礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2012年5月27日
 
「聖霊に満たされなさい」
ペンテコステに因み
 
竿代 照夫 牧師
 
エペソ人への手紙5章15-21節
 
 
[中心聖句]
 
  18,19   酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。
(エペソ5章18-19節)


 
聖書テキスト
 
 
15 そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、16 機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。17 ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。18 また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。19 詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。20 いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。21 キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。
 
はじめに
 
 
2012年のペンテコステを迎えました。今日はエペソ書5章から、「御霊に満たされなさい。」というメッセージを頂きたいと思いますが、その前に、ペンテコステそのものについて、概略をお話します。

・ユダヤ暦のペンテコステ:
ペンテコステとは、「第五十」という意味で、日本語では「五旬節」とも訳されます。五旬節はユダヤの三大祭の一つで、過越の祭りの最終安息日の翌日(日曜日)から7週間を数えた安息日の翌日、つまり、その日から数えて50日目に大麦の収穫を祝う祭りが始まります(レビ23:15−16)。これが「7週の祭り」または、ペンテコステです。過越しはパレスチナのユダヤ人がこぞって集まる祭りであったのに比べて、ペンテコステは外国にいるユダヤ人が数多く集まってくる祭りでした。早春の過越しよりも、晩春のペンテコステの方が旅行をし易かったからです。

・教会暦のペンテコステ:
主イエスは十字架の三日後に甦り、その40日後に天に昇り、その10日後、即ちペンテコステに約束の聖霊を注がれました。その結果教会が誕生しました。つまり、教会の誕生日です。その最初のペンテコステにおける最大の出来事は、現象的な事柄ではなく、「一同が聖霊に満たされた」ことです。

・「聖霊に満たされる」大切さ:
今日のテキストであるエペソ5:18には、その聖霊の満たしが語られています。エペソ書の連講が進んでいますが、その4-5章にかけて、クリスチャンの実際生活に関する勧めです。その鍵は、「聖霊に満たされること」です。この聖言について6つほどのコメントを申し上げます。
 
「聖霊に満たされること」とは・・・:
 
 
1.酒に酔う以上の喜び
 
 
この文章では、御霊に満たされることが、酒に酔うこととの対比で述べられています。人間の心は、聖霊に満たされるというあるべき姿を失ってから、それを違ったもので満たそうとしている、その代用品の一つが酒なのでしょう。限定的ながら、酒の効用を聖書が認めていないわけではありませんが、それに酔うことの危険性もそれ以上に指摘しています。酒は、人を一時的に陽気に致しますが、聖霊は、私たちをいつでも賛美と喜びに導いて下さいます。
 
2.賛美と感謝の生涯
 
 
パウロは19-21節で、「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。いつでも、すべてのことについて、・・・神に感謝しなさい。・・・互いに従いなさい。」と述べていますが、文法的にはこれは命令形に伴う分詞形です。命令形は「満たされなさい」だけで、後は分詞なのです。聖霊に満たされると、賛美と感謝と互いへの服従が生まれてくるということなのです。酒が入らないと歌が歌えない、という人々がいます。ですから、そういう人が教会に来ると驚くのです。なんでこの人々はしらふで歌が歌えるのだろうか、という具合です。そうです。聖霊の満たしは、私達の心に賛美を生み出します。キリスト教は、あれはダメこれもダメという律法で縛られる陰鬱な宗教ではありません。内なる喜びと楽しみ、それは自然に賛美となって現れる、そうした、喜びの宗教です。
 
3.部分的ではなく、全面的に聖霊の影響を受けること
 
 
ペンテコステの時、弟子達は「聖霊に満たされ」ました。「〇〇に満たされる」という言い方は、聖書にしばしば見られます。怒りとか、喜びとかに満たされるという言い方です。その感情が支配的になって、他の感情を追い出してしまうような状況を表します。この場合は聖霊によって心が支配されることを指します。

聖書は、すべての信仰者の心に聖霊が宿っておられると記しています。「いや、そんな感じがしない」と答える方がいるでしょう。聖霊の内住は私たちの感覚の問題ではなく、事実の問題です(1コリント2:12、ローマ8:9)。私たちの心が主を信じ、主を愛し、主に従おうという心を持っていること自体が聖霊の働きによるのです。「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません。」(1コリント12:3)とある通りです。

