礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2012年8月26日
 
「賢く歩むとは」
エペソ書連講(23)
 
竿代 照夫 牧師
 
エペソ人への手紙5章15-21節
 
 
[中心聖句]
 
  17   愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。
(エペソ5章17節)


 
聖書テキスト
 
 
15 そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、16 機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。
17 ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。
18 また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。
19 詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。
20 いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。
21 キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。
 
[前回]:光の子として歩む(8−14節)
 
 
前回は8−14節から、「光の子として歩む」ことを学びました。

・私たちの命の源であり、真理を指し示す光である神の光を受けて、
・それを反射しながら歩む幸いに焦点を当てました。
 
[今回]:賢く歩むべきこと(15−21節)
 
 
15−21節の文節のテーマは「賢い人のように歩むべきこと」です。

・賢さ vs 愚かさ:
賢さとは、神の御心を良く弁えて、それに沿った歩みをすることです。反対概念は愚かさです。愚かさとは、知能的な問題ではなく、神の御心を弁えないという愚かさです。

・注意深さ vs いい加減:
パウロは、「賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し」と冒頭に勧めます。「よくよく注意し」(アクリボース)とは、注意深く、正確にという意味です。神の御心を捉えるのに正確であるべきことを示唆します。いい加減とか、大雑把にではいけないのです。さて、賢く歩むことがいくつかの分野で示されています。
 
1.賢く時を使う(時を贖う)(16節)
 
 
「機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。」             .
 
・「時を贖う」意味:
新改訳の「機会を十分に生かして用いなさい。」という言葉は、少し意訳です。文字通りには、「時を贖いなさい(エクスアゴラゾー)」という意味です。この動詞は、買う(アゴラゾー)という動詞に接頭語であるエクス(・・から)を付けて、市場から買い上げてしまうことを意味しています。誰かの手に落ちてしまった自分の持ち物を、金を払って買い戻すという意味です。

・時を贖うべき理由:
それは、次の文章の「悪い時代だからです。」と繋がっています。もっとはっきりと言いますと、今は時というものがサタンの手に陥っているから、そのサタンの手から、或いは自己中心的な用途から「時」を買い戻して、本来の目的である、主の栄光を表す事業に用いるべきである、というのが、パウロの言おうとしている意味です。パウロが生きていた時代は、ローマ皇帝によるクリスチャンへの迫害、ユダヤ人への圧迫(エルサレムが陥落)の可能性が大きくなっていました。さらに、エペソ信徒たちは、圧倒的に多数の不信者に囲まれて生きていました。彼らの一挙手一投足が非難の対象にもなりえたし、証しの道でもありました。そのような「悪い時代」にあって、クリスチャンはどのように振舞うべきか、知恵深く行動しなければならないとパウロは説くのです。大きなスケールでいいますならば、この、悪の力に支配されている現代を神の贖いの力によって作り変えることを祈り、そのために力を尽くすことです。21世紀の私達も、この悪い時代を神の贖いの力によって作り変えるこの気概と気迫を持って時代に対処すべきであります。

・時を贖う行動:
私たちの人生で本当に意味のある時間というのは、神のために、そして神と共に過ごす時間のことです。ですから、自分や誰かのために使って、そのまま流れてしまう時間というものを、神の用途のために使うことがエクスアゴラゾーなのです。今日、皆さんは、時を贖って礼拝式に参加されました。ほおっておきますと、いろいろなことに使われうる私たちの「時」を礼拝や諸集会のために贖うことが必要です。私たちにとって色々な大切な時間の使い方がありますが、主のために共に集まることは最も意義ある「贖い方」であると私は信じます。私達の日常生活に於ける時間の使い方を、無駄なこと、自分の楽しみ、もっと言えば罪の生活の中に使うべきではなく、主の栄光を表すべき使い方をすべきという意味です。
 
2.神の御心を悟る賢さ(17節)
 
 
「ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。」
 
主の御心は何であるかをしっかりと掴むために知恵を用いる必要があるのです。そして、そのことを可能にするのは、御霊の満たしであります。

・一般的な意味で:
神の完全な御心は、そのみ言葉によって示されています。その意味で、み言葉をしっかり学び、み言葉のスピリットが私たちの思いとなるまでに、捉えたいと思います。

・個別的な意味で:
私という個人が、いつどこで何をすべきか、これは個別的な課題です。祈りの生活の中で、しかも、主に従っている人々の勧告も頂きながら、一つ一つ決めていくことが大切です。その際、決して自分の都合・欲得・意地・野心が入ってはなりません。どの道が主の栄光を最もよく表すべきかを慎重に、祈りつつ決めるべきでありましょう。
 
3.聖霊に満たされる生涯(18節):霊的賢さの極致
 
 
「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」
 
御霊に満たされる生涯については、何回かの説教で触れましたので、子の説教ではごく簡潔にポイントを申し上げるのにとどめます。

・酔酒と対比:
御霊に満たされることは、酒に酔うこととの対比で述べられています。人間の心は丁度おもちゃ箱のようにいつも何かに満たされている訳ですが、聖霊に満たされるというあるべき姿を失ってから、それを違ったもので満たそうとしている、その代用品の一つが酒なのです。酒によって、聖霊が本来与えるべき喜びを与えようとしている、とも言えますし、逆に、聖霊による喜びを知ったものにはアルコールは不用なものとなりうるのです。チャドウィックは言いました、「アルコールこそは、聖霊を失った人間が求めた危険な代用品である。」と。

