 
 
2章の始まりは、第1章の締めくくりを受けています。神の偉大な全能の力がキリストの復活に現れた、そして、それがこの手紙の受取人であるエペソ信徒たちにも現れたのだ、というのが1章の結論でした。2:5−6はそれを受けて、キリストが復活されたように、彼らも「死」から甦らせられたのだ、と言います。「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。・・キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」と。そこに行く前の1−3節は、エペソ信徒達に代表される異邦人信徒達が罪の中に死んでいた、つまり、甦る前の姿を描いています。そして、4−7節は彼らに示された神の憐れみについて語ります。
 
A.罪の中に死んでいた人生(1−3節)
 
1.死んだもの(1節)
 
 
「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって」                _
 
・「あなたがた」とは、異邦人クリスチャンのこと:
この文脈では、「あなたがた」とはエペソの信徒たちのこと、ひいては異邦人クリスチャン一般をさします。3節でパウロは「私たち」と言ってユダヤ人クリスチャンに言及します。パウロは意味があって使い分けているのです。

・聖書における「死」とは、分離のこと:
人を捕まえておいて「おまえは死んでいた」と決めつけるなんて失礼な、とお考えの方もあるでしょう。しかし、聖書が「死」をどう見ているかを知れば、そんなに大きな疑問とはなりえません。聖書の死は、基本的には分離・離別という考えです。肉体と霊魂が分かれることが肉体的な死、家族と別れることが社会的死、神と人間が離別状態にあることが霊的な死と言うことです。この場所でパウロが言っているのは、当然ながら「霊的な死」です。

・罪が神と人を隔てる:
「あなたがたが死んだ者であった」というフレーズは、「あなたがたが死んでいたときに」と訳す方が良さそうです。神と人間を隔てたもの、それは罪です。「自分の罪過と罪」とありますが、罪過とは、特別な行為、罪とは、より一般的な悪しきことです。過去に冒してしまった悪い行い、現在行っている悪い行いと悪へ進む傾向性、これらが神と人間とを隔てています。神によって、神のために、神と共に歩むべく造られた人間が、神様なんかいらない、自分は自分、自分で運命を決め、自分が世界の中心だ、やりたいことを通すのだと独立宣言したところが罪の根本です。

・神から離れた人の悲劇:
その結果、すべての恵の源である神から離れた生活を送るようになりました。丁度、送電線が切れてしまって、家庭に電気が繋がらなくなった状態と似ています。電力はあるのに、断線によって、その力と恩恵が家庭に及ばなくなってしまった状態です。電気屋さんは、元と繋がっている線を「生きている」といい、断線で力が及ばない線を「死んでいる」と言います。この場所ではその意味で死んでいる、と言われているのです。パウロは別な手紙で、自堕落な生活をしているやもめについて、「生きてはいても、もう死んだものです。」(1テモテ5:6)と評しています。さらに、放蕩息子は父から離れて勝手な生活をしていましたが、父から見れば「死んだも同然」の息子でした(ルカ15:24=「この死んだ息子が生き返り・・・」)。
 
2.この世のながれに従うもの(2節a)
 
 
「そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い・・・」                _
 
・「周りが基準」:
この世の流れとは、神を知らないこの世の慣わし、秩序のことです。世とは、「神との関わり無しに組織され、機能している社会のこと」です。神という絶対的な基準を失っていますから、その行動原理は「周りの人がやっているから」です。何で赤信号でも渡るの?だってみんながやっているから。何で制限速度を守らないの?だってみんなが守らないから。何でたばこを吸うの?だってみんなが吸っているから。となるのです。

・「神の視点」の必要:
一昨週、代官山の町づくり懇談会で社会学者の宮台慎治氏の講演を聞きました。彼はクリスチャンではないと思いますが、でも、「物事を見るときに、平板な『われわれ』視点で見ると間違うことがある、より高い『神の視点』と呼ばれうる、高いところからの視点が必要だ」と指摘しました。本当にそうだなと共感しました。
 
3.サタンに支配されているもの(2節b)
 