この聖霊が「満ちる」とは、聖霊が妨げられることなく支配なさることです。私達がキリストを主と受け入れるとき、私達の心に入り、住み給います。私達の心を家に例えますならば、お客さんとして客間に入って頂く事です。確かにお客さんとしてでも入っていただくことは嬉しいことです。私達のあり方をすっかり変えるほどの活力と喜びを与えてくださいます。しかし、私達が大事な部分について、ここは自分が支配する、自分が決定する、誰にも譲らない、という部分を持っている限り、お客さんはそこには入れません。聖霊はジェントルなお方です。私達の自由意志を曲げてまで心を占領なさるお方ではありません。私達が「どうぞ」というまで、じっとお待ちの方です。ですからこそ、私達の側で、「聖霊なる神よ、どうぞ私の心を治めてください。あなたが命令することは喜んで何でも従います。あなたが行けと仰るところには、喜んで行きます。あなたが止めなさいということは、私も止めますと申し上げることです。聖霊の満たしとは「聖霊のご人格が信者の人格を所有し、支配し、指導し給うこと」です。これをするためには、私達が神を全く信頼しなければなりません。白紙委任したが最後、身ぐるみ剥いで取られてしまうかも知れない、という危惧を持ったならば、怖くてこんなことは出来ません。でも、私が自分で人生をコントロールするよりも遥かに安全で、遥かに善に満ちたまうお方が神様だという信頼感がありますと、これが出来ます。もっというと、聖霊は私達の自由意志を曲げるお方ではなく、私達の個性、願い、楽しみを十分尊重なさるお方です。でも、きわどい所でノーと仰ることもあります。その時は、自分の個性、願い、楽しみを主張しないで、淡々と従えば良いのです。お分かりでしょうか。私達はこのような意味での明け渡しをしましたか。それを続けていますか。
 
4.それは受身の経験
 
 
これは受け身の形で言われています。満たされなさい、です。私達が一生懸命行動して努力して水を汲んで満たしなさい、とは書いてありません。満たすお方は神です。私達のなすべきことは、受け身的に明け渡し、待ち望む姿勢です。一個の人格が他のお方の人格に道を譲るという経験であり、人間の人格性が神の人格性に浸透される経験、もはや自分ではなくキリストが生きると言う経験なのです。聖霊というご人格を、ガソリンか何かの様な物質と考え、私達の心をそのガソリンタンクのような容器と考えると、大きな誤解をしてしまいます。両方が人格であり、その関係の密接さが「満たされる」という表現になるのです。明け渡したら、信じましょう。使徒2章の様なびっくりするような現象は無いかも知れません。それで良いのです。びっくりするような経験を期待すると、自分は満たされていないと不信仰に陥る可能性があります。ただ信じ、委ね、委ね続けましょう。
 
5.聖霊に満たされ続ける日常生活
 
 
聖霊に満たされなさい、とは継続的な命令です。「満たされ続けなさい」というのが直訳です。勿論、ある日、ある時に明け渡して満たして頂いたという始まりがなければなりません。使徒2:4はその始まりと見るべきでしょう。使徒2章の場合の満たしはアオリスト時制で、ある転機の瞬間に起こる決定的なものです。しかしこの経験は継続するところに意義があるのです。満たされ続けなさいという受身が、どうして命令形なのでしょう。満たされる条件を果たし続ける、という事が意味されています。電車で言えば、パンタグラフを下げないで、上げ続ける、ということなのです。具体的に言えば、聖霊と共に歩む関係、交わりを日常のものとすることなのです彼の人格と私の人格が寄り添う形がイメージ的には合っています。かれがリードし、私が従うという意味で・・・。ですからこの文節が「賢い者としての『歩み』」というタイトルであることには意味があります。まさに、聖霊に満たされた日常生活が大切なのです。その様な継続が、醜い罪の再現を防ぐ保証であり、その結果は、聖霊の実と呼ばれる「愛、喜び、平和・・・」という品性です。
 
6.全てのクリスチャンへの命令
 
 
これは全てのクリスチャンへの命令です。できれば、そうしなさい、ではなくて、そうならねばなりません。そうでなければ、クリスチャン生活における勝利はありません。これは、エペソ書はエペソにいたクリスチャンだけではなく、全てのクリスチャンに当てて書かれた手紙です。しかも、特別な人々ではなく、普通のクリスチャンに当てられたものです。「かれらはみな、聖霊にみたされた。」と記されているように、初代教会は皆聖霊に満たされていたのです。ウェスレーは、これこそが教会の当たり前の姿だと説教しています。使徒6章を見ても、御霊と知恵とに満ちた人々を選べ、との要請に対して、苦もなく7人が選ばれました。この水準は現代教会のものでなければなりません。聖霊に満たされた学校教師、警察官、ビジネスマン、サラリーマン・ウーマン、学生、主婦、高校生、中学生が、今ほど求められている時代は他にないのではないでしょうか。
 
終わりに
 
 
・「満たされ続ける」には、はじめがある:
「満たされ続ける」為には、「満たされる」はじめがあります。その始めを経験されましたか。難しいことではありません。全く自分を明け渡して、どんな興奮があってもなくても、満たしを信じて歩み始めましょう。

・満たされる条件を続けよう:
満たされ続けるには、満たされた時と同じ条件を続けることが必要です。その同じ姿勢をとり続けることによって、聖霊に満たされ続けるものでありたいと思います。
 
お祈りを致します。