礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2012年8月5日
 
「偽りを捨てて、真実を語る」
エペソ書連講(20)
 
竿代 照夫 牧師
 
エペソ人への手紙4章22-32節
 
 
[中心聖句]
 
  25   ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。
(エペソ4章25節)


 
聖書テキスト
 
 
22 その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、23 またあなたがたが心の霊において新しくされ、24 真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。25 ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。26 怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。27 悪魔に機会を与えないようにしなさい。28 盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。29 悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。30 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。31 無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。32 お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。
 
前回の復習(22-24節)
 
 
・「古い人」(生まれ持っている罪性)を脱ぎ、
・「新しい人」(贖いによって回復された神のイメージ)を着るべきこと

前回は、22−24節の「人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきこと」(エペソ4:22−24)という句を中心に、「古い人」(生まれつき持っている私たちの罪の性質)を脱いで、キリストにある新しい命を象徴である「新しい人」を着る、という転換の大切さ、そしてそれを継続する必要について学びました。
 
[実生活における「古い人」と「新しい人」との対照]
 
 
25節からは、「古い人を脱ぎ捨てて新しい人を着る」ことをどう実践すべきかについてパウロは具体的に示します。以下6つの捨てるべき悪徳と、着るべき諸徳が非常に分かりやすい対照で述べられていますので、一つずつ見ていきましょう。
 
1.偽りvs真実さ(25節)
 
 
「ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。」
 
・嘘はサタンの得意技(ヨハネ8:44):
嘘はサタンの大特技で、彼の行動は、みな嘘で成り立っています。ヨハネ8:44は、サタンとは「偽りの父」と表現しています。ですから、嘘をいうことは、ある意味でサタンの支配下にあることを意味します。私たちが、自分を守るためであったり、或いは他人を守るためであったり、動機は別として、嘘をつくことは、サタンの仲間入りをすることなのです。

・真実さは社会生活、特に教会の交わりの基礎(ゼカリヤ8:16):
真実を語ることは、一般社会における大切な倫理基準であるだけではなく、教会の交わりにおいて特に強調されます。パウロは、「隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。」と言って、教会のメンバー同士の会話における真実さの必要を強調します。偽りは、キリストの体としての基礎を破壊します。ゼカリヤ8:16「互いに真実を語り、あなたがたの町がこみのうちで、真実と平和の裁きをおこなえ」とある言葉の反映です。捕囚期以後のユダヤ人社会は契約社会でした。人々がある事柄について誓いを行い、それが遵守されるという前提に立った社会作りがなされて行きました。ですから、偽りが入り込んでくると、その社会の前提が揺るがされることになるのです。パウロは、クリスチャンの社会はそれ以上の真実さが互いの交わりの基礎だと言います。語る言葉がそのまま信用できる社会、それが教会です。また、そうでなければなりません。そして、クリスチャンでない社会においても、クリスチャンは嘘をつかないという評判を立てねばなりません。「外部の人に対して賢明に振舞いなさい」(コロサイ4:5)。
 
2.怒りvs和解(26-27節)
 
 
「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」
 
・罪に対する正義の怒りはOK:
クリスチャンが怒っても良いのでしょうか。パウロは怒る場合があることを想定しています。正しい怒り(この場合はオルゲー)は許されているだけでなく、命令もされています。それは、正義に基づく怒りです。神の義の反映としての怒りです。

・人に向けられると罪となりうる:
しかし、義憤が罪に対してであるのに比べて、怒りが人に向けられる時、罪となります(ウエスレアン注解)。この区別或いは境界線は極めて微妙です。最初は正義の怒りでも、ほおっておくと、人に対する怒りに移行しかねないからです。

・悪感情にはタイムリミットを!:
ですから、正しい怒りにせよ、悪しき怒りにせよ、タイムリミットを設けることが救いになります。仮に憤り(この場合は、怒りが齎すいらいらした感情を指すパロルギスモーという言葉が使われています)を持ったとしても、それを継続してはなりません。日が暮れるまでに和解してしまいなさいとパウロは勧めるのです。ピタゴラス学派の人々は、悪口雑言をいっても、日没前には互いに握手することが習慣でした。パウロの勧告は、その精神を反映したともいえます。怒りを継続すると、サタンにその働きのチャンスを与えることとなります。
 
3.盗みvs勤労(28節)
 
 
「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。」
 
・盗みは十戒に反する:
盗みをしている者は、という表現は、エペソ信徒の中に泥棒を業とする人がいたかの様な印象を与えますが、実際とは考えられません。多分、奴隷階級の人々が、小さなものを主人の持ち物から「ちょろまかす」くらいの行動ではなかったかと推測されます。その位は役得だから仕方がない、というような感覚で小さな盗みが常習化していた時代でした。ですからパウロは、十戒のうちの大切な戒めである「盗むな」を思い出させます。

