礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2012年5月20日
 
「共に集い、共に祈る」
プレヤー・フェロシップデーに因み
 
竿代 照夫 牧師
 
マタイの福音書18章15-20節
使徒の働き1章12-14節
 
 
[中心聖句]
 
  19,20   あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。
(マタイ18章19,20節)


 
聖書テキスト
 
 
(マタイ)
18:15 また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。16 もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。17 それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。18 まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。
19 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。20 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」
(使徒)
1:12 そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムの近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。13 彼らは町にはいると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。14 この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。
 
はじめに
 
 
・プレヤーフェロシップデーの意義:
ペンテコステを来週に控え、また、プレヤー・フェロシップを迎えた聖日、連続講解を離れて、主が教えて下さった、「共に集まり、共に祈る」スピリットについて学びたいと思います。この教会でプレヤーフェロシップデー(PFD)を始めたのは、2000年7月、「海の日」のことです。それまで、各組会内部の交わりはありましたが、教会全体としての交わりをより強くしようという願いから、聖宣神学院で一日修養会を開きました。それ以後、年々形態は変わりましたが、一貫して、「教会的な交わりと祈りの実践」というテーマは続けられてきました。2007年からは、スモールグループの実施と関連して、このPFDが用いられるようになりました。そのことを意識しながら、主イエスの教えを学ぶことにいたします。

・マタイ18章の流れ:
マタイ18章では、主にある兄弟達の回復というテーマが語られています。12−14節では、迷子の羊に譬えられる小さき者の回復のために労すべきことが語られ、それに続いて、15−18節では、罪を犯してしまった兄弟をどう回復すべきかについて語られます。ここで主イエスは、教会的な交わりと互いのケアについて述べておられます。まず、罪を犯した兄弟に直接に勧告すべきこと、悔い改めた人を赦すべきこと、悔い改めない人を懲罰すべきと語られます。「まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。」(18節)。ここで、「地上」と「天」が対比されています。地上とは私達が生きている世界のこと、天とは神の直接的で完全な支配がなされている領域のことです。教会が、神のご支配の領域に関わる権威を与えられていることを示します。その思想を継いでいるのが19節です。地上における一致した祈りが天の父に答えられる、と教えられています。20節は、共に祈る前提として、共に集うことの大切さが語られます。今日は、共に集うこと、共に祈ることの大切さを考えます。
 
A.共に集まる意義(20節)
 
1.人数に拘わらず「集まること」
 
 
20節を見ましょう。ここで「ふたりでも三人でも」としるされているのは、19節の「あなたがたのうちふたり」という言葉と繋がっています。しかもこの節は「なぜなら」(ガール)から始まっていて、19節の解説であることを示します。共に集まる所には、主の臨在があるという約束が、共に祈る祈りが答えられる理由なのです。「ふたりでも三人でも」という言葉は、教会の交わりの最小単位を示します。4、5人ではいけないという意味ではなく、どんなに少なくても共に集まれば、という意味です。もちろん大勢で心を合わせて祈れば、もっと力が与えられることでしょう。炭はひとつでは燃えません。互いに寄り合ってはじめて燃えるのです。クリスチャンもそうです。交わりは、私達に力と熱を与えます。初代教会にとって、あらゆる機会に集まることが彼らの習慣であり、教会の特徴でもありました。
 
2.主の名によって集まる
 
 
「わたしの名において」集まることが前提です。「名において」とは、文字通りには「聖名に向けて」(エイス ト エモン オノマ)です。つまり、キリスト教という看板を掲げて何となく集まるのではなく、イエスを主として崇めるために集まることです。イエスへの愛をもって、イエスと一つとなることを求めて、また、イエスの栄光を表すことを求めて集まることが、主のご臨在の前提なのです。
 
3.集まる恵み
 
 
聖名を崇めるための集まりは、主の臨在を保証します。一人に対して主が臨在されないわけではありません。復活の主は、世の終わりまでいつでも私たちと共におられます(マタイ28:20)。主イエスが世を去られた後に助け主として来られた聖霊は、私たち個人と共に、内に居られます(ヨハネ14:16−17)。このように、主の臨在は、個人にとって貴いものですが、それ以上に、私たちが主の名を求めて共に集まる時、主の臨在は、より明確な、より深いものとなるのです。
 
B.共に祈る力(19節)
 
