礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2012年3月25日
 
「恵みのゆえに、信仰によって救われた」
エペソ書連講(8)
 
竿代 照夫 牧師
 
エペソ人への手紙2章8.9節
 
 
[中心聖句]
 
  8,9   あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
(エペソ2章8,9節)


 
聖書テキスト
 
 
4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―― 6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。7 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。
8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。9 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。10 私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。
 
復習:クリスチャンの過去
 
 
昨週は、クリスチャンになる前の私たちの姿についてのパウロの描写を1−3節から学びました。復習しましょう。

・罪過と罪の中に死んでいて
・この世のながれに従い、
・サタンに支配され、
・肉欲のままに生きるもの、
・(その結果として)神の刑罰に値するもの
という絵でした。

このような暗い過去をひっくり返す言葉が4節の「しかし」です。そこから、全く明るい上向きの人生が示唆されます。
 
1.神の愛と憐れみ(4節)
 
 
「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、・・・」        _
 
・大逆転の「しかし」:
4節の「しかし」とは逆転の始まり。シーソーゲームの転換点とも言えましょう。過去の生涯がどんなに恥と後悔と悲しみに満ちたものであったとしても、いや、そうであればあるほど、神はそれらを全部裏返しにして、聖い、希望に満ちた生涯へとひっくり返しなさいます。丁度オセロゲームのようなもので、真っ黒の陣地を真っ白に変える力をもっておられる方、それが神です。神はどのような形でそれをなさったでしょうか。

・神の愛と憐れみ:
「あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに・・・」神はあわれみ豊かな神です。神の憐れみとは、私達の苦しみを自分の苦しみと受け取って下さる心の豊かさのことです。神はその愛を見える形で顕わして下さいました。
 
2.キリストと共なる復活(5−6節)
 
 
「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」
 
・十字架の死が前提:
この分節では直接言及していませんが、生かすという大きな行為の前に大切なステップがありました。私達の罪のために死んで下さったことです。これについては第一ヨハネ4:9―10に「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」と記されています。神の独子であるキリストを十字架の惨たらしい死刑に渡し、私達すべての罪の身代わりとして下さった、ここに神の愛が最大に表れています。私たちは来週から、聖受難週に入ります。私たちの罪のために極限まで苦しまれた主のご愛を深く思い巡らしたいと思います。

・復活と昇天に与(あずか)る:
十字架で死んだキリストが復活された、それと同じ道筋を信仰者は辿るのだとパウロは語ります。「 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。」(ローマ6:8)信仰によって自分をキリストと共に死んだと受け取る時、私たちはキリストと共に甦るのです。譬えは悪いのですが、私の着物にくっついた蚤が、ジェットコースターに乗った私と一緒に上がったり下がったりの体験をするようなものです。蚤は料金を払ってもいないのに、ただひたすら私の体にしがみついていたからこうなったのです。私達がキリストを信じて彼に属すると宣言しますと、彼と共に死に彼と共に生きるのです。私達が犯した様々の罪は完全に帳消しになり、また、彼が甦った事に便乗して、神の子供として神にいと近く生きることが出来るようになるのです。

・それは、ただ恵みによる:
「あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。」キリストが甦ったことに便乗して、と今申し上げました。正に私たちが生かされた、救われたのは、キリストの十字架と復活にあやかってなされた、それ以外ではない、という意味で、「救われたのは、ただ恵みによる」のです。(これは、7、8節でもう一度繰り返されます。)恵とはギリシャ語でcharisと言います。これはchairoo(喜ぶ)から派生した名詞で、顧み、親切、恩沢という意味です。新約聖書で155回使われ、内133がパウロ書簡に出てきます。この恵が神に結び付けられると、「相応しくないもの、価値のない者に無代価で与えられる神の愛の賜物」のことです。
 
3.救われた目的(7節)
 
 
「それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。」
 
・再臨の時まで続く時代に亘って:
「あとに来る世々」とは、再臨の時まで続く私たちの歴史の各時代のことです。

・私たちが神の憐みのサンプルに:
「私たちに賜る慈愛」とは、私たちがどんなに価値のない、汚れた存在であったか、そんなものに神が恵みを注いでくださった、その恵みの大きさを、私という小さな存在を通して、世に証することです。私達自身は真に小さな存在です。それどころか、1−3節まで描かれている「罪まみれ」を地で行ったような、正にダメ人間です。でも、そんなダメ人間にも神が目を留めて、人生を造り変えて下さった、それならば、他のすべての人にも希望があるよ、というサンプルとしての価値はある、というのがパウロの論理です。正にその通りと思いませんか。先週行われた年会において、新代表がメッセージをされました。その中で、モーセが「私は一体何者なのでしょう」と、自分の無力さ、失敗の人生、使命の大きさに対する自分の小ささを訴えている部分を強調されました。モーセがそうならば、況して私たちはそれ以上に無力・無価値なものです。しかし、開き直った言い方をすれば、私たちがダメであればあるほど、神の栄光が大きく現れるのです。
 