・受身:
明け渡しの結果:これは受け身の形で言われています。満たされなさい、です。私達が一生懸命行動して努力して汲んできなさい、とは書いてありません。満たすお方は神です。私達のなすべきことは、神に対して全面的に明け渡し、待ち望む姿勢です。聖霊は人格的存在であります。私達がキリストを主と受け入れるとき、私達の心に入り、住み給いますが、全部の部屋のカギをお渡しすることが明け渡しです。私達が大事な部分について、ここは自分が支配する、自分が決定する、誰にも譲らない、という部分を持っている限り、お客さんはそこには入れません。聖霊はジェントルマンですから、私達の自由意志を曲げてまで心を占領なさるお方ではありません。私達が「どうぞ」というまで、じっとお待ちの方です。私達の側で、「聖霊なる神よ、どうぞ私の心を治めてください。あなたが命令することは喜んで何でも従います。あなたが行けと仰るところには、喜んで行きます。あなたが止めなさいということは、私の主義に合わなくても止めます。」という白紙委任をすることが大切です。アボット博士の定義によれば、聖霊のみたしとは「聖霊のご人格が信者の人格を所有し、支配し、指導し給うこと」です。

・継続的な経験:
パウロは、聖霊に満たされ続けなさい(現在形)と命令しています。勿論、ある日、ある時に明け渡して満たして頂いたという始まりがなければなりません。使徒2:4はその始まりと見るべきでしょう。使徒2章の場合の満たしはアオリスト時制で、ある転機の瞬間に起こる決定的なものです。しかしこの経験は継続するところに意義があるのです。満たされ続けなさいというのは、満たされる条件を果たし続ける、という事です。具体的に言えば、聖霊と共に歩む関係、交わりを日常のものとすることなのです。この文節が「賢い者としての『歩み』」というタイトルであることには意味があります。まさに、聖霊に満たされた日常生活が大切なのです。

・全てのクリスチャンに期待:
これは全てのクリスチャンへの命令です。エペソ書はエペソにいたクリスチャンだけではなく、全てのクリスチャンに当てられた手紙です。しかも特別な人ではなく、普通の信徒に当てられたものです。聖霊に満たされるのは特別なクリスチャンの経験なのだという誤った考えを持たないでください。これは、人間が創造の時に持っていた本来の姿に戻ることだからなのです。このことは、午後の聖別会で学びます。楽しみにご出席ください。
 
4.賛美にあふれる生涯(19節)
 
 
「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」
 
・聖霊の満たしの結果生まれる賛美:
日本語の聖書では、ここも命令形ですが、原語では、命令形は「満たされなさい。」の一語だけで、他は分詞形です。つまり、「満たされなさい、(その結果)歌いつつ、賛美しつつ、感謝しつつ、従いつつ・・・。」となるわけです。使徒の働きの記録によれば、弟子達が聖霊に満たされたあのペンテコステの時、人々は酒に酔ったのではないかと勘違いをしたのです(2:13)。多くの場合、酒に酔うと人々は歌いだします。カラオケはその好例です。それ以上に、聖霊の満たしは、心に湧きあがる喜びを与えます。この18節以下の賛美の生活も、日常生活の中に、賛美の言葉や歌が自然と出てくるような状態を指しています。

・賛美の種類:
「詩と賛美と霊の歌」とは@節をつけて歌う詩篇、A初代教会で用いられていた定型的な歌、そして、B自然にわき上がるコーラスのことです。パウロはこの様な賛美と感謝の生活は、聖霊に満たされた自然の結果であると示唆しています。

・主に向かって、そして互いに:
賛美は当然、主に向かって捧げられるものですが、パウロがここで「互いに語り」と勧めていることが興味深いですね。賛美の集会で、小さなグループ集会や、祈祷会などで、賛美を共にすることで互いに会話しているというのです。これは集会に出る大きな恵みの一つです。
 
5.全てのことを感謝する生涯(20節)
 
 
「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。」
 
私たちの感謝について、4つの示唆があります:

・いつでも:
環境が良い時も悪い時も、感情的に高揚している時も落ち込んでいる時も、朝も昼も夜も・・・文字通り「いつでも」です。

・すべてのことについて:
私たちが喜ばしいと思える出来事については当然ですが、悲しいと思われる出来事が私たちを襲った時も、すべてのことについて感謝しましょう。貧乏を感謝できるか、病を感謝できるか、災害を感謝できるか、自信はありません。でも、全てのことに、最善をなし給う主を認めたいと思います。

・キリストの名で:
キリストの贖いの故に

・父なる神へ:
言葉に出して、祈りや賛美や証しのかたちで
 
6.互いに思い遣る生涯(21節)
 
 
「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」                  .
 
・キリストに従う心をもって互いに従う:
キリストに従い、聖霊に譲る事ができるなら、それと同じ心をもってお互いに譲ることも容易であるはず、とパウロは言っています。

・家族関係の基礎:
これは、22節から始まる家族関係についての教えの序論とも言えます。これについては、次週に学ぶことにしましょう。
 
終わりに:私たちも「賢く」歩もう
 
 
今私達は、「賢く」歩んでいるでしょうか。それとも、愚かと言われてしまう歩みでしょうか。カギは、どれだけ主の御心を求めながら生きているかです。示された主の御心に従いましょう。さらにもっと主の御心を示して下さるように、私たちのデボーションの生活を深めましょう。
 
お祈りを致します。