礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2012年4月22日
 
「私たちは神の作品」
エペソ書連講(9)
 
竿代 照夫 牧師
 
エペソ人への手紙2章4-10節
 
 
[中心聖句]
 
  10   私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。
(エペソ2章10節)


 
聖書テキスト
 
 
4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―― 6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。7 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。
8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。9 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。10 私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。
 
はじめに
 
 
受難週・復活節・召天者記念礼拝と特別なことが続きましたが、今日からエペソ書連講に戻ります。前回は、8節の「恵みのゆえに、信仰によって救われた」という、キリストの福音の核心とも言えるようなテーマを取り上げました。今日もその続きですが、もう一歩進んで、救われたものが、どのように歩むべきかという前向きのテーマに移ります。
 
1.恵みのゆえに、信仰によって救われる
 
 
その前に、前回の要点を復習しておきたいと思います。

・救いは、ただ恵みによる:
私たちが救われたのは、キリストの十字架と復活にあやかってなされた、それ以外ではない、という意味で、「救われたのは、ただ恵みによる」と5節で語られています。恵とは「相応しくないもの、価値のない者に無代価で与えられる神の愛の賜物」のことです。

・恵み以外の要素は入ってこない:
8節で「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」と語られますが、人間の救いは一方的に神の恵みによる、それ以外の要素、例えば良い行いは入ってこない、と強調します。人間の努力、真面目さ、克己、難行苦行が私たちを救うのではありません。人間は徹底的に無力であり、徹底的に神の恵みにすがるしか生きられないのです。恵みによる救いとは、余りにも単純で、余りにも「虫の良い」話なので、人間はそれに単純に乗り切れないという傾向があります。それに「行い」「努力」「苦行」「頑張り」(失敗し、罪責感を感じ、悔い改め、告白し、赦しを乞い、回復する、という無限のパターンの繰り返し→疲れと幻滅)の要素を付け加えないと安心できないと思うのです。デイビッド・シーモンズ氏が「恵みを知らないクリスチャン」という本で強調しているのはこの点です。彼は自分は神の目から不十分、他人の目からも不十分、自分で見ても不十分というコンプレックスに悩んでいる多くのクリスチャンの実例を見て、こう言います、「私は、福音主義のクリスチャンを悩ましている感情的・霊的トラブルの主要な原因は、神の無条件の恵みを受け損なっていること、そしてその恵みを他の人に与え損なっていることにあると確信するようになりました。」(p18,19)

・信仰は、恵みを頂く管:
パウロは、救いは、恵みのゆえに、信仰によって与えられたと言っていますが、恵と信仰とは並列ではありません。どちらが大切かと言えば、勿論恵みです。「恵は救いの源泉、信仰は条件」です。示された神の恵みに対して信仰を持って応答するときに救いがなされます。恵は私達を救う神の御手、信仰はそれを捉える私達の手です。この二つの手が握られるとき、私達は引き上げられるのです。信仰という行いによるのでもありません。溺れかけた人が投げ出されたロープに捕まって助かったとしましょう。かれは、自分が如何に上手にロープを掴んだかを誇ることはしません。ロープを投げてくださった人を感謝するのみです。

・誇るものは恵みだけ:
私たちは、しばしば、自分の信仰深さを密かに誇ったり、或いは、他人の信仰の素晴らしさを賛美したりしがちです。でも、この福音の原理に従えば、それは間違いです。誇るのはただ神の恵み、それだけです。もし行いによって救われるとすると、そこに人間が誇る余地が生まれます。しかし、福音は、徹底的に人間の誇りを取り除きます。ローマ4:2−5にもそのことが強調されています、「もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。『それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。』とあります。働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」さらに、パウロは、「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。」(ローマ3:27)と言っていますし、「この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。まさしく、『誇る者は主にあって誇れ。』と書かれているとおりになるためです。」(1コリント1:28−31)と重ねて、人間の誇りが救いに関して入り込むべきでないことを強調します。
 
