礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2012年7月29日
 
「新しい人を着る」
エペソ書連講(19)
 
竿代 照夫 牧師
 
エペソ人への手紙4章17-24節
 
 
[中心聖句]
 
  22-   人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきこと
(エペソ4章22-24節)


 
聖書テキスト
 
 
17 そこで私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。 18 彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。19 道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行ないをむさぼるようになっています。
20 しかし、あなたがたはキリストのことを、このようには学びませんでした。21 ただし、ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから。
22 その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、23 またあなたがたが心の霊において新しくされ、24 真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。
 
始めに
 
 
前回は、15節の「あらゆる点において成長し」という句をとらえました。今日から、4章の後半に記されているクリスチャン生活の実際、特に、その倫理的側面を取り上げます。

パウロは、クリスチャン生活とは、それまでの生き方から革命的に新しくなったものだ、ということを着物の譬えによって示します。丁度、夏になって、春物をしまいこんで、クールビズの着物を着る「着替え」をするように、私たちは古い着物を捨てて、新しい着物を着るべきとパウロは言うのです。
 
A.古い人(イラスト@)
 
1.「古い人」とは・・・
 
 

・生まれながら持っている罪の性質:
ここでいう「古い人」とは、我々が持っていた罪のことであり、「新しい人」とは神が私たち人間に与えられようとしている清さ・正しさを象徴しています。英語ではold manで、老人とも訳される言葉ですが、老人のことを言っているわけではなく、古くから持っている、いやもっと言えば、生まれつき持っている人間性質を「古い人」とパウロは呼ぶのです。

・(命の源である)神から離れた生き方:
17節で「異邦人」と言う言い方をしていますが、この場合は、「ユダヤ人でない人々」という意味ではなく、神を畏れないすべての人をさしています。真の神を畏れるという芯が一つ入っていないと、人間の生き方全体がおかしくなります。更に、18節では同じ思想を「神のいのちから遠く離れている」と言い表しています。電源にソケットが入っていない冷蔵庫のようなものです。私たちの人生に本当の意味と方向を与える方、力を与える方、喜びを与える方、つまり、私たちの命の源を持っていないために、人生を生きる意味、力、喜びを見つけることができません。最近のいじめ問題、経済的なごまかしの事件、殺人などなど世間を騒がす事件に共通しているのは、人間こうあらねばならぬという芯が失われているということです。

・人生の意味や喜びのない空しさ:
私たちの人生は、神の栄光を表わすという大きな、そして素晴らしい意味のあるものです。それがありませんと、何のための人生かと虚しくなります。私は、犯罪を起こした少年達と接触する機会を多く持っていますが、自分が何のために生きているのかという目標が一つもないために、仲間と遊んだり、仲間とつるんで盗みをしたり、暴力を振るったりする少年がいかに多いかに心を痛めます。パウロの時代と現代と殆ど変わらないとつくづく思います。

・神を認めようとしない頑固:
18節で「無知と頑なさ」とが結び付けられています。これは、知らなかったから仕方がない、という無知ではありません。心の耳を澄まして聞くならば、神は誰にでも良心という窓口で語っておられるのに、その心を自分で塞いでいて、神を認めようとしない、神の教えを聞こうとしない、その意味では頑固です。
 
2.「古い人」の中身
 
 
・悪いことを悪いと感じない無感覚:
19節の「無感覚」という言葉は、皮膚が厚くなって、痛みを感じなくなることです。私たちは悪いことを悪いと感じる良心を与えられています。しかし、いけないと分かっていながら悪を続けていると、段々感覚が麻痺して平気になってしまいます。コンビニで、小さなチョコレート一つ万引きするのでも、最初はどきどきしながらやっていた少年が、段々大胆になって、何億円使い込んでも平気になってしまうようなものです。

・自分と他人への尊厳を持たないでたらめな生き方:
「好色」と訳されている言葉は、放蕩、道楽などの意味で、公的な上品さの反対です。自分に対する尊厳、他者への尊厳を感じないまでのでたらめな生き方です。

・欲望をむきだしにして自分と他人を傷つける不潔さ:
「不潔」とは、文字通り、聖さの反対のことです。性的な汚れを含むあらゆる道徳的な悪行のことです。

・自分にも他人にも真っ直ぐ向き合わないごまかし:
22節に「他人を欺く情欲」とありますが、これは、人間とは何かという大切な問いに真っ直ぐ向き合おうとしないで、欲望に動かされるまま、ごまかしの人生を生きている人の姿です。
 
3.脱ぎ去るとは
 
 
・キリストとともに十字架につくこと:
私たちが生まれながら持っている「古い人」は、どうすれば良いのでしょうか。努力して、一枚ずつ脱いでいけば良いのでしょうか。そう簡単に問屋は卸しません。これらは、私たちの性質の中心に、しっかり根を下ろしているからです。この解決は、私たちが「キリストとともに十字架につけられる」という徹底的な解決(ローマ6:6)しかありません。

・罪深い思いと行いにさよならをする:
「古い人を脱ぎ去る」とは、その十字架の贖いを信じて、罪深い思いと行いにさよならをすることです。はっきりとした決断をもって、古い自分にさよならをしようではありませんか。私たちの年代くらいですと、「青い山脈」という歌の一節に「古い上衣よ さようなら、さみしい夢よ さようなら」というくだりがあります。古い自分にさようならをして、新しい自分になるのです。
 
B.新しい人(イラストA)
 
1.神のイメージ
 
 