 
「空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」
 
・空中とは、悪の支配している領域:
「空中」とは、天でもなく、地でもない中間的領域で、この場合は悪の霊が支配している領域のことです。「支配者」「霊」とは、サタンのことです。「今も」とは、エペソ信徒達とは違って、信じていない人々のことを指しています。私は神なんか信じない、神に従うなんて奴隷的だ、私は私だと自主性を主張しているように見えますが、実は、それはサタンの支配下にあると言うことを認めているようなものです。何故なら、この宇宙には中立地帯は有り得ないからです。真の神に従うか、サタンの引力に従うか、どちらかの世界なのです。丁度、地球と月の間には、引力の転換点があって、それ以上月に近づくと月の引力圏に入り、それ以前ですと地球の引力圏であると言ったようなものです。

・「不従順の子ら」とは、サタンの仲間:
それが「不従順の子ら」との意味です。サタンは、神に対する不従順の親玉です。サタンがサタンである所以は、彼が神に造られた最高のみ使いでありながら、神に従う立場を拒んで反乱を起こしたところにあります。ですから、神に逆らうものは、反逆者の親玉であるサタンに従っていることになるのです。

・サタンの支配の表れ:
いや、それでも私はサタンなんかに支配されていない、とお考えの方も多いでしょう。では、実験してみましょう。何か一つ、自分の為にも家族のためにも余り良くない習慣、癖、それらを止めようとしましょう。自分の中にそれを止めさせまいとする大きな力が働くのを感じませんか。感じるでしょう。それはもはや、私達が罪(とその背後にあるサタン)の奴隷になっている証拠です。反対に、これは良いことだ、やらねばならぬことだと思うことを実行してみてご覧なさい。それに抵抗する勢力を心の中に感じるでしょう。聖書は、「罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。」(ヨハネ8:34)と語っています。誰でも罪を喜んで冒す人はいません。いけない、いけないと思いながらついついそこにはまっていくのです。つまりその状態を罪の奴隷と言っているのです。
 
4.肉欲のままに生きるもの(3節a)
 
 
「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない・・・」
 
・罪は異邦人だけのものではない:
「私たちもみな」とは、エペソ信徒のような異邦人クリスチャンだけではなく、ユダヤ人も含んで、という意味です。ユダヤ人は一般的に真面目な生活を送っていましたが、それは表面的なことであって、実質は異邦人に勝るとも劣らない、「不従順の子ら」であったことをパウロは率直に認めます。

・肉欲の奴隷:
罪の奴隷を言い換えると、肉欲の奴隷です。肉体に伴う食欲、性欲、満足欲、これら自体は罪ではなく、神の創造になるもので良いものです。ただ、その肉体的な欲求は、神の栄光を顕わすという人間本来の目的に従って使用されるときにのみ麗しいのですが、肉体的欲求を満たすこと自体が人生の目的になったり、その欲求を満たすためには人間としてのルールを外しても構わないと言うことになると問題です。こういう状態を、聖書は「肉欲のままに生きるもの」と表現しています。それは単にコントロールされない性欲の行使だけではなく、コントロールされない怒り、憎しみ、ねたみ、野心、喧嘩などをすべて含みます。「肉欲のままに生きる」という生き方は、日本の現状を言い表している言葉のように思えます。
 
5.神の刑罰に値するもの(3節b)
 
 
「ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」            _
 
・私たちはみな罪人:
他の人たちとは、全く罪の中にいる人々を指します。あからさまな罪の中にあるか、密かな罪の中にいるかを問わず、私たちはみな罪人なのです。

・私たちは原罪を背負っている:
「生まれながら」とは、人間が持って生まれた原罪のことです。どんなに立派な人格者と思える人であっても、人間はみな生まれながら、この自己中心的な生き物として生きる性質を親から受け継いでいるのです。

・神の刑罰に値する私たち:
「御怒りを受けるべき子ら」とは、文字どおりには、「怒りの子」です。怒りっぽい子という意味ではなく、怒りに値するもの、つまり、神の刑罰を受けるのにふさわしいものという意味です。さて、神は怒りっぽいお方なのでしょうか。いいえ、神はいつくしみに満ち、憐れみに富み、怒ることが遅く、忍耐をもって私達一人一人を優しく扱いなさいます。けれども、反面、悪に対して徹底的に寛容なのではありません。忍耐はなさいますが、どうしても言うことを聞かないときには厳罰を与えなさいます。それは神の感情的な怒りではなく、正義の発動です。
 
