礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2012年4月29日
 
「キリストこそ平和」
エペソ書連講(10)
 
竿代 照夫 牧師
 
エペソ人への手紙2章11-16節
 
 
[中心聖句]
 
  14   キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。
(エペソ2章14節)


 
聖書テキスト
 
 
11 ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、12 そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。
13 しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。
14 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、15 ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、16 また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。
 
はじめに
 
 
昨週からエペソ書連講に戻りました。前回は、10節の「神の作品」という題で、私たちがキリストにある傑作品であること、その恵みを誇ろうとお話しました。今日は、造りかえられた異邦人であるエペソ信徒達が、イスラエル人クリスチャンのコミュニティに一体化された恵みに注目します。
 
1.異邦人(イスラエル以外の人々)は救いから遠かった(11-12節)
 
 
「ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。」
 
「ですから」という言葉で11節が始まります。今まで述べたことをまとめて、次を展望するための枕詞です。エペソ信徒たちは、救われる前のようすを思い出すように勧められています。私たちも「切り出された岩、掘りだされた穴を思い出す」(イザヤ51:1)ことが大切です。

・彼らは「異邦人」(イスラエル以外の人)であった:
「以前は肉において異邦人でした。」エペソ信徒達の多くは異邦人(イスラエルではない人々)でした。イスラエル人でなくて何が悪いのか、と同じ異邦人である日本人も考えてしまいますが、これは民族的な優劣の問題とは関係ありません。神の人を救いなさる順序の問題なのです。神は数多くある民族の中から、まずイスラエルを選び、彼らを訓練し、彼らを通して救いを与えようとされたのです。イスラエルが特別に勝れた民族であったのではなく、神の救いの管として用いられたのです。神を畏れるイスラエル人は、その恵みを感謝していました。その例は詩篇にも見られます。「主はヤコブには、みことばを、イスラエルには、おきてとさばきを告げられる。主は、どんな国々にも、このようには、なさらなかった。」(詩篇147:19−20)それに比べると、異邦人は、キリストの救いが成し遂げられる前は、その恵みの外に置かれていました。

・選びの契約のしるしである割礼を受けていなかった:
「割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって・・・」イスラエルは、その父祖アブラハム以来、神の選びの契約に関わる証として割礼を受けました。その意味では、異邦人、特にギリシャ・ローマ世界の人々は無割礼です。序ながら、割礼制度はイスラエル人以外でも多く行なわれており、私の知っている限りアフリカの諸部族でも一般的です。しかし、神との契約の印としての割礼はイスラエル人だけです。割礼はイスラエル人から見れば民族的な誇りでした(ピリピ3:5)。でも反対に、異邦人からは蔑視されていました。異邦人がイスラエル教に改宗する時には割礼が要求された訳なのですが、このハードルは高いものでした。ですから、パウロが、割礼という外側の印とは関係なく、人は神に受け入れられると説いたのは実に革命的なことだったのです。

・メシアへの希望を持っていなかった:
「そのころのあなたがたは、キリストから離れ・・・」エペソの人々が、意識的にキリストを拒んでいたのでもなく、キリストからわざと離れていたというのでもありません。ここでのキリストは、一般的な意味での「キリスト(油注がれた者=メシア)」を指している、と思われます。つまり、イスラエルが持っていたメシア待望を共有していなかった、つまり、終末的な希望を持たなかったという意味になります。これは、次の句の「望みもなく」という言葉とも繋がっています。この望みとは、一般的な希望ではなく、定冠詞付の「ザ・ホープ」つまり、メシア来臨の希望です。つまり、「約束の契約については他国人」であったのです。

・神殿での礼拝にも入れなかった:
「イスラエルの国から除外され」とは、社交的な意味でも排除されていただけでなく、礼拝の場所からも排除されていました。前述のように、イスラエルは「聖なる国民」として特別に選び別たれた民でした(出エジプト6:7)。彼らが選ばれたのは、多くの国々に祝福を齎すためであったのですが、彼らは民族的プライドを持つようになり、他民族を見下し、他民族を礼拝行為から排除するようになりました。神殿の内庭には、「異邦人であって、ここより近づくものは死刑にされる」とギリシア語とラテン語で書かれていたくらいです。

・生きる意味を与える神を知らずに生きていた:
「この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。」私たちの人生に意義を与える真の神を知らずに歩んでいました。最近起きている犯罪のどのケースを見ても、その行動の背後には、私たちを創造し・愛しておられる神、私たちを見ておられる神、私たちに報いてくださる神を知っていたならば、こんな行動は取らないだろうと、伝道の足らなさを申し訳なく思います。
 
2.異邦人は「今」、神に近づけられた(13節)
 
 
「しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。」
 
・キリストの贖いが完成した「今」、ようすが違った:
それまで述べてきた暗い絵を一気に大逆転する時にパウロは、この「しかし」という接続詞を好んで用います。この13節の「しかし、今や」は、かつて神の契約の外に置かれていた異邦人が、今や大きな祝福の民として迎え入れられるというその逆転の「しかし」です。新改訳聖書では「今や」が訳されていませんが、原文には入っています。大切な言葉です。待ち望んでいたメシアが来臨され、その救いを成し遂げられた「今」は今までと全く違った状況なのです。