4.神の恵みが救いの源泉(8−9節)
 
 
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」
 
8−9節は、今まで縷々と述べられた救いに関する説明の纏めです。この言葉の一句一句をかみしめたいと思います。

・罪の中に死んでいた人が:
「あなたがた」という言葉の中に、1−3節までを地で行っていた私たち罪人の姿が含まれます。

・恵みだけが源泉:
ここでパウロは、救いは、恵みのゆえに、信仰によって与えられたと言っています。恵と信仰とは並列ではありません。どちらが大切かと言えば、勿論恵みです。ウエスレーは、その「信仰による救い」と言う説教の中で、「恵は救いの源泉、信仰は条件」という言い方をしています。神の恵みのゆえに、人間が信仰を持って応答するときに救いがなされます。人間の努力、真面目さ、克己、難行苦行が私たちを救うのではありません。人間は徹底的に無力であり、徹底的に神の恵みにすがるしか生きられないのです。

・救いを齎す信仰:
神の恵は私達の信仰と共に働く時にのみ効力を発揮します。恵は私達を救う神の御手、信仰はそれを捉える私達の手です。この二つの手が握られるとき、私達は引き上げられるのです。その信仰とは、私たちに恵みを注いでくださった神への信仰、その恵みの管となってくださったキリストの贖いへの信仰です。

・神の賜物としての救い:
8節に「それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」と記されています。この文章における「それ」を「信仰」と解釈する人もいます。つまり、「私たちが持つ信仰も自分から出たものではなく、神から与えられた賜物だ」という考えです。そうすると、「信じられないのは神の賜物が与えられていないから」という結論になってしまいます。文法的なことで言いますと、「それ」という代名詞(touto)は中性名詞です。信仰という名詞(pistin)は女性名詞です。とすると、この「それ」は、救いを示していると取ることが自然です。(著名な新約学者のFFブルースは、この立場を支持します。)勿論、広い意味で言えば、信仰も神の賜物です。でもそれは信じる力を恵として与えられたということであって、信じる行為を神が私たちに代わってしてくださることではありません。丁度、呼吸するための肺や空気は神の賜物ですが、生きるためには肺を動かさなければならないのと同じです。神が私たちの代わり信じて、悔い改めてくださるわけではありません。さて、パウロがここで「救い」と言っているのは、遠い将来の救いのことではなく、現在的な救いのことです。「救われている」という言葉は、それを表します。この救いは、かつて犯した罪とがの赦しを含みます。主は十字架の血潮のゆえに、私たちの罪を全くなかったかのように赦し、忘れてくださいます。感謝しましょう。それだけでなく、救いとは現在的な罪に勝つ力を意味します。キリストは十字架で死なれただけでなく、復活されました。その復活に与るとき、罪に勝つ力が与えられるのです。

・行いによらない:
パウロは念のために付け加えます。「行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」救いが私たちの行いによって得られるのではなく、神の恵みとして与えられるという事実は、人間の誇りを除きます。溺れかけた人が投げ出されたロープに捕まって助かったとしましょう。かれは、自分が如何に上手にロープを掴んだかを誇ることは決してしません。ロープを投げてくださった人を感謝するのみです。救いの証のときに、私たちが如何に苦闘して信仰に辿りついたかを強調するのは筋違いです。むしろ、自分を救ってくださった主の大いなる恵みを讃えたいと思います。
 
終わりに:私が、神の限りない恵みのゆえに、贖い主への個人的信仰によって、救われていることを、確認しよう
 
 

この朝、パウロの信仰告白を私の告白としてはっきり申し上げましょう。

・私、この罪と咎の中に死んでいた私が、
・キリストの十字架と復活に示された神の大いなる限りない恵みのゆえに、
・キリストを主と信じる個人的な信仰によって、
・すべての罪から救われている

この一つ一つをしっかり意味しながら告白すると、大いなる感謝と賛美が溢れてくることでしょう。

その感謝をもって、これから聖餐式に臨みましょう。
 
お祈りを致します。