1−3節のまとめ
 
 
私の原罪とは?:
ここまで描くと、ある人は反論するかも知れません。いや、人間はそれほど悪くはないよ、良いところも沢山あるではないか。ここまで描くのは一寸行き過ぎだよと。でも考えてみてください。私はパウロの描く人間像は、正に人間の本質をついていると思います。原罪を真正面から扱った小説に「氷点」があります。名もない雑貨屋のおばさんであった三浦綾子氏が、1964年の朝日新聞の懸賞小説で見事1等賞を取ったことで有名となりました。そこで扱われているのは、正しく生きようとし、上品に振舞っていながら、心の奥底に氷のように冷たい憎しみと復讐心を抱いた人間の姿です。あれは、特別な人の物語ではありません。私たち皆が共有している原体験です。だからこそ、キリスト教国ではない日本でも、人々の心を打ったのです。私たちも、この朝、パウロが描く人間の罪の姿に自分を重ね合わせてみて、本当に主の前に謙りたいと思います。
 
B.甦らせられた人生(4−7節)
 
 
この部分は、今日は走るだけにしましょう。
 
1.神の愛と憐れみ(4節)
 
 
「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、・・・」
 
・大逆転の「しかし」:
4節の「しかし」とは逆転の始まり。シーソーゲームの転換点とも言えましょう。過去の生涯がどんなに恥と後悔と悲しみに満ちたものであったとしても、いや、そうであればあるほど、神はそれらを全部裏返しにして、聖い、希望に満ちた生涯へとひっくり返しなさいます。丁度オセロゲームのようなもので、真っ黒の陣地を真っ白に変える力をもっておられる方、それが神です。神はどのような形でそれをなさったでしょうか。

・神の愛と憐れみ:
「あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに・・・」神はあわれみ豊かな神です。神の憐れみは私達の苦しみを自分の苦しみと受け取って下さるそのような心の豊かさを持ち給う神です。その愛を見える形で顕わして下さいました。
 
2.キリストと共なる復活(5−6節)
 
 
「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」
 
・死から復活へ:
この分節では直接言及していませんが、生かすという大きな行為の前に大切なステップがありました。私達の罪のために死んで下さったことです。これは第一ヨハネ4:9―10に「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」と記されています。神の独子であるキリストを十字架の惨たらしい死刑に渡し、私達すべての罪の身代わりとして下さった、ここに神の愛が最大に表れています。

・復活と昇天に与る:
十字架で死んだキリストが復活された、それと同じ道筋を信仰者は辿るのだとパウロは語ります。「 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。」(ローマ6:8)信仰によって自分をキリストと共に死んだと受け取る時、私たちはキリストと共に甦るのです。譬えは悪いですが、私の着物にくっつい蚤が、ジェットコースターに乗った私と一緒に上がったり下がったりの体験をするようなものです。蚤は料金を払ってもいないのに、ただひたすら私の体にしがみついていたからこうなったのです。私達がキリストを信じて彼に属すると宣言しますと、彼と共に死に彼と共に生きるのです。私達が犯した様々の罪は完全に帳消しになり、また、彼が甦った事に便乗して、神の子供として神にいと近く生きることが出来るようになるのです。
 
3.救われた目的(7節)
 
 
「それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。」
 
・再臨の時まで続く時代に亘って:
「あとに来る世々」とは、再臨の時まで続く時代のことです。

・神の憐みのサンプルが私たち:
「私たちに賜る慈愛」とは、私たちがどんなに価値のない、汚れた存在であったか、そんなものに神が恵みを注いでくださった、その恵みの大きさを、私という小さな存在を通して、世に証することです。
 
おわりに
 
 
このような罪人に注いでくださった神の憐みを深く感謝し、その憐みを宣べ伝える証し人とさせていただきましょう。
 
お祈りを致します。