礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2012年6月10日
 
「一番小さな私に」
エペソ書連講(13)
 
竿代 照夫 牧師
 
エペソ人への手紙3章1-13節
 
 
[中心聖句]
 
  8,9   すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現が何であるかを、明らかにするためです。
(エペソ3章8-9節)


 
聖書テキスト
 
 
1 こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となった私パウロが言います。2 あなたがたのためにと私がいただいた、神の恵みによる私の務めについて、あなたがたはすでに聞いたことでしょう。3 先に簡単に書いたとおり、この奥義は、啓示によって私に知らされたのです。4 それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよくわかるはずです。5 この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。6 その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。7 私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。
8 すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、9 また、万物を創造された神の中に世々隠されていた奥義を実行に移す務めが何であるかを明らかにするためにほかなりません。10 これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、11 私たちの主キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画に沿ったことです。12 私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。13 ですから、私があなたがたのために受けている苦難のゆえに落胆することのないようお願いします。私の受けている苦しみは、そのまま、あなたがたの光栄なのです。
 
1.「異邦人のための囚人」(1節)[前回の復習]
 
 
前回は、1節の「あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となった私パウロ」というパウロの自己紹介の言葉に注目しました。

・パウロがことさら異邦人伝道に力を入れたこと
・それは、福音の普遍性と、恵みによる救いというパウロの神学的確信によるものであったこと
・異邦人伝道のゆえにパウロは囚人となったこと

の三点からお話しました。7節はその締めくくりで、パウロは、自分は「異邦人のための奉仕者」とされたと語ります。8-13節はその続きです。
 
2.自分は神の恵みのサンプル(8-9節)
 
 
「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、また、万物を創造した神の内に世々隠されていた奥義の実現が何であるかを、明らかにする為です。」
 
・自分の小ささ:
神の大いなる福音を伝える使命を与えられたパウロは、その自分を「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私」と紹介します。「一番小さな」(トー エラキストテロー=more least)とは、「一番小さいものよりも小さい」、これ以下は無い位小さいということです。
*「使徒の中で最も小さい」:
彼の謙遜表現はこの箇所だけではありません。1コリントでは、「私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。」(1コリント15:9)と言っています。この場合には他の使徒たちに比べて小さい、何故なら、「神の教会を迫害」するという大罪を犯したからだ、と言うのです。
*「罪人のかしら」:
また、1テモテでは「私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。」(1テモテ1:14−16)と語っています。やはり、自分のような罪人のためにキリストが十字架にかかってくださったのだという恵みの大きさを表わしています。「聖徒のうちの最も小さいもの」というのは行き過ぎた謙遜のようにも見えますが、それは、自分の無力・罪深さを深く自覚し、それに比べて、神の恵みの大きさを感謝したゆえ、と言えます。
*「不従順の中に閉じ込められている私たち」:
これは、パウロという特定の個人だけではありません。神は、ユダヤ人・異邦人を問わず、全ての人に対して「不従順」というレッテルを張っておられますが、私たちの側で自分は不従順だという罪の自覚に立つときに、主の恵みの大きさを捉えることができるというのです。ローマ11:30−33を読みましょう。「ちょうどあなたがた[異邦人]が、かつては神に不従順であったが、今は、彼ら[ユダヤ人]の不従順のゆえに、あわれみを受けているのと同様に、彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからですああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。」「不従順のうちに閉じ込める」という表現の深さに感動します。正に、私たちは不従順のともがらですが、その意識に閉じ込めることがスプリングボードになって、神の恵みの豊かさを感謝できるようになるのです。

・小さい自分に豊かな富が与えられている:
自分は小さいと自覚しているパウロに対して、「キリストの測りがたい富」を宣べ伝える使命が与えられました。「測りがたい」という言葉は、「跡を追って探し出されないほどの」(ローマ11:33)という意味です。「物差しで計ってこのくらい」と表現することができない位なのです。いにしえの讃美歌作者は、この恵みを何とか表わそうとしました。今朝、第一に歌った賛美歌は「ああ、驚くべきイエスの愛よ」でした。「恵みの深さ広さ、計り得るものなし、わたつみより大空より更に深く広し」と歌います。第二の賛美歌では「言葉で言えない、筆でも書けない、大空すべてに羊皮紙広げて、大海すべてをインクに変えても、どれだけ書いても足りない愛、溢れる主の愛、計り知れず、御使いも永久にたたえる愛」とも歌いました。主の恵みの大きさを心から賛美しましょう。

