礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2012年6月24日
 
「キリストの愛の広さ 長さ 高さ 深さ」
エペソ書連講(15)
 
竿代 照夫 牧師
 
エペソ人への手紙3章14-21節
 
 
[中心聖句]
 
  17-19   愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。
(エペソ3章17-19節)


 
聖書テキスト
 
 
14 こういうわけで、私はひざをかがめて、15 天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。
16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。17a こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。
17b また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。
20 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、21 教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。
 
1.「キリストの内住」(17節b)[前回の復習]
 
 
前回は、17節の「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。」ということばから、「信仰によってキリストを内に住まわせる」内住の恵みに焦点を当てました。キリストがそのご住所を私たちの心に定めて引越ししてくださるとは、何という驚くべき恵みでしょうか。それを齎すのは信仰だとパウロは言います。その信仰とは、

@キリストを主と言い表す信仰告白
Aキリストと共に十字架につく信仰
B日々、主の死と復活に与る信仰

である、とお話しました。今日はその祈りの続きに進みます。
 
2.愛に根ざしている信徒達(17節b)(イラスト@)
 
 
パウロはエペソ信徒達の立場を「愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがた」と表現します。私たちもこのように言われたいものですね。

・愛が根っこ:
根ざすとは植物的な言い方です。私たちが成長する土壌が神の愛ということです。キリストの愛を頂いているから、私たちの命があり、その愛を頂きつつ成長するのです。この譬えは詩篇1:3「流れのほとりに植えられた木」という言葉を思い出させます。私たちのクリスチャン生涯の始まりも、途中も終わりもキリストの愛が根っこです。家庭形成もそうですね。愛が欠けているところに家庭は成り立ちません。教会の交わりもそうです。愛が根っこです。

・愛が土台:
さらに、私たちを建築に譬えると、私たちがよりどころとするのは、神の愛ということです。自分の賢さでもなく、正しさでもなく、健康の力でもありません。私たちの人生の土台は、神の愛であり、その愛に信頼しているその信頼の気持ちです。キリストが住んでいてくださるとは、そのご愛を植えつけるためなのです。
 
3.キリストの愛の4次元(18節a)(イラストA)
 
 
キリストの愛について、パウロは「その広さ、長さ、高さ、深さ・・・」という4次元的表現をしています。これについては、様々な説明が試みられていますが、どれも決定的なものではないし、また、パウロも特定の解釈を期待していないと思います。ただ、私なりに捉えた理解(これは主観的なものかもしれませんが・・・)を述べたいと思います。

@広さ:
誰も分け隔てなく、すべての造られたものを愛してくださる広い愛です。その中には、神の恵みから遠く離れているように見える人も含まれます。いや、その筆頭は私かも知れません。私たちは、自分自身の良いところ悪いところを知っていると思っています。でも、本当の実質は他人が良く見ていますし、神はもっと良くご存知です。恐らく、自己採点をしたならば、絶望的な点数が出てくることでしょう。周りの人は、私たちを見捨ててしまうかもしれません。しかし、そんな絶望的人間をも「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)と受け入れ、包んでくださるのが、キリストの愛なのです。

A長さ:
キリスト愛は何時までも続く、途切れない愛です。私たちの人生の終わりまでも、また、その後も続く愛です。1コリント13:8 に「愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。」と記されています。漢訳聖書では、「愛長久不絶」と記されています。人の誕生から、死に至るすべての行程に注がれる愛です。年を取ると、しみじみ感じることですが、人間の気持ちも、活動も、何もかも変わります。気力も記憶も薄れていきます。環境も変わります。でも変わらない一つのこと、それは、キリストが私たち一人ひとりを愛していてくださるというその素晴らしい一点です。

B高さ:
私たちの想像も及ばないほど高い愛です。「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:9)と記されています。 私たちは「愛」というとき、ある一定のパターンを想像します。こういうものが愛の形だという固定観念を持ちやすいのです。しかし、神の愛の表れは、正に「想定外」です。十字架がそうでした。愛する先生の惨たらしい十字架に直面したヨハネは、「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」と感想を述べています。想像も及ばないほどの大きな愛、想像もつかない形で表わしてくださる愛、それがキリストの愛です。

