礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2012年8月12日
 
「愛のうちに歩む」
エペソ書連講(21)
 
竿代 照夫 牧師
 
エペソ人への手紙5章1-14節
 
 
[中心聖句]
 
  1,2   愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。 また、愛のうちに歩みなさい。
(エペソ5章1-2節)


 
聖書テキスト
 
 
1 ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。2 また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。
3 あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。4 また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。5 あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者――これが偶像礼拝者です。――こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。6 むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行ないのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。7 ですから、彼らの仲間になってはいけません。
8 あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。9 ――光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。――10 そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。11 実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。12 なぜなら、彼らがひそかに行なっていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。13 けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。14 明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」
 
■前回の復習(4:25)
 
 
4:25−32において「実生活における『古い人』と『新しい人』との6つのコントラストが述べられています。

・偽りvs真実さ(25節)
・怒りvs和解(26−27節)
・盗みvs勤労(28節)
・悪口vs建徳(29節)
・聖霊を悲しませるvs喜ばせる(30節)
・悪意vs親切(31−32節)
 
■5章は、信仰者の歩み
 
 
今日は、5章に入ります。5章のキーワードは「歩み」です。歩みとは、日常生活のことです。それが三つの面で語られます。

「愛のうちに歩む」(2節)
「光の中を歩む」(8節)
「賢く歩む」(15節)

今日は1−7節の中で、「愛のうちに歩むこと」を学びます。
 
■「愛のうちを歩む」とはどのようなことなのでしょうか。この文節から、3つの側面を学びます。
 
 
1.神の愛に応えて生きること(1−2節)
 
 
「ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。」
 
・愛なる神に倣う者となる:
パウロはここで、エペソ信徒たちが「神に倣う者」となるように勧めます。倣うとは真似をするということです。ところで、エペソ信徒たちは、模範とすべきクリスチャンの姿を身近に持っていませんでした。これは、クリスチャンとはどんな生き方をする人間なのかを教えてくれる先輩をたくさん持っている私たちと大きく違います。ですから、パウロはこの若いクリスチャン達に対して、神に倣うものとなるようにと勧めるのです。コリント教会の人々には、「私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。」(1コリント11:1)とまで言っています。私たちの真似すべきは、すべてのものを愛する父の全き愛です。「ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。」(ルカ6:35−36)と主イエスも語られました。救いに与ると、私たちには、神の性質が移し込まれます。(2ペテロ1:4=「神の性質に与るものとされている」)しかし、そこで満足してはなりません。愛の神のご性質を分け与えられた私たちは、益々、神に似るものになるべきなのです。

・キリストは犠牲の愛を示された:
「愛されている子どもらしく」という言葉の中に、パウロは、私たちがどれほど神に愛されているかを思い出させます。その神の愛は、キリストの犠牲によって完全な形で表わされました。「キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。」十字架の死が、「神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおり」と表現されています。旧約時代の生贄を表わす表現です。生贄の動物が祭壇で焼かれる時に、天に昇って行く煙が「香ばしい香り」(レビ1:9)と表現されています。つまり、彼の捧げきった生涯が、神に受け入れられたということです。この言い方は、クリスチャンの犠牲的な奉仕に対しても使われました。ピリピ教会がパウロに対して応援物資を送ったとき、「私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。」(ピリピ4:18)と評価されました。キリストは、ご自分を私たちの罪のための生贄として捧げられた、ここに愛が示されました。ヨハネも同じ思想を「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(1ヨハネ4:10)と言い表しています。私たちが「愛」という言葉を語るとき、好きとか、可愛らしいとか、気に入ったとかいう感情的なものではなくて、相手を第一に考え、相手のために自分を捧げる犠牲的な愛がその根本でなければなりません。

・この愛に応えて神とお互いのために自分を捧げる:
ですから、愛のうちに歩むとは、すべてを捧げて愛してくださった神の愛に応えて歩むことです。「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」(1ヨハネ3:16)神の愛に応えて、私たちが自分自身を神に捧げ、お互いのために捧げていくことが、愛に応える道です。
 
2.汚れから離れること(3−4節)
 
 
「あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。」
 
・愛に応えて、聖く生きる:
愛に生きることは、汚れから離れることに結びつきます。世の中の愛や恋に関するドラマでは、愛しているからという理由で性的不品行が美化されます。しかし、私たちのためにキリストが命を捨てて愛してくださった目的は、私たちを汚れから解き放つためであることを思いますと、愛と汚れが両立する訳がありません。私たちが神の愛を感じるとき、その愛に背く行動、つまり、汚れから離れるのは当然のことです。神を悲しませるような思いや行動や言葉は、自然にできなくなります。

