礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2012年7月1日
 
「御霊の一致を熱心に保つ」
エペソ書連講(16)
 
竿代 照夫 牧師
 
エペソ人への手紙4章1-6節
 
 
[中心聖句]
 
  2,3   謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。
(エペソ4章2-3節)


 
聖書テキスト
 
 
1 さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。
2 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い3 平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。
4 からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。
 
1.「キリストの愛の広さ・・・」(18節)[前回の復習、イラスト@]
 
 
前回は、18節の「その広さ、長さ、高さ、深さ・・・」ということばから、キリストの愛の4次元(18節a)についてお話しました。

@広さ:すべてを愛し、包む広い愛
A長さ:いつまでも続く、変わらない愛
B高さ:想像も及ばないほど高い愛
C深さ:卑しく罪深い者、絶望に沈む魂にも届く深い愛
 
2.「召しにふさわしい歩み」(1節):実践的部分の要約
 
 
1節を読みましょう。「さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。」パウロの手紙の多くは、前半が教理的な事柄を扱い、後半がそれを実生活の中に活かす実践的部分に分かれています。エペソ書も例外ではありません。1−3章では、神の救いの大きさ、広さ、深さの計画を述べ、それが3:21に祈りに答え得給う主への賛美で締めくくられます。後半部分は、その救いを経験したエペソ信徒達が、その救いを実際生活の中に活かすべき勧めです。その蝶番のことばが、1節の「さて」(直訳では、「それゆえ」)です。そして、「召しに相応しく歩みなさい」という勧めとなります。この勧めは、後半部分で言いたいことが全部含まれていることばです。神はエペソ信徒達を神の家族として召してくださいました。丁度、身分の低いものが、何かの理由で貴族の仲間入りをしてしまった時に、貴族らしく振舞いなさい、という状況と似ています。ただし、違うところは、私たちは形だけ神の家族の一員となったのではなく、そのような心も与えられていますから、おのずとそれらしく振舞うことができるのです。「召しに相応しく歩む」ということばの中に、あれこれの決まりごとは全部含まれています。ウィリアム・クラーク博士が札幌農学校に赴任した時、それまでの細かい校則を全部廃止して、“Be gentleman.”という一語に纏めてしまったのと似ています。
 
3.一致を保ちなさい(3節b)[イラストA]
 
 
・既にある一致=同じ御霊が命の源:
召しに相応しい歩みの第一は、「御霊の一致」を保つことです。パウロはここで、御霊の一致を作りなさい、とは語っていません。それは既に存在しているという前提で話しています。およそキリストを信じ、御霊を頂いているクリスチャンは同じ命によって生かされています。ちょうど、同じ両親から生まれた兄弟姉妹が同じようなDNAを分け持っているようなものです。性別が違い、年齢が違い、文化や人種や言語が違っていても、主を信じる者たちは、不思議な共通性で結ばれています。それは同じ聖霊が、一人ひとりの心に宿り、同じ方向性へと導くからです。

・その一致を熱心に保て:
御霊の一致は、それはほっておいても自然に強化され、成長するものではなく、「熱心に保つべき」ものなのです。英語の聖書(NIV)では“Make every effort to keep the unity of the Spirit”(御霊の一致を保つためのあらゆる努力を払いなさい)と訳されています。「努力を払う」の原語はスプウダゾーとは、急いで進める(to speed)、注意深く、熱心に、促進する、という強い言葉です。逆な言い方をしますと、努力を怠ると壊れてしまうという危険を示しています。

・一致が損なわれた例:
残念ながら、教会内で一致が損なわれている例は、コリント教会、ピリピ教会などにも顕著に見られました。コリント教会では、かつて教会を牧会した指導者たちのキャラクターに倣っての分派が生じて、互いに正当性を争っていました。また、賜物の相違を巡って、どの賜物が優れているかという競争が教会を分けてしまっていました。ピリピ教会では、二人の女性指導者、ユウオデヤとスントケが対立し、その二人に同調するそれぞれのグループが相対立していました(ピリピ4:2,3)。良いことのためではありますが、この二人には競争心が働いていたのです。ピリピ教会は、福音のために熱心に活動し、乏しい人々に愛を示し、互いに祈り合う素晴らしい教会でした。こんな素晴らしい教会でも分派という過ちに陥ったとするならば、私達も同じ過ちに陥りやすいのは当然です。エペソ教会は、異邦人とユダヤ人が混在していた教会でしたから、何らかの対立が顕在化していたようです。ですからパウロは、教会の一体性を繰り返し強調しているのです。人間は群れやすく、互いに喧嘩しやすい動物です。その現実を直視しながら、主の助けを求めましょう。
 
4.一致をどのように保つのか
 
 
2節と3節の前半に、パウロは一致を保つために私達が取るべき態度を示しています。

・徹底的な謙遜と柔和:
パウロは言います。「謙遜と柔和の限りを尽くし」と。謙遜とは、自分は卑しい人間だという深い自覚のことです。柔和とは、いらいらさせられる環境における自制のことです。しかもパウロは、適当な謙遜や柔和とは言いませんでした。「謙遜と柔和の限りを尽くし」と言います。徹底的な謙遜、徹底的な柔和のことです。ある目的をもっての謙遜の態度でもありません。「韓信の股くぐり」ということわざがありますが、これは、今は謙遜の態度を取るが、今に見ていろ、という将来のリベンジを含んだ謙遜です。私たちも、時として無視されたり、蔑視されたり、傲慢な態度を取られたりということはあります。しかし、「何を!」というような報復的態度ではなく、人々の嘲りや無視に対しても、それを赦し、受け入れる謙遜と柔らかさを持ちたいものです。勿論、公の正義を貫くためには、時として、断固たる厳しい態度を示さねばならない時もあります。でもその時ですら、私があなた方より物事を良く知っているという傲慢な思いではなく、「自分は救われた罪人に過ぎない」という謙りはいつでも根底に持っていたいものです。