C深さ:
どんな卑しい、低い人、罪深いものをも赦し、きよめ抜く愛です。また、どんな絶望の渕に沈んでいる魂にも届く愛です。ヨナは、ニネベに行くようにという神の命令に背いて、その反対方向に行って嵐に遭い、荒海に放り出され、そして魚に呑まれました。海の底まで落ち込んだ男でした。しかし、神は、その中にも御手を延ばして彼を引き上げ、悔い改めに導き、その自己中心を砕いて、預言者として回復してくださいました。ヨナは、その魚腹で告白しています「私が苦しみの中から主にお願いすると、主は答えてくださいました。私がよみの腹の中から叫ぶと、あなたは私の声を聞いてくださいました。あなたは私を海の真中の深みに投げ込まれました。潮の流れが私を囲み、あなたの波と大波がみな、私の上を越えて行きました。私は言った。『私はあなたの目の前から追われました。しかし、もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです。』と。・・・私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は主を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました。」(ヨナ2:2−7)
 
4.この愛を捉えるように(18節b、19節a)
 
 
「すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」
 
・愛の直覚的理解:
パウロは祈ります。この愛を「理解する力」が与えられるように、と。この力とは、数学的なまたは論理的な思考の力ではなく、本能的・霊的な把握力のことです。

・愛の共同的理解:
しかもパウロは、エペソ信徒達が「すべての聖徒とともに」これを捉えるように、と祈ります。エペソ信徒達だけが、氏かもその個人々々が特別に「霊的に」なって神の深い真理を悟るようにとは期待していません。すべての聖徒達も等しくこの理解に立つようにと祈ります。あるクリスチャンが修道院の中の個人的瞑想によって、このような理解に立つということを想定しているのではなく、クリスチャン達が相互の交わりと共同的信仰生活を通して、この愛を理解するようにと祈ります。この礼拝式が終わって、こんにちはと互いに挨拶を交わす、その何気ない営みの中にも、主は「すべての聖徒と共に」キリストの愛を捉える機会を与えていてくださいます。

・愛の経験的理解:
パウロは、「人知を超えた愛を理解する」ようにと祈ります。このことばは正に矛盾です。人知を超えたら理解不可能です。それを理解せよというのは、理性的理解のことではなく経験的理解のことを言っているのです。愛は一方通行ではありません。愛し、愛されることで理解できる、そのような経験的なものです。神から愛されたことを感謝し、神に愛し返し、さらに神から愛される、そして、その愛を共同体の中で互いに実践する。これが愛を捉える方法です。
 
5.神の恵みの充満を(19節b)
 
 
このような愛の理解の到達点として、パウロは、「神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」と祈って締め括ります。「満ち満ちたさま」とは、神の恵みとそのご性質が充満することです。しかし、私たちは神のご性質の充満を自らに捉えることは不可能です。そうは言いましても、大海からバケツ一杯の水を汲むとき、大海の海水中に含まれるすべての化学物質の要素が含まれると同じような意味で、私たちは神の愛のすべてを内に住んでおられるキリストの中に、持っているのです。何故なら、キリストの中に神の愛が凝縮されているからです。
 
6.願い以上に答え給う神に栄光を(20−21節)
 
 
「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。」
 
私たちは願いが満額答えられれば大満足します。半分答えられたとしても、まあまあ良かったと思います。しかし、神は願い以上の答えを下さる方とパウロは信じていました。私は、朝の散歩の時、大きな柿の木の下の家のおばさんと挨拶をするのですが、ある朝、この柿は甘柿ですかと尋ねましたところ、「甘柿です。持っていらっしゃい。」と袋一杯下さいました。私は、一個か二個あれば感謝と思ったのですが、おばさんは私の期待以上に柿を押し込んでくださいました。神は、そのおばさん以上に、寛大なお方です。私たちの祈りを3分の1答えて、あとは自分で努力せよとは仰らず、祈らないことまで答えてくださる親切なお方です。大体パウロが祈ったこの祈りは大変壮大で、答えられにくいような課題です。神の性質の充満がキリスト者に満ちるようにとか、キリストの計りがたい愛を知るようにとか、その愛の4次元を捉えるようにとか、とても無理な祈りのように見えます。パウロは、神はその祈りに答え得給う、いや、それ以上に素晴らしいことをなしてくださると、誠に楽観的に信じていました。神が祈りに答えられる手段は、私たちの内に働く神のみ力によると信じていたからです。その神に、すべての栄光をお返しします。
 
おわりに:祈りに答え給う主に感謝し、賛美しよう
 
 
私たちも、祈りに答え給う主に感謝し、主を賛美しましょう。
 
お祈りを致します。