・人間は、元々神のイメージに造られた:
人間が元々作られたのは、神の像に似せてでした。それが「神にかたどり造り出された」という言葉の意味です。

・それが、アダムの堕落によって失われた:
しかし、アダムの堕落以来、人間はその姿を失ってしまいました。

・キリストは、「第二のアダム」となって、それを回復された:
それを回復するためにキリストの贖いの業がなされ、キリストは、「第二のアダム」となって、新人類を創設されました。そして、信じるものの中に、そのキリストの品性を植え込んでくださるのです。
 
2.内容
 
 
真理に基づく(あるいは本当の)「義と聖」

・本当の義:神の期待に適う行いと言葉:
「義」という言葉は、ある標準に達した状態、物差しに合致した状態を指す言葉です。私たちの行動や言葉が神の期待しておられる標準に達するようになることが、この場合の義です。

・本当の聖:神の聖さが分け与えられること:
聖とは、汚れや不純物が取り除かれた純粋さ、清潔さを指す言葉です。神は絶対的に聖いお方でありますが、私たちにもその聖を分け与えてくださいます。
 
3.新しい人を「着る」
 
 
23節に「心の霊において新しくされ・・・」とありますのは、このような義と聖が私たちの努力によって勝ち取るものではなく、私たちの内に働く聖霊の現われとして与えられるものであることを示します。
 
C.「脱いで」「着る」
 
 
古い人を脱いで、新しい人を着るという出来事は、いつ、どんな風に起きるのでしょうか。これは、既に起きていることでしょうか、それとも、これからすべきことでしょうか。
 
1.「脱ぐ」と「着る」は同時に起きる
 
 
パウロの答えは単純です。キリストを信じたものは、古い人を脱ぐことと、新しい人を着ることは、その時点で同時に起きているはずだというのです。22節の「脱ぎ捨てる」、24節の「新しい人を身に着る」という二つの動詞はアオリスト時制で、一遍になされることを示唆しています。また、20節の「そのようには学ばなかった(実際には学んだはず)」という動詞もアオリストで、一遍になされたことを示します。主を信じ受け入れたとき、そのように学んだ、いや、経験したはずだと言っているのです。ひとつひとつの悪いことを改めて、一つ一つ良い事を学んで、段々よくなる、というよりも、一遍に脱いで、一遍に着るのです。
 
2.着替えをしたのに、現実は古着を引きずっている(?)
 
 
さて、ここに問題があります。古い着物を脱いで、新しい着物を着たはずのエペソ信徒たちの中に、どうも、古いぼろを引きずっているような生活、心、行動が見えるのです。

そのひとつの理由は、しっかりと回心のステップを踏んでいない「クリスチャン」がいるかもしれない、という可能性です。その可能性が22節の言い方で示唆されています。「ただし、ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。」と言って、洗礼を受けたときに、きちんとした悔い改めと信仰という門を潜らないで、まあまあという具合に入ってきた人もいる可能性が示されます。このような場合には、もう一度、入り口から入りなおす必要があります。はっきりと悔い改めと信仰告白の原点に戻ることです。

もう一つは(そしてそれが多くのケースなのですが)、きちんと回心し、「脱ぎ着」を経験した筈なのに、それが充分日常生活の中に現実化されていない、という可能性です。ローマ書やコロサイ書などにも共通していますが、パウロはその手紙で行なっているのは、キリストの完全な救いによって私たちがきよめられた立場あるいは可能性をリアライズ(深く捉える、実生活に活かし)しなさいという勧めです。
 
3.着替えの出来事を信仰によって捉え、実生活に生かす
 
 
このことについて、エペソ書ですでに学んだことを振り返ります。キリスト者は、聖く傷なき者となり(1:4)、神の栄光をほめたたえるために選ばれています。彼は、キリストとともに生かされ(2:5−6)、古い自分を脱ぎ捨て、新しい人を着て、神のイメージに再創造されています(4:22−24)。

だから、もう何もしなくてもよいかというと違います。一方において、神の恵みを十全に経験するように祈られているのです(3:16―20)あなたの立場を自覚しなさい、これがパウロの勧めです。

コロサイ3章の併行記事を見て見たいと思います。ここでも、キリスト者は、「既に古い自分に対して死んで」(3:3)、キリストとともに甦っており(3:1)、古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着ている(3:9)と言われています。それならば、もう着たり脱いだりの必要は無いかと言いますと、「いや、ある」とパウロは言うのです。「地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、・・・そして貪りを殺してしまいなさい。・・・神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、・・・深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。」(3:5、12)

ジョン・オズワルトは、「『聖き』を生きる人々」の中で、この二つの矛盾したように見える声明を次のように説明します。「死んだ」「脱いだ」とは、潜在的可能性のことであり、「死ぬべき」「着るべき」とは、その可能性が信仰によって実現されることなのです(216,217ページ)。オズワルトは更に、「キリストを受け入れたときに与えられている潜在的可能性の全てを引き出しなさい。・・・恵を受け止め、信仰を働かせなさい。・・・既にあなたに用意されているものを、信仰によって自分のものとしなさい。」「古い人を脱ぎ捨てたのだから、今信仰でそれを実践しなさい。もう死んでいるのだから、今死になさい。すでに生きているのだから、今生きなさい。」(217)と語っています。
 
おわりに
 
 
今私たちがなすべきことが二つあると思います。
 
1.古い人が死んだことを信仰で頷こう
 
 
自分の古い人はキリストの十字架とともに滅んで、キリストの十字架とともに新しい人が生きているのだと、信仰を持って頷くこと、御言によって確信することです。これが、ローマ6:11では、「思いなさい(計算して受け取りなさい)」という勧めになっています。受け取りましょう。
 
2.その信仰によって歩もう
 
 
さらに、着替えられたという信仰を確認しながら、そして、内に働き給う聖霊により頼みながら、主が喜んでくださるような歩みを日々続けましょう。
 
お祈りを致します。