礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2012年7月8日
 
「違いを活かして建て上げる」
エペソ書連講(17)
 
竿代 照夫 牧師
 
エペソ人への手紙4章4-13節
 
 
[中心聖句]
 
  2,3   エペソ4:7 しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。
(エペソ4章7節)


 
聖書テキスト
 
 
4 からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。
7 しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。
8 そこで、こう言われています。「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」9 ・・この「上られた。」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。10 この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです。・・
11 こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
 
1.「御霊の一致を熱心に保つ」(18節)[前回の復習、イラスト]
 
 
前回は3節の「御霊の一致を熱心に保ちなさい」を中心に話しました。

・一致は既に与えられている:教会には聖霊による一致が与えられていること、しかし、それは自然成長するものではなく、
・それを熱心に保つべきであること、
・そのために「謙遜の限りを尽くす」ことの大切さ、そして
・共通点を確認することも大切、と話しました。共通点は7つです。からだは一つ、御霊は一つ、望みも一つ、主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ、父なる神は一つです。素晴らしい共通財産です。
 
2.異なる賜物が与えられている(7節)
 
 
・それぞれに異なる賜物が:
教会のメンバーに共通要素は多いのですが、しかし、異なる点もたくさんあります。そこに今日の焦点を当てます。パウロは言います、「しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。」(7節)私たちは一人ひとり(つまり個別に、別々に)キリストの賜物の量りに従って(それぞれの容量と目的に従って)(違う内容の)恵み(この場合は能力)が与えられている、と。

・「賜物」とは「恵み」の表われ:
ここで「賜物」と「恵み」という言葉が使われていますが、二つとも「喜ぶ」(カイロー)という言葉から出てきた派生語です。カイローから、「恵み」(カリス=喜んで与える態度、恩顧)が生まれました。その恵みから「賜物」(カリスマ=与えられるもの、与えられた能力)が生まれました。何が言いたいのかと言いますと、私達が持っていると思うものはみな神の賜物であり、恵みの表れなのだということです。神の恵みの故に、私は健康という賜物を持っているし、家庭という賜物を持っているのです。恵みによらないものはひとつもありません。それなのに、これは最初から自分が持っていると錯覚するところに一番大きな罪があります。「あなたには、何か、貰ったものでないものがあるのですか。もし貰ったのなら、何故、貰っていないかのように誇るのですか。」(1コリント4:7)

・御霊の賜物:
御霊の賜物とは「キリストが、地上におけるご自身の教会がその務めを適正に遂行するために与え給う、神的に制定された手段であり、力」(「キリスト教神学概論」321頁)と定義されます。それは一人一人に独特なもので、それを通して主は教会を建て上げなさいます。賜物の内容はそれぞれ異なりますが、何にも与えられていない人はいません。私は何にも賜物が無い、とか、小さな賜物しかない、というのは、主に対して失礼な言い方です。というのは、与え主は神ご自身だからなのです(7節、11節)。これらが全部「力量にふさわしく働く」ことに依って、人体が維持、成長します。どの部分が欠けても、人体としてスムーズに機能しません。だから、置かれた立場で忠実に分を果たすことが必要なのです。少ないからといって卑下することもなく、多いからといって誇ることもありません。只感謝してその目的の為に用いればよいのです。
 
3.「賜物」は主の戦利品(8−10節)
 
 
「そこで、こう言われています。『高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。』――この『上られた。』ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです。――」
 
・詩篇68:
17−18の「凱旋パレード」:ここで引用されているのは、詩篇68:17−18です。「神のいくさ車は幾千万と数知れず、主がその中に、おられる。シナイが聖の中にあるように。あなたは、いと高き所に上り、捕われた者をとりこにし、人々から、みつぎを受けられました。頑迷な者どもからさえも。神であられる主が、そこに住まわれるために。」この篇は、凱旋行進の歌で、戦いに勝った将軍が、捕虜や戦利品を携えてエルサレムに凱旋行進している姿を歌っています。[ここで貢を「受ける」となっています。70人訳は「与える」です。そこで、パウロは70人訳の方を採用したと思われます。敵から貢を受け、味方の民衆に分け与えた、と考えれば矛盾はありません。]