1.地において
 
 
「地上で」という言葉は、18節の「あなたがたが地上でつなぐなら・・・地上で解くなら」という言葉を受けています。分かり易くいえば、私たちが目に見える形で共に祈るならば、ということが「地上で」という言葉に含まれています。
 
2.「あなたがたのうちふたり」
 
 
「ふたり」とありますが、20節でも解説しましたように「2」という数に神秘的な意味があるのではなく、グループの最小単位ということです。夫婦にも当てはまりましょうし、家族にも、また、教会での小グループにも、祈祷会にも当て嵌まる言葉です。
 
3.心を合わせて祈る(19節)
 
 
心をひとつにするとは、スュムフォーネオー(共に和音を出す、to sound together, to be in unison, accord of musical instruments)で、この言葉からシンフォニー(交響楽)という言葉が生まれました。これは、「一致する」「合意する」という、深い、内的な一致を指します。

私は、高校時代にオーケストラでフレンチホルンを吹いていました。演奏もさることながら、練習でも一番大切なのは音合わせです。クラリネットがA(ラ)の音を出すと、皆がそれに合わせて調節します。温度とか、弦の張り具合で音の高さは微妙に変わってきますから、折々に音合わせをしなければ、ハーモニーは保てません。それと同じで、祈りもハーモニーが必要なのです。

一致を齎す要因を考えましょう。@主への愛と献身:目的をひとつにすることが第一です。主を愛し、主の栄光を表すことが信仰者の共通の動機のはずです。これがある限り、私達の方向が大きく離れることはありえません。A相互理解:分かち合いによって互いが互いを理解することが大切です。このためには心を開き、正直になることが必要です。自分の欠点や問題点をさらけ出す勇気が必要です。B聖霊への信頼:私達はどのように祈るべきか分かりませんが、聖霊は私達の心を知り、父なる神の御心を知って、私達の祈りを正しい方向に導いてくださいます。

反対に、一致を妨げる要素をいくつか挙げて見ましょう。@無関心:互いが互いに対して余り関心を示さない、或いは、干渉して欲しくない、干渉したくもないという態度です。人間は互いの関わりの中に生きている生き物です。まして、私達はキリストの血潮によって贖われた兄弟姉妹なのです。互いに分かち合い、互いに助け合うのが自然です。「兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです。」(1テサロニケ4:9)Aプライド:一致を妨げているもう一つの要素は、自分を飾ろうとするプライドです。プライドがありますと、正直になれません。上手に自分を繕ってしまいます。本当の交わりは、自分のプライドを捨て、成功物語ばかりではなく、失敗の経験も含めて、正直に自分を表すことから始まります。B赦せない心:主の前に出る時に、兄弟同士、赦せないという気持ちを持ったままでは祈りは聞かれません。主は言われました、「祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。」(マタイ5:24−25)と。
 
4.どんな課題でも
 
 
「どんな事でも・・・祈るなら・・・。」祈りの課題は「何でも」です。無制限に「何でも」でしょうか。そうではないでしょう。自分の野心、わがままがここに含まれるとは思いません。大体そのような祈りの課題では、祈りの相棒が賛同するはずがないからです。主の御心に適った祈りが答えられると1ヨハネ5:14に記されていますが、共に祈っているときに、利己的ではなく、主のみ心に適う祈りに収斂されていくのです。
 
5.天の父の答え
 
 
天の父は、私達が心を一つにしていることを喜ばれます。教会が本当に一つになって祈る時、主はそれを喜び、その願いを叶えてくださいます。反対に、一人ひとりは熱心でも、全体として不協和音を出しながら熱心に祈っても、主は喜び給いません。私達が、心を一つにして祈る時、どんな小さなことでも、大きなことでも、主は聞いていてくださり、責任を持って応答してくださるお方です。
 
C.ペンテコステに向けての祈り
 
 
主イエスが昇天された後、弟子達は聖霊に満たされることを求めて祈り始めました。その祈りは、「心を合わせ、祈りに専念していた」(使徒1:14)ものでした。マタイ18章における「心を合わせた祈り」を実践した最初の出来事といえます。
 
1.祈りなさいという命令(共に祈った実例)
 
