礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2012年8月19日
 
「光の子として歩む」
エペソ書連講(22)
 
竿代 照夫 牧師
 
エペソ人への手紙5章8-14節
 
 
[中心聖句]
 
  8   あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。
(エペソ5章8節)


 
聖書テキスト
 
 
8 あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。9 ――光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。――10 そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。11 実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。12 なぜなら、彼らがひそかに行なっていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。13 けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。14 明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」
 
[前回]「愛のうちに歩む」(1−2節)
 
 
前回は、「愛のうちに歩む」(2節)とは、神の愛に応えて生きること(1−2節)、愛なる神に見習って歩むことと学びました。愛されていることを感謝し、その愛に精一杯応えよう、と締め括りました。

今日はその続きで、8−14節から、「光のうちに歩む」ことを学びます。
 
1.闇から光へ転換(8−9節、イラスト@)
 
 
「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。――光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。――」
 
・神は光:
1ヨハネ1:5には、「神は光であって、くらいところが少しもない」と記されています。神は命の源であり、真理の基準であられます。また、主キリストは「全ての人を照らす真の光として」世に来られました(ヨハネ1:9)。

・以前の生涯の闇:
「あなたがたは、以前は暗やみでした」とパウロは断定しています。光である神を拒絶し、背を向ける時、そこに闇が生じます。人間が神に背き、神に従わない人生を歩んでいること自体が闇なのです。そこにあらゆる不正、不義、汚れ、争いが生じます。ローマ1:28−31で、その解説がなされていますので引用します。「彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。」このリストは、何と私たちの世界の諸課題を言い当てていることでしょうか。聖書は、これらが、人類が光に背を向けた結果だといっています。真の光である主に目を背けたところに、闇の世界があるのです。

・光の子となった:
私たちは、その闇から光に移されました。もっと正確に言いますと、光なるキリストに出会い、自分の心の闇の恐ろしさに気付き、このキリストを受け入れたのです。ヨハネ8:12に「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」とあるとおりです。その上、私は「世の光です」と仰ったキリストの光を反射するものとして、自分自身が「世の光」とされたのです(マタイ5:14)。何と光栄なことでしょうか。この世の人々は、神の光を直接見ることはできないかも知れません。でも、神の光を反射するクリスチャンを通して神の光を見るようになるのです。

・光の子として歩む:
光の子であるという内容は9節に「善意と正義と真実」であると記されています。「善意」とは、邪悪の反対です。他のために良きことを常に願う心です。「正義」とは、他人の権利、公正を尊重することです。「真実」とは、邪心が入らない純粋で誠実な心のことです。ここで、「実」という言葉が使われていることは重要です。これらは、「聖霊の実」(ガラテヤ5:22−23)と同様、努力の結果としてではなく、光である神に結びついていると自然に生まれてくる品性のことなのです。
 
2.闇に仲間入りするな(10−12節、イラストA)
 
 
「そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。なぜなら、彼らがひそかに行なっていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。」
 
・肯定面:
神に喜ばれることを見分ける:まず、積極的に「主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい」と命じられています。よく「光の中を歩む」ことが聖化の道を進む大切な要素である、と言われます。「光の中を歩む」とは、私たちの良心に示された神の導き、基準(それは「光」に譬えられます)に、素直に従うことを意味します。実際、「光」の内容は、個人によって異なることがあります。Aさんにはそれほど悪いこととは思わないことでも、Bさんにはとても悪いことと映るのです。自動車の運転でも、ある人は、速度規制を1kmでもオーバーすると罪意識を持ちます。他の人は、状況によっては許されると考えます。これは「光」の問題です。それぞれが与えられた「光」に従えばよいのです。一般的に言って、「光」に従えば従うほど、光は強くなります。そして輝いていきます。無視すると弱くなって、私たちも鈍感になり、そして、最後には罪に戻ってしまいます。ですから、「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(1ヨハネ1:7)という御言はとても大切です。飛行機が離着陸する時、管制塔が発するビームの中を飛んでいけば、雲で視界ゼロでもきちんと飛行できるように、私たちも神の示しなさるビームの中を歩みたく願います。

・否定面:
闇の仲間にならないだけでなく、闇を告発する:「実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。なぜなら、彼らがひそかに行なっていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。」光の子は、闇の子の仲間入りしないだけでなく、闇に対してはっきりとノーといえる存在で無ければなりません。これは、決して易しいことではありません。私たちは、悪に対して見て見ぬ振りを決め込むことが如何に多いことでしょうか。もちろん、世の悪の全てについて吠え付く犬のような存在であってはなりませんが、ここぞという時、しっかりと理を尽くしてノーを言うことは大切です。バプテスマのヨハネは、ヘロデ王の乱行に対してはっきりとノーを言ったために、首を切られました。韓国における天皇崇拝の強制にノーを言ったアンイスク(安利淑)氏は、投獄され、拷問を受けました。この人々の命をかけた抗議は、決して無駄ではありませんでした。言葉でもってノーを言わなくても、行動と態度を通してノーが言える人間でありたいと思います。
 
3.光の生涯を歩め(13−14節、イラストB)
 
 
「けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。『眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。』」
 
・邪悪さは、光によって譴責される:
「明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。」隠れた罪の行動は、やがてすべて明らかにされます。「覆われているもので、現されないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません」(マタイ10:26)と記されている通りです。厳粛ですね。アップルビー先生からうかがった例話です。お姉さんの人形が欲しくて、そっとそれを盗んで隠してしまった妹が居ました。それを責められて、庭に穴を掘って埋めてしまいました。知らん顔をしていたのですが、雨が降った日の数日後、人形の形で芽が生えてきました。その人形の中身は豆だったからです。

・罪人は、光を受け入れることで光となる:
神の光が心を照らし、罪を示す時、照らされた人が素直に罪を認めて、悔い改める時、その人自身が光の子と変貌すると言っているのです。

・教会の使命は、神の光を照らすこと:
「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」この句は、初代教会の賛美歌の一節と考えられています。霊的に眠っている人に対して、その混迷状態から脱却して、罪を自覚し、神の光を受け入れるように、というメッセージが込められた歌です。
 
おわりに
 
 
・神の光を受け入れよう:
闇の中を歩くゴキブリのような人生ではなく、神の暖かい光の中を歩むものとなりましょう。さらに、私たちに語りかけなさる良心の光に鋭敏に応答するものでありましょう。

・神の光を反映しよう:
神の光を多くの人々に伝達する証の器となりましょう。
 
お祈りを致します。