礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2012年6月3日
 
「『異邦人のための』囚人」
エペソ書連講(12)
 
竿代 照夫 牧師
 
エペソ人への手紙3章1-13節
 
 
[中心聖句]
 
  1   あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となった私パウロ
(エペソ3章1節)


 
聖書テキスト
 
 
1 こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となった私パウロが言います。2 あなたがたのためにと私がいただいた、神の恵みによる私の務めについて、あなたがたはすでに聞いたことでしょう。3 先に簡単に書いたとおり、この奥義は、啓示によって私に知らされたのです。4 それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよくわかるはずです。5 この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。6 その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。7 私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。
8 すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、9 また、万物を創造された神の中に世々隠されていた奥義を実行に移す務めが何であるかを明らかにするためにほかなりません。10 これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、11 私たちの主キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画に沿ったことです。12 私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。13 ですから、私があなたがたのために受けている苦難のゆえに落胆することのないようお願いします。私の受けている苦しみは、そのまま、あなたがたの光栄なのです。
 
1.「神の家族」(2:19)[前回の復習]
 
 
前回は、「神の家族」という題で19節に注目しました。「あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」異邦人と呼ばれた人々が神の民の中に家族として一体化された恵みについて語りました。幾つかのポイントを復習します。

・異邦人は、遅れて教会に入ったが、同じ家族の一員となった
・教会では、お互いの違いが尊敬され、一つの絆で結ばれている
・「差別」は、福音の精神と全く相容れない、という諸点でした。

私たちがこのような家族に入れられたことを感謝しましょう。
 
2.3章の概観
 
 
今日から3章に入ります。3章は、異邦人が神の家族に受け入れられたという2章の思想を受け継いで、

・1-7節:パウロが(福音の普遍性という)啓示を受けた
・8−13節:その福音を宣べ伝える使命が与えられた
・14−21節:福音の豊かさを理解できるようにと祈る

という諸点を述べています。さて、今日は、1-7節に絞って福音の普遍性について語ります。
 
3.「異邦人のためのキリストの囚人」(1節)
 
 
「こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となった私パウロが言います(祈ります)。」
 
内容に入る前に、パウロの文章の捩れについて話します。1節は、主語だけで成り立っています。日本語訳の「言います」は、翻訳者が補ったもので、本来は14節の「・・・いのります。」に続くのです。ですから、2-13節は、いわば脱線です。つまり、これを会話で言うと「それはそうと・・・」という感じの挿入句です。「〇〇さんのためにお祈りください。〇〇さんはこんな人です。」と言えば分かり易いのですが、「〇〇さん、それはそうと、〇〇さんはこんな人で、こんな課題を抱えていて、こんな課題とは、大変な課題で・・・」と延々と文章が続いて、終止符が中々来ない言い方があります。これでは聞く方が疲れます。しかし、そんな言い方の元祖はパウロですから、仕方がないのかもしれません。そのパウロは、自分の立場を「あなたがた異邦人のためのキリスト・イエスの囚人・パウロ」と自己紹介します。とても興味深い紹介です。言うまでもなく、この手紙は、ローマの牢屋の中から書かれました。牢屋とは言っても、この時(59-61年)は、次の時(66−67年)とは違って、じめじめした独房ではなく、民家を借りて住むことが許されていた、いわば軟禁状態です。それでも囚人であることには変わりありません。一昨年アウン・サン・スーチー女史が12年近くの軟禁状態を解かれましたが、本当にご苦労様であったと思います。何かパウロは悪いことをしたのでしょうか。いいえ。彼は「異邦人のために」牢屋に入ったのです。

・パウロは、ローマ世界に「異邦人教会」を建てた[イラスト@]:
パウロが囚人となったきっかけは、彼が当時のローマ世界全域に異邦人に福音を伝え、主要都市に教会を建設しました。これは驚くべきことです。しかも彼が46年に第一次伝道旅行を始めて、56年に第三次旅行を終えるまでの10年余りの間に成し遂げたことですから、もっと驚きです。