・汚れとは:
パウロは、その汚れについて、「不品行、汚れ、むさぼり、みだらなこと、愚かな話、下品な冗談」と例示しています。これは、4章後半で既に言及された事柄の重複ですから、特に説明の必要はないと思います。神を畏れない人々が陥る共通的な罪は性的不潔ですが、ここでも、それが指摘されています。加えて「貪り」が例示されていますが、これも厄介な罪です。「他の悪徳の原因がこの貪りにある」とウェスレアン注解が述べていますが、本当にその通りだと思います。

・会話の中に汚れを許容しない:
ここで、「聖徒にふさわしく」とその立場を思い出させていること、また、ある程度の許容ではなく、「口にすることさえいけません」「避けなさい」と、徹底的な排除を命じている重みを捉えたく思います。「みだらなこと、愚かな話、下品な冗談」に付き合うことすらも、口を汚すことになるのです。

・いつも感謝することは、聖い生き方に繋がる:
私たちの会話が、このような汚れに加担するようなものでないとしたら、何を話題とすべきでしょうか。パウロは、「むしろ感謝しなさい」と勧めます。どんなことにも感謝の材料を見つけ、それを口に出す、そんな習慣を身につけたいものです。感謝にあふれている人に、下品な冗談は生まれません。反対に、感謝を忘れるところから罪は始まるとパウロは述べています。「彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。・・・それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。」(ローマ1:21、24)クリスチャンの口から感謝と賛美が溢れておりますと、それ自体が「感謝を知らない」この世に対する証であり、魅力となります。「少女パレアナ」という物語がありますね。嬉しいことを見つけるゲームを身につけた少女パレアナが、周りの人々にその喜びのゲームを拡げて行ったという、ちょっと出来すぎの物語です。でも、これは不可能ではありません。主が私たちを感謝と賛美で溢れさせてくださるように祈ります。
 
3.汚れを行なう仲間に入らないこと(5−7節)
 
 
「あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者――これが偶像礼拝者です。――こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行ないのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。ですから、彼らの仲間になってはいけません。」
 
・汚れた人々は御国を相続しない:
このような人々は、神の国を相続できません。考えても見てください。不品行な人々がそのまま「天国」に入ったら、天国が天国ではなくなります。最近の新聞記事などで、亡くなった方々で、生前相当疑惑を持たれた人でも、「天国では・・・」などと書かれることがあります。「不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者・・・はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。」というパウロの言葉を厳粛に受け止めねばなりません。

・彼らと価値観を共有してはいけない:
この文節を締め括るパウロの勧めは、「彼らの仲間になってはいけません。」です。皆さんは、こう考えるでしょう。私たちの周りは、みんなこんな人ばかりだ、仲間になるなと言ったら、世捨て人にならなければならない、と。確かにそうでしょう。学生で言えば、あらゆるコンパには顔を出さず、社会人であれば、あらゆる宴会や飲み会に付き合わず、主婦であれば、近所の会合にも欠席するというような態度をパウロは勧めているのでしょうか?私は必ずしもそうは思いません。むしろ、この罪深い世に受肉してくださった主イエスのスピリットに倣って、もっとこの社会に溶け込むべきと思います。ただ、「和して同ぜず」とありますように、神を知らない人々との価値観を心から共有するような意味での仲間にはならない、という歯止めを心に持つことは大切と思います。ここで使われているスュンメトコスという言葉は、3:6で「約束に与るものとなる」と言っているのと同じ言葉です。同じ方向に向かって価値観を共有するという意味では、私たちは不信者と共同歩調は取れません。詩篇1:1で「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。」と言われているのと同じラインです。
 
おわりに
 
 
・愛されていることを感謝しよう:
私たちのために命を捨てるまでに愛してくださった主の愛を心から感謝しましょう。「愛されている子どもらしく」という5章の出だしは何と素晴らしい響きでしょうか。私たちは「愛されている子ども達」なのです。

・その愛に精一杯応えよう:
そして、その愛の深さ広さを思いつつ、その愛に応える生き方を全うしましょう。主に対する愛、兄弟に対する愛、それは主の愛に応えるものです。私たちには、生まれつきそんな崇高な愛が存在しません。ただ、主のご愛を心一杯受けるときに、神の愛がわきあがってきます。その愛をもって主と隣人を心から愛するものとなりたく願います。
 
お祈りを致します。