・キリストは、犠牲の後の大勝利によって、私たちに賜物が与えられた:
パウロは、この歌をキリストの受難と復活の姿と重ねて、こう言います。キリストは、十字架の死と埋葬によって徹底的に低い地位に自らを置き、その後復活・昇天という大勝利を経験されました。私達が与えられた賜物の内、特に、「聖霊の賜物」と呼ばれる賜物は、キリストがその犠牲によって勝ち得てくださったものであり、それが別ち与えられたのだと言うのです。私達は、自分が与えられている賜物が、キリストの犠牲の上に与えられている尊いものだという自覚を持ちたいものです。私自身、その自覚が充分でなかったことを認めて申し訳なく思っています。「鶴の恩返し」の物語で「お通」が織った反物を、夫の「与兵(よひょう)」が売りさばくのですが、背後の犠牲を一つも感じないで、ただ金儲けのためにどんどん売っていた悲しい物語と共通するものがあります。
 
4.賜物はそれぞれ異なる(11節)
 
 
「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。」
 
・指導的な賜物:
ここに、賜物のリストがあります。その内容は@使徒、A預言者、B伝道者、B牧師、D教師(この場合には、CとDはつながって提示されていますが・・・)と、5種類です。

@使徒:主イエスの教えを直接受けて、福音を伝え、教会を指導するものたち、
A預言者:神の言葉を人々に伝える説教者、
B伝道者:主として教会の外で巡回しながら、未信者に福音を述べ伝える人々、
C牧師:形成された神の群のケアをする
D教師:牧師の働きの一つとして、信徒に聖書を教える人々

パウロは、CとDを繋げて記しています。もっとも、他の場所では、教師は独立的な賜物のように扱われていますが・・・。

・その他:
さて、この5つだけが賜物かというと、そうではありません。ローマ12:6と1コリント12:8も参照しますと、これに加えて、これに加えて、E奉仕、F勧め、G分かち合い、H指導、I慈善、J知恵のことば、K知識のことば、L信仰、Mいやしの賜物、N奇蹟を行なう力、O霊を見分ける力、P異言、Q異言を解き明かす力、と合計18ものリストが出来上がります。更に先天的なもの、その他を加えるともっと多くなります。例えば音楽の賜物、絵を描く賜物、計算をする賜物、コンピュータを操る賜物などなど、数え切れません。

エペソ4章にリストされている5種類は、教会において指導的な賜物のことです。
 
5.賜物の目的は(12−14節)
 
 
・聖徒を整え、機会を提供する:
上記4ないし5つの指導的な賜物の目的は「聖徒を整えること」(12節)です。「整える(カタルティゾー、骨格などの再構築、装備する)」のは「奉仕(仕えること)の働きをさせ」とありますように、指導者の務めはメンバーに必要な装備を提供し、彼らが働きやすいように環境を整えることです。指導者の仕事は、手を取り、足を取って全部をコーチすることではなく、まして、自分で何もかもしてしまうことでもなく、要点を教え、武器を与えることです。しかも職業訓練的な訓練ではなく、如何にへりくだって仕えるものとなるかの訓練が期待されています。日本では「指示待ち人間」が歓迎される傾向にありましたが、そのような消極的姿勢が社会や経済の停滞の理由と指摘されるようになりました。言う迄もなく主の教会においては指示待ちではなく、賜物を「生かして」用いる事が勧められています。「各々が賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。」(第一ペテロ4:10)異なる賜物を活用して互いに仕えるという美しい姿勢が、地域教会の中で、教団の中で、また、世界大のキリスト教会で見られることを主は期待しておられます。

・愛と聖さの共同体を建て上げる:
その目的は、「キリストのからだを建て上げるため」です。教会の建て上げとは、もちろん会堂建設のことではありませんで、「信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するため」なのです。つまり、教会の集まりが、キリストの愛と聖さを表わすような存在となることです。
 
終りに
 
 
1.自分の賜物を確認し、感謝しよう
 
 
自分に与えられている賜物を再認識し、感謝し、充分に活用しよう。教会の中で、私はどんな賜物をもって主に仕えることが期待されているのかを祈りつつ考え、他人の意見も聞き、捉えましょう。それを感謝し、それを活用しましょう。指示待ち人間になって遠慮とか謙遜とか言って引っ込まないで、このようなものですが、と言って、自分を差し出す人となりましょう。
 
2.他人の賜物を評価し、感謝しよう
 
 
自分だけではなく、他人の賜物を評価し、感謝し、その故に神を褒め称え、その人を励まし、助けましょう。
 
3.教会の建て上げのために賜物を活用しよう
 
 
教会の交わりがキリストの愛と聖さを表わすものとなるように、祈り、仕えましょう。その共通目的のために、自分の賜物を最大限活用しましょう。さらに、互いを尊重し、互いの存在を貴重なものとして感謝し、互いを助け、互いのために祈りましょう。