・十字架は、聖い神と罪人とを結びつけた:
キリストの十字架の贖いは、正義なる神と罪ある人との橋渡しをします。イザヤ53:12には、「多くの人の罪を負い、・・・とりなしをする」と記されていますが、キリストが仲立ちとなって、神と人との和解を成し遂げるのです。キリストはご自分の生贄を通して、つまり、体を張って、平和を作り出されたのです。「神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。」(2コリント5:18−19)私たちは聖い神の前に出る時には恐怖を感じます。自分の罪深さを知っているからです。しかし、キリストの血潮によって恐れることなく御前に近づくことができるようになりました。「私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。・・・私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」(ヘブル10:19−22)。
 
3.キリストは平和の主である(14-16節)
 
 
「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」
 
「キリストこそ私たちの平和であり」とは何と素晴らしい言葉でしょうか。キリストが平和を齎したと書かずに、キリストが平和なのだ、とパウロは言うのです。彼の内側に平和が満ちており、彼にあるときに平和が作られるのです。

・イスラエルと異邦人との間には大きな壁(プライド、偏見)があった:
「二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。」この場合の二つとは、当然、イスラエル人と異邦人という二つのグループを指しています。そこに「隔ての壁」がありました。イスラエル人には、選民意識というプライドがありました。本当は、何も勝れていたのではない、それどころか、世界の諸民族の中で小さく弱い存在なのに、主の憐れみと目的によって選ばれただけなのに、いつの間にか、自分たちは特別だというプライドを持つようになっていました。異邦人はというと、イスラエル人の(ある意味で)高い道徳性、神を畏れる敬虔さに尊敬は払っていましたが、その頑固さ、律法に縛られた「不自由な」生き方にはある種の軽蔑を抱き、更に、彼らの尊大さに辟易していました。紀元1世紀のローマ帝国世界において、多くのイスラエル人が離散者(ディアスポラ)として各地に存在していました。しかし、彼らは商売などのお付き合いはあったものの、現地の異邦人を食事に招くなどという個人的なお付き合いは一切せず、孤立して存在していました。パウロはその敵意を「壁」と表わしています。それは、神殿の外庭にあった(先ほどお話した異邦人とイスラエル人を分ける)内壁をイメージしているようです。

・その壁の根っこは自分で自分が救えるという律法主義であった:
「敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。」これは分かりにくい表現です。砕いて言うと、グループ同士の敵対的感情(偏見、プライド、差別意識、蔑視・・・)の源は、イスラエル人の中に抜きがたく存在していた律法主義にある、ということなのです。自分たちは神に与えられた律法をきちんと守っている、だから、神に喜ばれる特別な民族なのだという誇りがイスラエル人にはありました。異邦人から見ると、あれも食べないこれも飲まない、堅苦しい連中だ、その上威張っていて人を見下しているプライドの塊だ、という感想を持たれていたのです。キリストの十字架はその律法の束縛を打ち砕くものでした。律法そのものが悪かったというのではなく、律法が人を救うという間違った観念が問題だったのです。

・十字架は、「恵みによる救い」の道を開いた:
十字架は律法主義を打ち砕きました。人は律法を守ることができない罪人だ、だからこそ、十字架の身代わりの救いが必要だったというこの重要な真理が、あの惨たらしい十字架刑の中に宣言されていたのです。十字架上で主イエスが「完成した」「ことが終わった」と宣言された時、律法の束縛が解き放たれ、恵みによる救いが成し遂げられたのです。そこで、神と人との和解が齎されました。

・十字架は、人と人との和解(仲直り)ももたらした:
イスラエルも異邦人も同じ罪人だ、イスラエルも異邦人も、自分の努力によって救われるのではなく、一方的に主キリストの贖いの恵みによって救われる、という共通の土俵に立つとき、この二つのグループは、各地に生まれた教会の中で、一つになって行きました。これは当時の世界においては、実に驚くべき革命的なことでした。その秘密はただ、キリストの十字架の贖いによって救われたという共通項が存在したからです。
 
終わりに:私たちの交わりを邪魔している壁はないだろうか?それをキリストによって砕いていただこう
 
 
今日の社会や教会でも、「律法という壁」は存在しませんが、人と人を隔てる壁がたくさんあります。プライドという壁、自分と違う人への偏見という壁、主義主張の壁、自己中心という壁、好き嫌いという壁など色々な壁が存在します。キリストはこれら全てから解放してくださいます。

恵みによる救いを信じるキリスト者は、これらの壁から自由になるべきと思います。もしクリスチャンとクリスチャンとの間に、何らかの形で壁が存在するとすれば、それは、どちらか、或いは双方が、「恵みを知らないクリスチャン」だからではないかと思うのですが、単純すぎる結論でしょうか?恵みによる救いの道を開いてくださった主の平和を受け入れましょう。
 
お祈りを致します。