礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2012年4月8日
 
「なぜ泣いているのですか?」
イースターに因み
 
竿代 照夫 牧師
 
ヨハネの福音書20章1-18節
 
 
[中心聖句]
 
  15   イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」
(ヨハネ20章15節)


 
聖書テキスト
 
 
20:1 さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。2 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」3 そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。4 ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。5 そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中にはいらなかった。6 シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓にはいり、亜麻布が置いてあって、7 イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。8 そのとき、先に墓についたもうひとりの弟子もはいって来た。そして、見て、信じた。9 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。10 それで、弟子たちはまた自分のところに帰って行った。
11 しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。12 すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。13 彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」16 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った。17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。」18 マグダラのマリヤは、行って、「私は主にお目にかかりました。」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。
 
はじめに
 
 
イースターおめでとうございます。全世界の主にある民と共に、この日、「よみがえりの主」を心から賛美しましょう。因みに、先週終わった選抜高校野球で、ある高校の校歌に「よみがえりの主を仰ぎつつ」という句がありまして、是非決勝まで残って欲しいと思いましたが、準々決勝か何かで破れてしまい、残念でした。
 
1.復活の重要性:「復活」は福音書著作の焦点
 
 
さて、新約聖書における「復活のメッセージ」の重要性は、強調しても強調しすぎることはありません。特に、福音書が書かれたのは、イースターの出来事を記すためであったと言えます。別な言い方をすれば、イースターが無ければ他の出来事は無意味になってしまいます。つまり、福音書はイースターの視点から書かれたのです。というのは、イースターの経験が、初期キリスト教共同体のアイデンティティを決定したからなのです。
 
2.復活日における主の現われ
 
 
まず、4つの福音書を総合して、イースターの日に於ける復活のイエスの現れを時系列に沿って纏めて見たいと思います。

・早朝、エルサレムの墓においてマグダラのマリヤに
・同じく他の女達に
・午後、エマオ途上においてクレオパと他の弟子に
・時刻不明、エルサレムにおいてペテロに
・夕刻、エルサレムの家において10弟子に
 
3.マグダラのマリヤ
 
 
復活の主イエスが一番初めにご自分を現わされたマグダラのマリヤについて、福音書の他の記事から要点を紹介します。

・マグダラ村の出身(地図参照):
マリヤという名前は、昔の花子さんのように、とてもありふれた名前でした。そこで区別をするために、出身地をつけて呼ぶことが多かったのです。彼女は、ガリラヤ湖北西岸で、主イエスの活動拠点であるカペナウムの隣のマグダラ村の出身でした。マグダラという言葉は塔という意味です。恐らくその町に見張りの塔があったためと思われます。

・悪霊を追い出され、献身(ルカ8:2):
マリヤは、主イエスにより、そのうちに住んでいた七つの悪霊をおいだされ、献身的に主に仕える弟子の一人となりました。ルカ8:2に「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリヤ、ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか自分の財産をもって彼らに仕えている大ぜいの女たちもいっしょであった。」記されています。この記事から分かることは、@悪霊によって精神的・霊的・肉体的に痛めつけられた、悲しい過去を背負った女性であったということ(レギオン<ローマ軍の一個大隊>ほどの悪霊に取り付かれていた男と似たところがあります)、A主イエスによって奇跡的に癒され、非常な感謝と感恩の情から主イエスに仕えるようになったこと、B主イエスを支えた女性達のリストの最初に記されるほど、献身的に主に仕えた弟子であったということです。ルカ7:36以下に言及されている「罪ある女(罪を過去に犯していた女)」をマグダラのマリヤと結び付ける聖書解釈者もありますが、素直な読み方をすると、これは無理です。また、マグダラのマリヤが昔は遊女であったとか、その後もイエスと特別な関係にあったとか言う言い伝えがありますが、これは、「全く根拠のない」憶測に過ぎません。

・十字架のそばに居た(マタイ27:56、61):
マタイは、十字架のそばにいた勇気ある女性達の筆頭として、マグダラのマリヤを紹介します。「その中に、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、ゼベダイの子らの母がいた。」(マタイ27:56)。さらに、主が絶命した後の埋葬の手伝いを最後まで行なった人物としても紹介されています。「そこにはマグダラのマリヤとほかのマリヤとが墓のほうを向いてすわっていた。」(マタイ27:61)

・復活を目撃(マルコ16:1、9):
イエス復活の報告を天使から聞き、それをペテロへ報告したのも、このマリヤです「さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。」(マルコ16:1)そして復活の主と最初に出会いました「さて、週の初めの日の朝早くによみがえったイエスは、まずマグダラのマリヤにご自分を現わされた。イエスは、以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたのであった。」(16:9)
 
4.復活の朝(1−10節)
 
 
・早朝の墓参り(1節a):
マリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に出かけました。金曜日の夕方は安息日が迫っていて、主イエスの体を慌ただしく墓に横たえたままだったことを気にしていましたので、香料を塗り、主をきちんと埋葬したかったのでしょう。

・転び去った墓石(1節b−2節):
墓に着いてみると、墓の入り口を塞いでいた大きな丸い石が、転び去ったのを見ます。驚いた彼女は、走って、シモン・ペテロと、ヨハネのところに来て「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません」と報告します。

・ペテロとヨハネの競走(3−7節):
そこでペテロともうひとりの弟子(ヨハネ)は外に出て来て、墓のほうへ行きました。ふたりはいっしょに走り続けましたが、ヨハネがペテロよりも速かったので、先に墓に着きました。墓の入り口は小さかったので、体をかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中にはいりませんでした。ペテロも彼に遅れて到着しましたが、先に墓にはいります。そこで亜麻布が置いてあって、イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に(死体が置かれていたままの状態を示して)巻かれたままになっているのを見た。」というのです。この出来事は、イエスの体が慌ただしく運び去られたのではないことを示します。ちょうど蝉の抜け殻の様に、イエスが違う次元に昇華された事を示します。