・その恵みを伝えることが天職:
パウロは、その恵みを異邦人に伝えることが自分の天職だといいます。「キリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、9 また、万物を創造された神の中に世々隠されていた奥義を実行に移す務めが何であるかを明らかにするため」召されたというのです。「宣べ伝える」とは、宣言的に福音を伝達することです。「明らかにする」とは、教育的奉仕です。特に、異邦人とユダヤ人が一体となる教会建設に関わる務めを説明し、実行させる教育的奉仕です。伝えるメッセージは、異邦人とユダヤ人が一体となるという「神のミステリー」でした。その一体的交わりは、彼らがそれぞれにキリストと結びつくことによって、民族的違いを乗り越える「第三の民族」を生み出したのです。このことは歴史上誰も想像できなかったことでした。
 
3.そのような召しは神のご計画に沿う(10−11節)
 
 
「これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、11 私たちの主キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画によることです。」
 
・開示されたミステリーは天使たちに知られる
*そのミステリーは神の永遠のご計画:
永遠の神は、永遠の昔からこのご計画をお持ちでしたが、今やそれがすべての人類に知られ、人類を乗り越えた、「天のところにある全ての権威」(天使たち、ある注釈者は悪の霊をも含むと言いますが)にも知らされました。
*ミステリーとは、宇宙的和解:
異なる民が同じ恵みによって救われ、一体となるということは、天地宇宙を造られた偉大な創造者のご計画の中心でした。これは、1:7−12で触れましたが、もう一度読み直してみましょう。「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって、私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。それは、前からキリストに望みをおいていた私たちが、神の栄光をほめたたえる者となるためです。」素晴らしいご計画ではないでしょうか。

・神の豊かな(多彩な)知恵が示される:
異なる人々が一体化されるのは、「神の豊かな知恵が示されるため」でした。「豊かな」(ポリュポイキロス)という言葉は、文字通りには「色とりどりの」という意味で、昔ヨセフが少年時代に色とりどりの着物を着ていた時に同じ表現がなされています(つまり、創世記37:3のギリシャ語訳で、この言葉が使われました)。神のご支配のあり方は、実に多彩なのです。そのみ力は色々な方法で表わされます。多くの人々を動かしてなされます。歴史の出来事の中にも表わされます。人間の社会構造の中にも表わされます。まさに色とりどりの方法で、神はご計画を進めて行かれます。

・それは教会を通して示される:
教会は「キリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところ」(1:23)ですから、教会形成の中に、「異なる背景の者達が一体となるという」奇跡が表わされます。その意味で言いますと、教会の一致は、オプション(できれば、そうありたいというもの)ではなくマスト(一人ひとりが福音に生きる時、そうなるもの)なのです。それが世に対してデモンストレートされるのです。教会という、新しい、そして包括的な共同体は、全宇宙において神の知恵のオブジェクトレッスンでした。ユダヤ人と異邦人との和解は、宇宙的な和解成就の象徴と捉える事が出来ます。そして教会こそが、その和解の推進者なのです。
 
4.今の苦難は光栄に通じる(12-13節)
 
 
「12 私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。13 ですから、私があなたがたのために受けている苦難のゆえに落胆することのないようお願いします。私の受けている苦しみは、そのまま、あなたがたの光栄なのです。」
 
・私たちは贖いのゆえ大胆に神に近づくことができる:
罪深い私たちは、キリストの贖いのお蔭で、聖い神の前に恐れなく立つことができるようになりました。ここで使われている「大胆に」という言葉は「(語るべき)全ての言葉で」という意味です。私たちは、一国の大統領の前で、好きなことをしゃべれと言われても、舌が引きつって思うことをしゃべれません。しかし、その大統領が自分のお父さんだったら自由にしゃべれます。キリストの贖いのゆえに、私たちは偉大な宇宙の創造者を「お父さん」と呼べるのです。

・パウロの苦難のゆえに落胆しないで欲しい:
異邦人に福音を伝えるという光栄ある務めのために囚人の身となったパウロに関して、エペソ信徒達がお父さんを失った子ども達のように、失望・落胆しないように、また、迫害が自分たちにも降りかかってくるのではと恐れないように、とパウロは訴えます。それどころか、パウロの迫害を誇りにさえ思って欲しいと彼はエペソ教会に訴えるのです。というのは、すべてのことがパウロ自身にとっても、また、エペソ信徒達にとっても益と変えられると確信していたからです。
 
おわりに:今日は、8節の言葉を噛み締めましょう。
 
 
・自分の小ささを自覚しよう:
パウロが、自分は全ての聖徒の中の一番小さいものよりも小さい、と本当に思っているとすれば、私たちはもっともっと小さいものでしょう。能力において、正しさにおいて、私たちはパウロに優るものではありません。罪深さにおいて、パウロより少ないと言える人はいるでしょうか。私たちは、本当に自分は弱く、罪深く、価値の無いものだということを徹底的に認めたいと思います。

・神の恵みの大きさを感謝しよう:
そんな小さいものに目を留め、「私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。」(イザヤ43:4)と語ってくださる神の恵みを心から感謝しましょう。そのために十字架にかかり、救いを成し遂げてくださったキリストの愛をほめたたえましょう。
 
お祈りを致します。