・寛容を示す:
次は「寛容を示し・・・」です。寛容とは、広い心の事です。自分と意見の違う人、物事の感じ方の違う人、趣味の違う人、物事の進め方のペースや方向の違う人、「馬の合わない」人を切り捨てないで受け入れる態度のことです。違うから遠ざけるのではなく、批判するのではなく、まして、排除するのではなく、違ったタイプの人からも多くを学ぶことが出来、彼らをうけいれることから自分も大きく成長できるのだという積極的な思考をしたいものです。

・愛をもって互いに忍び合う:
「愛をもって互いに忍び合い」が続きます。愛が忍び合うことに繋がるとは、パウロも人間性をよく観察していますね。いやな人、自分にとって嬉しい存在ではない人、嬉しくない言葉や行いをなす人に対して愛を持って互いに忍び合うのだ、とパウロは言います。忍ぶとは我慢することよりも、もっと積極的です。お互いのいやな点を認め合いつつ、そこにキリストの愛を当てはめるのです。人間的な好き嫌いではなく、キリストがご自分を捨ててくださったその愛を与えていただいて、その愛を持っていやに見える人に接するのです。愛の反対は自己中心です。神の愛は自己中心を砕き、乗り越えるものです。その愛をもって互いを忍びあうのです。

・平和のきずなで結ばれる:
「平和のきずなで結ばれて」=キリストにあって与えられた平安の心を共通の絆とするということは、平和の王様であるキリストを共通の主と信じ、その平和を愛する心をもってお互いを扱うということです。
 
5.一致の土台(4−6節)[イラストB]
 
 
パウロはさらに、私たちクリスチャンには、共通要素が沢山ある、ということを思い起こさせます。違う要素を挙げればきりがないかも知れませんが、共通要素を数えることが大切です。パウロは4−6節にその共通項を7つ挙げていますが、1節ごとに纏めて述べています。その括りの仕方に、三位一体の神が表れています。

・聖霊に関して(4節)
テキスト@教会というからだは一つ:
エペソ教会には、多数の異邦人クリスチャンと少数のユダヤ人クリスチャンがいましたが、彼らはみな一体となりました。
テキストA内に働く御霊は一つ:
その一体性は、彼らの中に働いている御霊によります。
テキストB主の来臨への望みも一つ:
その異なるグループの人々も、主キリストがもう一度来られるという輝かしい望みに進んでいるという点で同じ心です。

・キリストに関して(5節)
テキストCより頼む主は一人:
私達が救いの君として仰ぎ、より頼むお方はキリストのみです。この方以外により頼むものはありません。エペソ信徒だけでなく、あらゆる時代のあらゆるクリスチャンは、その背景に拘わらず、この同じ門を潜ってきますから、一体なのです。
テキストD救いの道である信仰は一つ:
すべての人は罪を犯し、キリストの贖いによってだけ救われる、という救いの道である信仰は一つです。
テキストE信仰告白のバプテスマも一つ:
その信仰の告白を通して私達がクリスチャンとなる徴としてのバプテスマはみんな共通です。

・み父に関して(6節)
テキストF神は一つ:
「すべてのものの上にあり(超越的であり)、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる(内在的である)、すべてのものの支配者」であり給う父なる神は一つです。このお方をお父様と仰ぐ家族が教会です。

なんというものすごい共通性でしょうか。違いは沢山あることでしょうが、この共通性をドーンと前提して、そこから話が始まるのです。
 
6.主イエスの願いと祈り(ヨハネ17:20−23)[イラストC]
 
 

パウロがエペソ信徒たちに願っている以上に、主イエスは私たちの為に祈り、願っているのがこの一致の精神です。主は、十字架に架けられる前夜、最後の祈りの中で、私達が一つになることを祈っておられます。ヨハネ17:20―23を共に読みましょう。「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。」私達が一つになることによって、神は愛であり、その愛の神が私達の中にあることによって、キリストがその愛を伝えるためにおいでくださったこと、を知るのです。逆なりに言えば、私達の間に一致がありませんと、主の証を損なうのです。伝道が妨げられます。この一致を保ち、広げ、深めて行こうではありませんか。
 
終わりに:この教会で、一つとなることを学ぼう
 
 
聖霊による一致を育てる第一の学校が、この教会です。その一つ心を実感する場の一つとして、組会があり、スモールグループがあります。その中で、謙遜、寛容、忍耐、平和を実際に学びつつ一つ心となることを体験します。それは決して排他的な一致ではなくて、この教会全体を包み込む一体の始まりであり、更に、他の教会をも包み込む、広がり行く一致です。この一致を保ち、広げ、深めて行こうではありませんか。
 
お祈りを致します。