礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2012年5月13日
 
「神の家族」
エペソ書連講(11)
 
竿代 照夫 牧師
 
エペソ人への手紙2章14-22節
 
 
[中心聖句]
 
  19   あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。
(エペソ2章19節)


 
聖書テキスト
 
 
14 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、15 ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、16 また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。
17 それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。18 私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。
19 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。20 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。21 この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、22 このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。
 
はじめに
 
 
前回は、14節の「キリストこそ平和」という題で、異邦人と呼ばれた人々が神の民の中に一体化された恵みに注目しました。

・十字架は、二方向で和解を成し遂げました。一つは垂直関係です。罪によって断絶された神と人との関係が十字架の贖いによって和解されました。

・もう一つは水平関係です。律法主義という、人間の努力で救いを達成する傾向が、互いの壁を生んでいました。それぞれの努力、人間のよしあし、文化背景、それらがみんな互いを別かつ壁になっていたのです。キリストの十字架は、恵みによる救いという単純明快な原理によって、互いを別かつ壁を壊しました。それによって、今まで別々であったグループ、特にイスラエルと異邦人が一体となったのです。その纏めが17−18節です。
 
1.神に近づけられた異邦人とイスラエル(17節)
 
 
・「あなたがた」=異邦人:
この「あなたがた」とは、エペソのクリスチャンに代表される異邦人のことです。

・「近くにいた人たち」=イスラエル人:
「近くにいた人たち」とは、イスラエル人のことです。

・キリストはその双方に平和の福音を伝えた:
「平和を伝えた」という表現の背景には、(異邦人である)ローマ軍の百人隊長であるコルネリオ家で行なったペテロの説教を土台にしています。「神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。このイエス・キリストはすべての人の主です。」(使徒10:36)更に、イザヤ預言もその背景にあるものと考えられます。「わたしはくちびるの実を創造した者。平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼をいやそう。」(イザヤ57:19)この「遠くの者」とは、離散イスラエルではなく、異邦人のことと考えられます。イスラエルと異邦人にとって共通の課題である罪の解決のために十字架にかかり、身をもって平和の福音を確立し、それを宣告されました。
 
2.両者が神に近づく(18節)
 
 
「私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。」
 
ここに三位一体の神が、総動員で私たちを神に近づけようと働いておられる姿を見ます。

・キリストの贖いによって:
「このキリストによって」という言い方は、貴い犠牲の上に成り立った贖いを示しています。罪人である私たちが聖なる神に近づきうるのは、キリストの贖いによります。イスラエルに代表される真面目人間も、異邦人に代表されるあからさまな罪人も、等しく、自分で自分を救い得ない罪人です。ですからこそ、等しくキリストの贖いを必要とします。双方とも等しくキリストの贖いに頼り、キリストの恵みを感謝します。これこそが共通の絆なのです。

・内住の御霊によって:
神との父子関係を可能としてくださるのは内住の御霊です。ガラテヤ書を見ましょう「そして、あなたがたは子であるゆえに、神は『アバ、父。』と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」(ガラテヤ4:6)聖霊は、信じる者全ての心に与えられるのですが、その第一のお仕事は、私たちが父なる神の子どもとされたという自覚を与えることなのです。この場合には養子として受け入れられることなのですが、養子であれ実子であれ、父親が子どもを差別しないように、天のお父様も、イスラエルと異邦人を何の区別もなさいません。ローマ法でも、養子は実子と何の区別も無しに父の特権と名誉を受け継ぐことができましたが、私たちの天のお父様もその通りです。大河ドラマで平清盛が脚光を浴びていますが、その父・忠盛は養子である清盛を跡継ぎの棟梁に定めたところがすごいと思いました。私たちのお父様は私たちをその背景などによって区別なさいません。私たちが、本当の意味で、「霊と真」をもって神を礼拝するとき、ゲリジム山で祈るかエルサレムで祈るかは問題なくなります(ヨハネ4:21−24)。