・保守的なユダヤ人が徹底的に邪魔をした:
しかし、パウロの偉大な業績は、決して順調になされたのではありませんでした。多くの異邦人をユダヤ人と同じ神の家族に導いたことに反発した保守的なユダヤ人の抵抗はものすごいものでした。パウロが教会建設を行なった小アジヤとヨーロッパの各地にしつこくくっついてきて、邪魔をしたのは保守的なユダヤ人でした。彼らは自分たちだけが律法を厳守し、神に喜ばれる民であると信じていました。彼らにとって、律法を守らない異邦人はおぞましい存在でした。その異邦人が、そのままの姿で、神に受け入れられると説くパウロは、赦し難い裏切り者でした。

・「トロピモ」事件(56年)→騒動→裁判→長期化(61年まで)[イラストA]:
そのパウロが、第三次伝道旅行を終えてエルサレムに帰ってきたとき、エペソ信徒のトロピモを連れて町を歩きました。恐らく、トロピモにエルサレムの町を見せて、キリスト教の歴史を説明したのでしょう。そのツアーを終えて、別なユダヤ人4人と一緒に誓願を立てるために神殿に入ったところ、その4人の1人がトロピモであると勘違いしたユダヤ人たちが「パウロは異邦人を神殿に引き入れて、神殿を汚した」と叫び始めました。このユダヤ人たちはアジヤ(つまりエペソの周りの人々)からパウロの跡を付けてきた人々でした。しつこいですね。この叫びを聞いた他のユダヤ人達が同じように騒ぎ始め、エルサレム全体が混乱状態に陥りました。人々が彼を石打ちにしようとしたときに、エルサレム駐屯のローマ軍の千人隊長が救い出し、裁判が始まり、その裁判が何と5、6年に亘って続いていた訳なのです。

・問題の中心:
パウロに対する訴えは、彼がユダヤ人の掟に背いて異邦人を仲間として受け入れていた、という問題でした。パウロが「異邦人のための囚人」と言っているのはそうした背景がありました。これは、偶々、パウロが異邦人と一緒にエルサレムに居て、それが誤解されたという小さな問題ではなく、パウロがキリストの福音の普遍性を説いたという根本問題が含まれていました。「異邦人のための囚人」という言葉に、「キリスト・イエスの囚人」と呼んでいるのは興味深いことです。私たちも自分の立場について「キリスト・イエスの・・・」と付けたら如何でしょうか。私でいえば、「キリスト・イエスの牧師、キリスト・イエスの伝道者」、皆さんで言えば、「キリスト・イエスの学生」、「キリスト・イエスの公務員」「キリスト・イエスの会社員」、「キリスト・イエスの主婦」などなどです。名刺には付けないでしょうが、私たちの意識としてはこのような所属意識を持ってこの世の生活を営みたいものです。
 
4.福音のミステリー(2-6節)
 
 
・それは、隠されていた(5節):
5節を先に読みます、「この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。」パウロは、異邦人が福音に受け入れられるというこの驚くべき展開は、「奥義」であると述べています。奥義とは、英語ではミステリーです。ミステリー小説などと、普段起きないようなことが起きることをミステリーと言います。この場合は、「(ある時点までは、ある理由のゆえに)隠されていた真理」と定義することができます。福音が普遍的なものであるという真理について、旧約時代には朧な光は与えられていましたが、基本的には、隠されたままでした。

・十字架を越えて顕わされた(2-4節)[イラストB]:
「あなたがたのためにと私がいただいた、神の恵みによる私の務めについて、あなたがたはすでに聞いたことでしょう。3 先に簡単に書いたとおり、この奥義は、啓示によって私に知らされたのです。4 それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよくわかるはずです。」異邦人が神に受け入れられるという事は、旧約聖書で触れられていなかったのではありません。アブラハムへの祝福の約束は、万民に及ぶものでした。詩篇の中にも、すべての国々が主をほめたたえるようにとの祈りがあります。イザヤの預言の中にも異邦人に光を齎す主のしもべが描かれています。イスラエルが選ばれ、訓練されたのは、「万民への福音」の備えのためでした。しかし、その準備が終わったならば、すべての垣根が除かれて、みんなが同じレベルで神に近づくことができる、という真理は、「啓示によって」パウロに示されたのです。その啓示は、ダマスコ経験の時にパウロが「主の名を異邦人、王達・・・に運ぶ選びの器」(使徒9:15)と呼ばれた時に示されました。FFブルースは、「神が異邦人(つまり全世界の民)を祝福することは、新しい真理ではない。それまで隠されていて、今明らかになった真理とは・・・神がイスラエルと異邦人を隔てていた古い境界線を全く打ち壊し、異邦人信徒とユダヤ人信徒を何の区別も無く一体のものとし、神に選ばれた新しい包括的な共同体を打ち立てることである。」と言っています。これがミステリーの中身です。