2.私たちは神の作品
 
 
・神の業としての救い:
救いが人の業ではなく、神の業であることを強調する言葉が10節における「神の作品」という言葉です。罪に死んでいたものを作り変えてくださったのは、正に神の働きの結果なのです。救いの前提としての人間の働き(行い)が除かれた、だから、これは神の御業だけなのだということです。

・キリストにおける新創造:
勿論、私たちは、最初の創造においても神の作品であるということは大前提です。しかし、2:10が言おうとしているのは、神の初期の創造としてよりも、「キリストにあって造られた」という新創造(再創造)に強調点があると思います。2コリント5:17が「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」と語っている通りです。もし私たちが被造物であるとすれば、被造物は創造者に対して何も誇るところがないのは当然です。イザヤも、土器が陶工に対して誇ることがありえようかと語っています(イザヤ29:16)。
 
3.良い行いは、救いの結実
 
 
・良い行いは救いの条件ではなく結果:
新創造の目的は「良い行ないをするため」なのだ、とパウロは言います。重ねて言いますが、人間は良い行いの積み重ねで救われるのではありません。しかし、良い行いは、救いの結果として現れるものです。「善行は信仰者が救いに与った結実である。善行によって救いは獲得されないが、同時に救いを経験すると必ず善行に現れるはずである。」(ウェスレアン注解)テトス2:11、14を見ますと、「すべての人を救う神の恵みが現われ、・・・キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。」これがキリストにある信仰者が歩むため新しい人生コースと行動を示唆しています。救いが本物であれば、神の民の正しい生き方と行為に現れるはずだとパウロは言うのです。

・神の性質を反映する「良き行い」:
「その良い行ないをもあらかじめ備えて」くださった、とはどんな意味なのでしょう。平たく言えば、神のご性質を反映するものとしての良き歩みが準備され、期待されているということです。レビ記11:44「わたしはあなたがたの神、主であるからだ。あなたがたは自分の身を聖別し、聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。・・・わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるから。あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。」さらに主イエスも「ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。」(ルカ6:35−36)と語ります。

・歩みとは日常生活=アンティノミアン(律法不要論者)への警告:
「歩み」とは日常生活を意味しています。ここに私たちはアンティノミアン(律法不要論者)への警告を見ます。恵みによって救われた、恵みによって救いが完成されるという事は、福音の大前提であり、根幹ですが、それを履き違えて、でたらめの許容を勧める人々が教会歴史の中でも後を断ちませんでした。人々は、行いによらない救いという福音を聞くとき、行いはどうでもよいという「いい加減主義」に飛びつき易いのです。よき行いは主のご命令であり、それを無視するとすれば、私たちは恵みによって救われたと信じる理由がなくなります。「神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。」(ローマ3:30−31)とパウロは語りつつ、恵みによる信仰による救いは律法を確立するものと強調します。そして良き行いをするためには、聖霊の賜物が必要です。「肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」(ローマ8:4)と語っています。恩寵の手段と呼ばれるものは本当に大切です。しかし、祈り、聖書拝読、証、奉仕といったものがクリスチャンの守るべき行いと捉えられると、恵み基調のクリスチャン生活が、いつの間にか行い基調のクリスチャン生活に擦り替わります。でたらめでもなく律法でもない、その中庸は、聖霊による歩みだとガラテヤ書は語ります。御霊に頼りつつ、実り豊かな信仰生活を全うしましょう。
 
おわりに:恵みに対する感謝をもって主に仕えよう
 
 
「恵みを知らないクリスチャン」の最後は印象的な物語で終わっています。オーストリアのフランツ・ヨーゼフ一世のお葬式の模様です。最初は猛烈に長い肩書きで、地下墓所に入ることを拒絶されました。しかし、最終的には、彼は「われらの兄弟、われらと同じ罪人、フランツ・ヨーゼフの遺体をお持ちしました。」という単純な肩書きで入れられたと言うのです(p.305−307)私たちを生かすのは恵み、そして恵みだけです。その恵みに対する感謝をもってこの一週間も生きようではありませんか。
 
お祈りを致します。