礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2012年6月17日
 
「キリストが心の内に」
エペソ書連講(14)
 
竿代 照夫 牧師
 
エペソ人への手紙3章14-21節
 
 
[中心聖句]
 
  16,17   こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。
(エペソ3章16,17節)


 
聖書テキスト
 
 
14 こういうわけで、私はひざをかがめて、15 天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。
16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。17a こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。
17bまた、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。
20 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、21 教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。
 
1.「一番小さな私」(8節)[前回の復習]
 
 
前回は、8節の「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、また、万物を創造した神の内に世々隠されていた奥義の実現が何であるかを、明らかにする為です。」ということばから、「一番小さな私」という自覚を持っているパウロの姿勢を学びました。

・小ささの自覚:
パウロが、自分は全ての聖徒の中の一番小さいものよりも小さい、と本当に思っているとすれば、私たちはもっともっと小さいものでしょう。能力において、正しさにおいて、私たちはパウロに優るものではありません。罪深さにおいて、パウロより少ないと言える人はいるでしょうか。私たちは、本当に自分は弱く、罪深く、価値の無いものだということを徹底的に認めたいと思います。

・恵みの大きさ:
そんな小さいものに目を留め、「私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。」(イザヤ43:4)と語ってくださる神の恵みを心から感謝しましょう。そのために十字架にかかり、救いを成し遂げてくださったキリストの愛をほめたたえましょう。
 
2.パウロの祈り(14−21節)
 
 
@エペソ信徒たちの内面が強められるように(14−17節a)、
A彼らがキリストの愛の深さを知ることができるように(17節b−19節)ということです。そして、
Bその祈りに答え給う神への賛美(20−21節)で、エペソ書前半を締め括ります。

今日は、14−17節の祈りを、私たちの祈りとしたいと思います。
 
3.祈りの姿勢(14−15節)
 
 
「こういうわけで、私はひざをかがめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。」
 
14−21節はその恵みの自覚に基づいたパウロの祈りです。「それゆえ」から始まっているのは、2−13節まで、文章的には少し脱線して教会のビジョンを語ったことを受けています。様々な背景から来た人々が教会という一つの体に融合される、そのような壮大な神の計画を示されたパウロは、このビジョンが一人ひとりに実現するようにと祈ります。「それゆえ」とは、そのような意味です。ここでパウロが祈っているのは、

・パウロの謙り:
パウロは、ここで祈りのために「膝をかがめ」ます。通常、パウロが手紙を書く場合、自分の手でペンは執らず、筆記者に書いてもらいました。この場合もそのような口述筆記のスタイルでなされていたことでしょう。しかしパウロは、この祈りの部分に来ると、文字通り自分の膝をかがめて祈りつつ、その内容を記したのです。ユダヤ人の祈りの姿勢で一般的なものは、目を天に上げ、両手をピンと広げて上に伸ばして祈るスタイルです。しかし、この場合パウロは、謙った祈りの姿勢を示します。膝を地面につけ、手を組んで祈っているのです。このスタイルは、主イエスがゲッセマネで祈られた時に取ったポーズでもあります(ルカ22:41「そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。」)。

・パウロの信頼(「全家族の父」に対して):
パウロは父なる神に向って祈ります。そのみ父とは「天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父」です。ずいぶん長い形容詞ですね。実は、ギリシャ語では「父」(パテール)と「家族」(パトリア)とは同じ語源から来ているのです。「家族」(パトリア=父たること)とは、共通の「父」(パテール)をもつ者たちという意味です。「天上と地上で家族と呼ばれるすべてのもの」とは、神を父と崇める御使いたち、そして地上の人々(特に教会)をみな含んでいます。私たちの共通のお父さんという意識で祈ります。[因みに、今日は「父の日」です。父の日とは、1909年に米国ワシントン州スポケーンのソノラ・ドッドという女の人が、彼女を男手一つで自分と兄弟たちを育ててくれた父を讃えて、父の誕生月である六月に特別な礼拝をして貰ったことがきっかけと言われています。彼女が幼い頃南北戦争が勃発し、父ウィリアムが召集され、彼女を含む子供6人は母親が育てることになりました。母親は過労が元でウィリアムの復員後まもなく亡くなりました。以来男手1つで育てられました。そのウィリアムも、子供達が皆成人した後、亡くなりました。最初の父の日の祝典は、その翌年の1910年6月19日にスポケーンで行われました。当時すでに「母の日」が始まっていたため、彼女は「父の日」もあるべきだと考え、「母の日のように父に感謝する日を」と牧師協会へ嘆願しました。1916年、アメリカの大統領ウッドロー・ウィルソンは、スポケーンを訪れて父の日の演説を行い、これにより父の日が認知されるようになりました。<この項目はWikipidiaによります>]さて、人間の父は影の薄い存在かもしれませんが、天のお父様は、私達を造り、大きな御手をもって私たちを導き、すべての必要を喜んで与えて下さる大いなる存在です。そのお父様の前で、膝をかがめて祈っているのがパウロです。
 