・他人を助けるため、しっかり働け:
更に積極的に、勤勉を勧めるのですが、その理由付けが素晴らしいと思います。「困っている人に施しをするため」なのです。自分が自分の稼ぎで生活するのは当然ですが、労働の動機付けはもっと深く、他人を益するためだとパウロは言い切っています。ウェスレーは、できるだけ儲け、できるだけ蓄え、できるだけ与えよ、と説教しました。とても実践的な説教です。
 
4.悪口vs建徳(29節)
 
 
「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。
 
・悪い言葉:
「悪い言葉」に含まれるのは、冒涜、人を傷つける言葉、憐れみの心を伴わない批判、卑猥な冗談、当人不在の場所で語られる噂話などのすべてが含まれます。私たちは会話をするとき、神が見えざる聞き手であることを常に覚えたいと思います。イギリスの首相であったか、首相候補であったか忘れましたが、ある演説会の会場で、ピンマイクのスイッチを切ったつもりで、ある婦人を汚い口調でこき下ろしたところ、それが会場の外に流れてしまい、彼の信用を全く失墜させてしまったことがありました。

・主は不用意な言葉を裁き給う(マタイ12:36):
主は、私たちが不用意に発言したすべての会話をテープにとっておいて、終りの日に裁き給うお方です。「人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません」(マタイ12:36)。だから、いつも言葉に注意しようと努力するよりも、そのような他人をこき下ろす言葉づかいをするような心を除いていただきたく願います。

・「建徳」を私たちの会話のモットーに!(コロサイ4:6):
悪口ではなく、他人を建徳する(文字通りには、オイコドメーン テース クレイアス=必要の建設)ことば、励ます言葉、恵みをたたえる言葉、だけが私たちの口の葉から上るものでありたいと願います。コロサイ4:6には、「あなたがたの言葉が、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。」と勧めています。拳拳服膺しましょう。
 
5.聖霊を悲しませるvs喜ばせる(30節)
 
 
「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。」
 
・聖霊は繊細な、そして聖い人格:
聖霊はご人格を持ち給います。しかも、聖いお方です。ですから、私たちの行動や言葉によって、悲しい思いを持ち給います。聖霊を悲しませることは、私たちがそのために証印されている甦りの約束を破ることになるのです。特に、悲しませるという思想は、前の29節を受け継いでいます。私たちの心無い言葉で悲しい思いをなさるのは聖霊です。

・聖霊に従い、聖霊を喜ばせる思いと会話を:
この項目だけ、ポジティブな勧めがペアとなっていませんが、当然のこととして、聖霊に従い、聖霊の喜びを齎すような心の思いと会話がクリスチャンのノームであるべきです。
 
6.悪意vs親切(31−32節)
 
 
「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」
 
・捨て去るべきもの:
無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしり:最後にパウロは、一切の悪意を捨てよと勧めます。悪意の中には、「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしり」などが含まれます。これらの悪徳は、教会の交わりから一切捨て去るべきものです。26節で、怒りがありうるものというひょうげんをしていますが、ここでの「憤り」とは、感情に任せた怒りと指しているものと言えます。「怒り」はその爆発的表現です。「叫び」これもその同列です。

・実践すべきもの:
親切、同情、赦し合い(マタイ18:21−36):パウロは、捨て去ることだけでなく、積み上げるべきことも述べています。それは互いの親切、同情(相手の立場に立って物を考えること)、赦し合い(過ちを快く赦すこと)がそれです。マタイ18:21−36にある物語は、それを端的に表わしています。私たちは、一万タラントの借金を免除された大きな恵みを頂いています。それなのに、私たちに100デナリ借金をしている友を赦すことができないのです。この事実を再確認して、本当に赦しあいの精神が実行されますように祈ります。
 
まとめとして
 
 
・6つの項目を「律法主義的に」捉えないようにしよう:
これらを自分が努力せねばとか、これがあれば大丈夫という基準として捉えると、一種の律法主義になります。できれば傲慢になるし、できなければ頑張りになりますし、他人に当てはめると裁きになります。

・弱点について正直に自己採点しよう:
そうではなくて、6つのコントラストについて、正直に、また、謙虚に自己採点をしてみましょう。できれば、他の人に採点してみて頂きましょう。いずれにせよ、仮に、私の一番の弱点が怒りだったとしましょう、主のみ助けをその面に仰ぎましょう。嘘だったとしましょう。その面にも血潮を仰ぎましょう。公のものを私視してしまう弱点だったとしましょう。その面にもみ助けを仰ぎましょう。

・弱点に恵みをあてはめよう:
私たちが、心底から、新しい衣を着たクリスチャンとして生きるために十字架の主を仰ぎ、助けを頂きつつ、主のみ形に似せていただきたく願います。それらの一切は、主の恵みによります。
 
お祈りを致します。