・一体となるとは(6節):
6節は、その一体性の中身を三つの言葉で表します。「共同の相続者」「ともに一つのからだ」「ともに約束にあずかる者」です。この三つとも「共に」(スュン)という接頭語から始まります。異邦人はキリストにあって「イスラエルとの共同相続者」(スュンクレーロノマ=joint-heirs、神の子となって祝福の共同相続者となること)、「共同体」(スュソーマ=joint-body、一体化すること)、「約束を分かち合う者」(スュンメトカ=joint-partakers、アブラハムへの祝福という希望を共有するもの)となるのです。何の分け隔ても無く、みんなが一体となるのです。私たちを一体とするものは何でしょうか。それは、各自が自分の正しさを主張しない、むしろ、自分の罪深さを認めるところから生まれる一体関係です。福音の本質は、ただ恵みにより、信仰によって救われるというその一点です。これが本当に確認されますと、小さな違いを言い立てて仲間割れをすることは愚かとなってきます。個々の教会も、グループも、教団も、そして諸教団もその通りです。「ただ恵みによる」「ただ信仰による」という一点を本当に謙った心で受け入れると、一体感が確認できます。素晴らしいことではないでしょうか。

 
5.パウロは福音の「ミニスター」となった(7節)
 
 
「私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。」
 
・主の召しによって仕える:
ここでパウロは「その私は・・・福音のミニスターとされた」というのです。私はこの「仕える者」を敢えて英語でミニスターと呼びたいと思います。というのは、この言葉は「大臣」という意味でも使われていますし、また、「教役者」という意味でも使われていて便利な言葉だからです。パウロは自分を福音のミニスターと呼びました。いい言葉ですね。パウロは、福音を伝える使命のために主に仕える者と自分を考えていました。しかも、ボランティアでなったのではなく、主の召しによってさせられたと自覚していました。

・救いに遠い異邦人に仕えるために:
特にパウロは、自分は異邦人のための奉仕者であると感じていました。それは、異邦人の状態がかわいそうだったからではなく、神を知らないで滅びの中に向っていく異邦人への神の愛を感じていたからに他なりません。私たちにとって異邦人とはどんな人々でしょうか。イエス様のことにも何の関心も示さない人々、教会に誘っても何の反応も無い人々、罪深い生活を平気で送っている人々、この人々は救いに遠いと思える人々、のことでありましょう。しかし、実は、救いに遠いと思われる人々に神の愛を伝えるのが私たちの使命です。来週のチャペルコンサートに、地から限りの案内をさせていただきましょう。

・神の力で仕える:
自分の努力でミニスターになり、それを続けているのではなくて、一方的な神のみ力によってなり、その力が今も働いている、と言っているのです。

・恵みによってミニスターに:
そのパウロを押し出したものは、神の恵みの賜物でした。恐らくこの言葉には、キリストに逆らって教会荒らしをしていたパウロを、主が捉えて180度の転換をなさったあのダマスコ経験が背景にあるものと思われます。価値無き者に与えられる神の顧みによって与えられた奉仕が福音のミニスターでした。
 
おわりに
 
 
・恵みによる救いを感謝:
私たちが救われたのは、自分の偉さの故ではなく、反対に、全く無力であるだけではなく、罪深い私たちに、主が恵みを注いでくださった、それだけの故であることを心から頷き、感謝をしましょう。

・恵みによる一体性を確認:
もし、私たちが恵みによってだけ救われたと自覚するならば、性格や背景の違いを取り上げて、互いに差別するのは全く愚かしいこととなりましょう。むしろ、恵みによって救われたもの同士の一体性が心から頷けることでしょう。

・「救いから遠い」人々に福音を:
私たちから見た「異邦人」は誰でしょうか。多分、救いから遠くはなれているような友達、家族のことではないでしょうか。私は異邦人へのミニスターだと言ったパウロのスピリットに倣って、「異邦人」のために祈り、福音を伝えましょう。
 
お祈りを致します。