・共通の父に近付く:
キリストにあって、異なった背景を持った者たちが、同じ条件で、同じ方法で神に近づくことができるようになりました。何とすばらしいことでしょうか。私たちがみな、神をアバ父(親しいお父さん)と呼ぶことができるのですから、私たちは家族です。私たちは、神をお父様と呼ぶだけではなく、父としてのケアに与っています。神は私に取っても父、あなたにとっても父、彼にとっても彼女にとっても父、つまり、共通のお父さんなのです。その意味で、私たちは共通の父をもつ大きな家族の一員です。「天にましますわれらの『父」よ」と祈る時、私たちは既に一体となっているのです。そこに生まれる一体感、平和的な関係こそが教会の命です。
 
3.神の家族になる(19節)
 
 
「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」
 
・異邦人は(時間的には)後発だったが、同じ家族の一員となった:
「こういうわけで」というのは、異邦人という「神無く望み無く」罪の中を歩いていた人々が神の家族に入れられたという恵を示しています。11−12節から拾い読みをしましょう。つまり、「以前は肉において異邦人・・・無割礼の人々・・・キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人・・・望みもなく、神もない人たち」であったのに、「今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされた」(13節)のです。その意味で、異邦人が恐る恐る教会に入れられたと、肩身狭く思う必要はないと、パウロは言うのです。時間的な順序からいえば、異邦人クリスチャンは、確かに教会にとって「新参者」でした。少しその歴史を概観します。AD30年、ペンテコステにおいてエルサレム教会が誕生したのですが、当然ながら、当初の教会の構成メンバーはユダヤ人でした。その後もおよそ20年間、教会はどこでもユダヤ人を中心としたものでした。その枠が拡がって行ったのは45年ころのアンテオケ教会の誕生、そしてそれに続くパウロの伝道旅行を通してです。この手紙が書かれたのはそれから15年後ですから、異邦人クリスチャンが教会に加入した歴史は未だ浅かったのです。しかし、パウロはそのような成り立ちを見ながらも、福音の原則を語ります。後から入ろうが、先に居ようが、キリストにあっては全く関係がない、両方同じ土台に立った共通のクリスチャンなのだ、ということを。

・教会では、お互いの違いが尊敬され、一つの絆で結ばれる:
異邦人と呼ばれていた人々も、今や、神の家族のフルメンバーです。神の息子・娘です。お父さんは共通であり、子どもとしての特権も同じです。だから、先にメンバーであったイスラエル人クリスチャンは、異邦人を差別してはなりません。同時に、異邦人クリスチャンもユダヤ人クリスチャンを「頑固な輩である」と蔑視してはなりません。彼らが存在したから、異邦人クリスチャンも生かされているのです。パウロは言います、「もしも、枝の中のあるもの(ユダヤ人)が折られて、野生種のオリーブであるあなた(異邦人)がその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。枝が折られたのは、私がつぎ合わされるためだ、とあなたは言うでしょう。そのとおりです。彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。」(ローマ11:17−20)互いが教会に導かれた過程は異なっても、互いを尊敬し、互いが互いを愛する愛の関係が確立されるべきだとパウロは言うのです。つまり、イスラエル人クリスチャンは、異邦人の加入によって豊かにされたことを感謝し、異邦人は、何千年の歴史の中で救いの土台を築いたイスラエル人を尊敬するという関係です。「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ。『あなたがたは、わたしの民ではない。』と、わたしが言ったその場所で、彼らは、生ける神の子どもと呼ばれる。」(ローマ9:25−26)と記されている通りです。この手紙の受け取り手であるエペソ人クリスチャンの多くは異邦人でしたから、自分たちは、ユダヤ人中心の教会においては「よそもの」という意識に陥りがちでした。パウロは、そうではなく、みんなが同じように「神の家族」になったと説くのです。主を受け入れたものに、「よそ者」はいません。教会のどのメンバーも、どんな理由であれ「肩身の狭い」思いをすべきではありませんし、周りの人も、新メンバーに対してそのような思いをさせてはいけません。髪の毛の色、服装、言葉遣いはもちろん、民族的・文化的違いが私たちを別々にしてはなりません。みんなが家族なのです。むしろ、違いを積極的に受け入れ合う、それこそが教会なのです。その意味で、私たちは「帰国者に優しい」教会になろうと今年の標語で掲げたのには意味があります。様々な異なる背景で教会生活を送って帰国された方々が、できる限り違和感なく受け入れられるそんな暖かい教会でありたいと願います。