4.内面の強化を祈る(16節)
 
 
「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。」
 
・外面ではなく内面:
「外なる人」とは、2コリント4:16に「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」とあるように、人間の肉体的側面を示します。「内なる人」とは、その対比で、人間の奥底にあるもの、理性的なそして道徳的な「我」のことです。人間の実質であって、自分を、道徳的な人格として意識しているその我です。新生していない魂においては、その内なる人は罪の力の下に置かれやすいものです(ローマ7:23=「私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。」)新生している魂においては、内なる人は神の御霊によって、継続的に更新され、強められる存在です。

・内面の強化=キリストの内住を捉えること:
パウロは、エペソ信徒達の内面が強められるように、と祈ります。具体的には、キリストの内住(次節)とキリストの愛の深い理解によってです。それは、神の栄光の豊かさと御霊のみ力によって可能となります。神の測りがたい無限の富が、その子である信徒達に注がれるようにという壮大な祈りです。
 
5.キリストの内住(17節a)
 
 
「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。」
 
・キリストの内住とは:
キリストが一時的にではなく、私たちの魂を落ち着いた住まいとして定住することです。そして、甦ったキリストの臨在と力を私たちにリアルにしてくださるのが聖霊のお働きです。(ヨハネ14:16−20=「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。・・・その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。・・・その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。」16節で祈った聖霊による内面の強化とは、その聖霊がキリストの力と臨在をはっきり示してくださるようにとの祈りです。キリストの内住こそが、クリスチャン経験の一番素晴らしい奥義(ミステリー)なのです。コロサイ1:27には、「神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」と記されています。内住のキリストこそ、私たちの栄光ある希望であり、喜びの泉です。

・それは信仰による:
パウロは、「あなたがたの信仰によって、キリストを住まわせる」と言いました。これは、不可思議な神秘的経験のことではなく、極めて実際的、理性的経験です。それを齎すのは私たちの信仰なのだといいます。その信仰について、三つほどコメントします。
*キリストを主と言い表す信仰告白によって:
キリストの内住を齎すのは、キリストを救い主と告白する信仰告白です。信仰とは、外からノックしておられるキリストに心を開くことです。黙示3:30を読みましょう。「見よ。わたしは、戸の外に立って叩く。誰でも、私の声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」この聖句を題材にしたホルマン・ハントの「世の光」という有名な画があります。露にぬれた主イエスが、外に立って戸を叩いておられる画です。とても印象的な画ですね。私たちの心の扉には、内側の取っ手しかありません。外からこじ開けることはないのです。私たちが主イエスを救主として受け入れる信仰の告白をすること、これは大切なステップです。主はその時始めて、私たちの心に入って下さいます。
*キリストと共に十字架につく信仰:
しかし、私たちは主を受け入れたことで留まってはなりません。キリストと共に十字架についたその深い事実を信仰によって受け入れることが大切です。ガラテヤ2:20を読みましょう。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」これは、ローマ6:11にありますように、自分は罪についてはキリストと共に死んだものと頷くこと、神については、キリストと共に甦ったものであることを頷くことです。キリストの贖いの事実を信仰によって頷くこと、告白することです。
*日々、主の死と復活に与る信仰:
もっと大切なことは、その信仰の姿勢を保ち続けることです。それが「キリストが内に居られる」事実を豊かな、そして継続的なものとします。「いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。」(2コリント4:10−11)ローマ8:10−11も読みましょう。「もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」この信仰的姿勢を、私たちの日常生活の中で継続するのです。大きな失望・落胆が来ましょうか。そうです、自分に失望してしまえばよいのです。その時、キリストによる希望が湧いてきます。誘惑が来ましょうか。自分の力に頼るのを止めて、主にすがるのです。主が助けてくださいます。肉体の弱さを覚えましょうか。その時、私たちのために苦しんでくださった主を呼ばわるのです。主の甦りの力が私たちの死すべき肉体に注がれます。誤解をされて悲しむことがありましょうか。同じように、いやもっと誤解された主が私たちを慰めてくださいます。「信仰によってキリストをうちに宿らせる」ということは、瞑想的の世界のことを言っているのではなく、極めて常識的な、実際的な世界のことを言っています。
 
おわりに
 
 
・主イエスを救い主としてお受けしよう:
心の戸を叩いておられる、主を外に置き続けている人はいませんか。先ほどの画を思い出してください。主よ、長い間お待たせして申し訳ありませんでした。汚い部屋ですが、どうぞあなたをお客としてお迎えしたいと思います。お客さんに掃除をしてくださいと申し上げにくいのですが、どうぞ、掃除をして、そして、お住みくださいと主を受け入れようではありませんか。

・主にすべてを明け渡そう:
主を既に受け入れた方、主にもっと居心地の良い住み方をしていただこうではありませんか。私のすべてはあなたのものです。あなたの御心のままを行ないますから、自由に私の生涯を用いてくださいという姿勢を確認し、継続しようではありませんか。
 
お祈りを致します。