・二人の事実確認(8−10節):
ヨハネは物語を続けます。「そのとき、先に墓についたヨハネもはいって来た。そして、見て、信じた。」この信じたという言葉の主語は単数で、ヨハネを指しているものと思われます。彼は、(必ずしも復活を信じたのではなく)奇跡的な方法で体が取り去られたという事実を信じたのです。この二人は「イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった」(9節)のです。聖書が救い主は復活することを予言していること、その預言が主イエスによって成就したことまでは理解できていなかったのです。
 
5.泣いているマリヤ(11−13節)
 
 
・すすり泣き:
さて、二人が行ってしまって、取り残されたマリヤは墓の入り口に留まって、しくしく泣いています(11節)。「しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。」この泣き方は大声の叫び声のような泣き方ではなく、すすり泣きのようなものであったと思われます。

・泣いている理由:
彼女はなぜ泣いていたのでしょうか。その理由は13節で語られます。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」彼女の悲しみは、主イエスが亡くなられたこと自体ではなく(もうそれは、既に起きてしまったことですから)、その死体が何者かに盗まれてしまったことの悲しさから来ています。主が甦られたという可能性は、これっぽっちも思い浮かびませんでした。主イエスが生前、何度もそのことを予言しておられたにも拘らず、彼女は、そのことばすら思い出さなかったのです。ああ、なんと私たちは自分の固定観念に固執して、神の全能を自分の常識の枠に嵌め込んで勝手に絶望してしまうことでしょうか。
 
6.なぜ?と問われる主イエス(14−15節)
 
 
「14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。15 イエスは彼女に言われた。『なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。』彼女は、それを園の管理人だと思って言った。『あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。』」
 
・イエスを見ながら、認識できない:
マリヤは振り返ってイエスを見ました。しっかりと見たけれど、イエスとは認識しませんでした。イエスの姿が違っていたからなのでしょうか。そうは思えません。いつもの姿の主がおられたのです。涙で目が曇っていたのでしょか。そうかも知れません。でも最大の理由は、イエスがそこにおられる筈がないと頭から決めてしまっている先入観だったと思います。如何に屡々私達は、この先入観で信仰の目を曇らされてしまうことでしょうか。

・主は今も居られる:
こんな所にイエスがおられる筈がない、と思えるところにイエスはおられるのです。私達が病の友を訪ねるとき、主はその友の姿でおられます。牢屋を訪ねるとき、囚人の姿でおられます。私達のどんな小さな愛の業についても、それを忘れない受け入れ手として主はおられるのです。マザー・テレサは、この小さきものにしたことは自分にしたことだと仰る主に喜ばれるようにと、カルカッタで見捨てられた人々に愛を注ぎました。また、主は見られては具合の悪い場所にもおられます。絶体絶命のピンチに立って、誰も私達を振り向いてくれないという孤独のただ中にも主はおられます。主が一番近くにおられるのは砕かれた魂に対してです。詩篇34:18 「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。」イエスの現れなさった一人々々とその状況を見ると、ほぼ例外なく、砕かれた、失望した魂に対して主は自らを現しておられます。二人の弟子もそう、ペテロもそう、7人の漁師達にしてもそうでした。このイースターの朝、私は一番淋しくて、問題が多くて、厳しい状況にある、と考えている方があるでしょうか。その方にこそ、主は近くにあってご自身を示してくださいます。

・なぜ?と問われる:
主は、泣いているマリヤに「なぜ?」と語り掛けました。主は、その理由は良くご存知でした。でも「なぜ?」と問いなさるのです。マリヤの不信仰を責めるというよりも、何故泣いているの、泣く理由なんか一つもないだろう、と励ましておられるのです。
 
7.励ます主(16−18節)
 
 
・マリヤよ、励ます主:
16 イエスは彼女に言われた、「マリヤよ。」この優しい呼びかけによって、懐かしい主の思い出が急に甦ってきました。この方は墓守でもなく、誰でもなく、まごうかたなく主イエスなのだ、と直感したマリヤは振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、私の先生)。」とイエスに言いました。そして懐かしさの余り、主に抱きつこうとしました。

・より深い信仰へと導く:
17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。」主イエスは、私達の信仰が、目に見える物、手で触れる物に従っての信仰ではなく、感情に囚われない、確固とした神の事実にもとづくものとなるために、主は「さわるな」と語られたのです。マリヤは主のご命令どおり、弟子たちのところに行き、報告をしました。それが復活の事実が確認される大きなきっかけになったのです。
 
終りに:なぜ?と自問しよう
 
 
今日は、主がマリヤに問いかけられた「なぜ泣いているのですか」という問いの意味を考えたいと思います。私達も、マリヤのように色々なことで落ち込んだり、悲しんだり、絶望したりします。それはある意味で自然なことです。しかし、自分を少し外から眺めて主イエスと共に「なぜ」と問うて見ましょう。別なことが分かってくるかもしれません。詩篇作者は、絶望に落ち込んだ時こう自問しました「わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私の前で思い乱れているのか。」(詩篇42:5)と。この自問を投げかける時、うなだれていることが間違っていることに気付きます。復活の主がそばに居られるのに落ち込む理由はありません。そのことに気付きますと、私たちは詩篇作者が「神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。」と自分で答えた言葉の重みを実感するでしょう。
 
お祈りを致します。