・「差別」は、福音の真理への挑戦である:
互いの違いを尊重しながら一体となるという原則は、階層の違いを乗り越えるという形で現れます。当時のローマ社会では、ローマ市民権を持った者と外国人(属州の住人)、自由民と奴隷、男性と女性との区別をするのが当然でしたが、今や教会の中ではそれが撤廃されました。主にあっては、異邦人もイスラエルもなく、奴隷も自由民も差別されず、男も女もない、とパウロは宣言します。実際、教会が「差別のない」共同体であったことが人々を引き付けたのです。翻って、今日の教会を見ると、1世紀とは違った形で、人間が作り出した区別・差別があります。トリニティ神学校教授で宣教的文化人類学者のポール・ヒーバート師が嘆いていました。「アメリカが最も分断されるのは、日曜日の午前である。人々は、それぞれの人種別・階層別の教会に通い、他と交わろうとしないからだ。」と。日本にはこのような区別・差別はないかも知れませんが、別な形で存在しえます。文化や習慣の違いを理由に互いに交わろうとしない人々は、「福音の本質が分っていないのだ」と、パウロは言います。コルネリオを訪問した時は、神の前に全ての人は等しいという啓示を与えられて異邦人と積極的に交わっていたペテロが、保守的なユダヤ人クリスチャンの非難の目を受けるとその交わりから遠ざかってしまったという悲しい出来事が起きました。パウロは、先輩であるペテロのこの過ちは、福音の根幹を揺るがす大問題だと感じて抗議しました。ガラテヤ2:11−14を引用します。「ケパ(ペテロ)がアンテオケに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。なぜなら、彼は、ある人々がヤコブのところから来る前は異邦人といっしょに食事をしていたのに、その人々が来ると、割礼派の人々を恐れて、だんだんと異邦人から身を引き、離れて行ったからです。そして、ほかのユダヤ人たちも、彼といっしょに本心を偽った行動をとり、バルナバまでもその偽りの行動に引き込まれてしまいました。しかし、彼らが福音の真理についてまっすぐに歩んでいないのを見て、私はみなの面前でケパにこう言いました。『あなたは、自分がユダヤ人でありながらユダヤ人のようには生活せず、異邦人のように生活していたのに、どうして異邦人に対して、ユダヤ人の生活を強いるのですか。・・・』」パウロが言おうとしたことは、「福音の真理についてまっすぐに歩むならば」人を差別するような態度は取りえない、ということなのです。自分と異なる人種、階層、年齢、好み、タイプ・・・の人々を互いに尊敬し、愛し合い、受け入れ合うということは、福音の本質を捉えた時に自ずと生まれて来る現象なのです。繰り返して言います。もし、Aさんが、自分が神に受け入れられているのは、自分の功績ではなく、一方的に神の恵みによるのだということを本当に頷き、また、Bさんも同じような自覚に立ちます時、AさんとBさんは、お互いにどんな違いがありましょうとも、共通の絆で結ばれるのです。主の恵みを称えましょう。
 
4.教会は成長する神殿に譬えられる(20−22節)
 
 
「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」
 
続いて、教会が建物イメージで語られます。ここでは、共通の基盤である使徒と預言者の教え、互いの連携と協力、個人と共同体が聖霊の住まいとなることが述べられていますが、今年の教会総会前の講壇でこの場所から語りましたので、詳細は省略します。ただ一点、この中で注目したいのは、教会のメンバーが互いにかけがえのない大切な存在として語られていることです。建物のパーツがジグソーパズルの一片のように、はまるべき場所があり、一片が欠けると絵が完成しないように、私たちは一人ひとりかけがえのない立場を教会において占めているのです。私が欠けると建物が弱くなります。みんなが大切、みんながみんなを支えている共同体なのです。
 
おわりに:神の家族とされた光栄を感謝しよう
 
 
私たちがともに主の家族の一員として召された幸いを感謝しましょう。それが主の一方的な恵みの故であることを感謝し、その感謝に立って、同じ家族の一員であるお互いを心から愛し、主のみ体を建て上げて行こうではありませんか。
 
お祈りを致します。