 
復活後の主イエスは、聖霊のバプテスマを約束し、それを求めるように命令されました。「わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ24:49)「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」(使徒1:4−5)聖霊によるバプテスマとは、聖霊の感化とお導きに私達が全く明け渡して、聖霊の感化にどっぷりと浸ってしまうことです。彼のみ業の中心である聖化の恵を頂くことです。彼らの心に巣喰っていた嫉妬、憎しみ、競争心を火で焼いていただくことです。さらに、それは、主イエスを証しする力が与えられるためです。「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)弟子達は、自分達が臆病で、力のないものであることを厭と言うほど自覚していました。ゲッセマネの園で、神殿警護隊が主イエスを捉えようとしたとき、彼らは一目散に逃げてしまったからです。その後もペテロは、「イエスなんか知らない」と三度も否みました。大きな使命に対する無力さだけで無く、それを妨げる要素を多く持っていた弟子達、それを深く自覚したからこそ熱心な祈りを捧げたのです。私達も無力そのものです。それだからこそ祈りに集中し、祈りによって世界を動かさねばなりません。
 
2.祈った弟子たち
 
 
祈った人々は、11弟子、婦人達、母マリヤ、イエスの兄弟達を含む120人の人々であったと記されています(使徒1:15)。私は、マリヤがこのグループにいたことが素晴らしいと思います。マリヤはすばらしい女性でした。ほとんど非の打ち所のない女性と言っても過言ではありません。そのマリヤでさえも、謙って、心を開いて、弟子達といっしょに祈ったのです。そして聖霊に満たされました。さらに、主イエスの弟達が祈りの輪に加わったことも意義深いことです。イエスの地上生涯中は主イエスの福音運動に参加しなかったどころか、非常に批判的であった兄弟達が、復活の主を見て悔い改め、弟子団に加わった事実は、今後の運動の幅を広げる意義がありました。 祈った場所は、エルサレムの屋上の間です。彼らは、一緒にいる事を選び、求め、留まったのです。「あなたがたのうちふたりが、・・・地上で心を一つにして祈るなら、・・・父は、それをかなえてくださいます。」(マタイ18:19)との約束を思い出して祈ったことでしょう。
 
3.心を合わせて真剣に祈った
 
 
この人々は、10日間飽きずに、弛まずに、諦めずに祈り続けました。Steadfastly (proskarterountes=strongly, persist obstinately in, adhere firmly in)とは頑固に、ある営みに固執することです。他の営みを排除して継続する営みです。彼らが寝る以外のほとんどの時間を祈りに費やしていたと思います。

さらに、彼らは「一つ心をもって」(ホモトュマドン(homo=same, thumados =mind)一つ心で)祈りました。一つ心となるために、互いの罪を言い表して、互いの和解がなされたことは疑いありません。この祈り会に参加していたヤコブが後になって、「あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。」(ヤコブ5:16)と記しましたが、この連続祈祷会に出席していた経験に基づいたものと思います。一般的な祈りではなく、互いの罪の内容まで立ち入った告白の伴う真実で、率直な祈りだったのです。これは魂が謙遜に満ちていなければ得られない事でした。このような祈りが出来るのが本当の友達です。これは、いわゆる懺悔でもなく、傷の舐め合いでもありません。兄弟達同士としての心開かれた交わりです。互いの反目も誤解も祈りの中で消えて、真の和解がなされました。その祈りが爆発点に達した時、ペンテコステの恵みが与えられました。
 
4.聖霊が注がれた
 
 
神はそのような心の一致を喜び、そこに聖霊を注がれました。彼らの心は焼き尽くされ、宣教の情熱に燃えました。彼らは聖霊に押し出されるような宣教を開始しました(使徒2:4)。頑張りではなく、御霊の導きと促しに従って御言を述べ伝えたのです。そして、教会歴史を彩るリバイバルの物語は、いつでも祈りにおける教会の一致から始まっているのを見ます。明治初期に横浜で起きたリバイバルがそのようであったと歴史は記します。色々な祈りの課題の中で最大の課題は、日本の救いとリバイバルでありましょう。このために心を合わせて祈り続けましょう。
 
終わりに:グループでの分かち合いと祈り
 
 
私達は、今日この交わりと祈りをスモールグループで実践します。先ずお互いに心を開いて自らの願い、課題を紹介し合い、御言に聞き、互いの願いを聞きあい、そして、主の前に心を一つにして祈りたいと思います。

家庭では(信仰者が居れば)祈りあうことを始めましょう。そして、今週、共に祈る喜びと恵みを経験しながら歩み続けましょう。
 
お祈りを致します。