礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2012年9月2日
 
「結婚の奥義(ミステリー)」
エペソ書連講(24)
 
竿代 照夫 牧師
 
エペソ人への手紙5章21-33節
 
 
[中心聖句]
 
  31,32   「人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。
(エペソ5章31,32節)


 
聖書テキスト
 
 
21 キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。22 妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。23 なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。24 教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。25 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。26 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。28 そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。29 だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。30 私たちはキリストのからだの部分だからです。31 「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。33 それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。
 
[前回]:賢く歩むべきこと(5:15−21)
 
 
1.賢く時を使う(時を贖う)(16節)
2.神の御心を悟る賢さ(17節)
3.聖霊に満たされる生涯(18節)
4.賛美にあふれる生涯(19節)
5.全てのことを感謝する生涯(20節)
6.互いに思い遣る生涯(21節)
 
[今回]夫婦の関係〈イラスト@〉
 
 

始めに申し上げますが、会衆の中には結婚していない方々もあられます。その方々は、今日の教えは私に取って何の意味も無いと仰らないで下さい。この結論にあるように、パウロは直接的には夫婦関係を言いながら、本質的な課題として、キリストと教会の関係を言っているからです。
 
1.互いの服従が基礎(21節)
 
 
 「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」            .
 
・家族関係の基礎は相互服従:
特に、この第6のポイント「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」が、22節から6:9までの家族関係に関する勧めの基礎となっています。私たちの人間関係における服従はキリストの模範に倣うものです。

・服従の見本はキリスト:
これについてピリピ2:3―8を読みましょう。「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。・・・キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じよ 、になられたのです。キリストは・・・自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」この服従を私たちはキリストに向けるのです。そしてその心をもって互いに従うのです。これが家族の相互関係の基礎です。
 
2.妻の責務(22−24節)
 
 
「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。」
 
・当時の女性の地位:
一世紀のギリシャ・ローマ社会において、女性は尊い一個の人格として認められていませんでした。デモステネスは、売春婦は快楽のため、第二夫人は日常の同棲生活のため、妻は正当な子を設けることと、家事を安心して任せるためと言ったそうです。そのような時代にあって、パウロが、結婚生活の神聖さと伴侶者双方の服従を語っているのは、正に革命的なことでした。

・「従う」恵み:
妻が「キリストに従うように夫に従う」という責務を負っていることは明らかなのですが、これは、21節の「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」という言葉の延長と見るならば、非常に妥当であり、頷けることです。つまり、夫とキリストとを同等の立場においているのではなく、キリストに仕える喜びと恵みをもって夫に従うべきなのです。従うという事は、自分を否定することです。自己中心的な人間は従うことが大嫌いです。そのような人間が、キリストの恵みに溶かされて従うことができるようになるのです。自分の夫を見て、どこがキリストと似ているのだろうかと粗探しをしないで下さい。実際の夫がキリストと似ていようといまいと、キリストに仕えるスピリットをもって仕えるのです。

・夫の優先的立場:
今の男女平等の考え方からすれば、夫の優先権という考えは、正に古い、封建思想に見えることでしょう。しかし、私たちは、時代がどうあろうとも、変わらない神の言葉に立脚して信仰生活を送っています。神の創造の秩序から見ると、夫の優先的立場は始めからのものです。これは、上下関係を意味しているのではなく、役割の違いに基づく秩序の問題です。1コリント11:3に「すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。」と記されている通りです。

・キリストと教会の関係:
キリストは教会の頭です。そして、夫と妻とは、キリストと教会の関係を指しています。その類似の帰結として、パウロは妻が夫を立てるべきこと、その家庭の中での権威・責任を認めるべきことを勧めています。もちろん、夫は妻の救い主ではありません。頭性が似ているだけです。
 
3.夫の責務(25節)
 
 
「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」
 
・愛すること、愛を表わすこと:
妻への義務が「従うこと」であったのに対して、夫の義務はもっと大きいものです。一言で言えば、妻を愛しなさい、という中でまとまります。日本人男性は、愛の表わし方が下手であると感じます。結婚カウンセリングで使っているテキストには、「夫が妻に愛を表わす109の方法」が記されています。一度、恒励会・ナザレ会でそれを紹介したいと願います。

・自分を捨てる献身的・犠牲的愛をもって:
さて、夫が示すべきその愛というのは尋常ではありません。それは、「キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように」という重いものです。つまり、自然の情愛より遥かに勝る犠牲的愛、必要とあれば妻のために自分の死も厭わないような献身的な愛を命じているのです。ウェスレアン注解はこういいます、「教会に対するキリストの愛が全ての移り変わりの中にも絶えないように、妻に対する夫の愛と心遣いは、どのような代価が自分に課せられても一貫していて絶えず真実でなければならない。」世の夫達よ、この言葉は重いですね。しばしば私たちは、相手の姿勢によって自分の愛の不足を正当化しがちです。私が妻を愛せないのは、妻の態度が悪いからだと。しかし、キリストの愛は、そんな要素を乗り越えるものです。

・自己中心の反対:
キリストの、私たちに対する愛は、自分を捨てるものでした。妻は自己中心を捨てて夫に従う、夫は自分のわがままを捨てて妻を愛する、つまり、両方が自己中心を捨てるのです。反対に、両方の自我がぶつかると悲劇ですね。どっちかが折れると苦しいし、どっちも折れないと壊れます。主が恵みをもって私たちの自己中心を砕いてくださるように祈りましょう。
 
4.教会のきよめ(26−27節)〈イラストA〉
 
 
「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」
 
・キリストの贖いの目的:
26−27節は、夫婦関係から少し脱線して、キリストの贖いの目的を記します。「みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするため、・・・しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるため」と。もちろん、この言葉の中に結婚のイメージは続いているのですが、それは、花嫁が清くなるように、という贖いの目的へと思想が繋がります。昨日も結婚式が行われましたが、花嫁さんは、一世一代の衣装を身につけ、また、念入りな化粧を致します。シミやシワが目立つようでは、結婚式らしくありません。衣装係は、一生懸命色々な工夫をしてそれを隠します。或いはレーザー治療でそれを取ってしまいます。同じことが教会という花嫁についても言えるのです。キリストは、私たちの花婿であり、私たち花嫁に対して、純潔を求めておられます。

・贖いを受け取る:
そうは言っても罪だらけの私たちをどうすれば良いのでしょうか。キリストは、ご自分の血をもって私たちの全ての罪、汚れ、シミ、しわをきよめてくださるのです。キリストの贖いの中に、すべての洗顔、整形、美容の全ての要素が整えられているのです。ただ、花嫁側が、そんなものは不要といって断れば、花嫁は汚れ、シミ、しわのまま結婚式に出ることになります。それは私たちも望みませんし、何よりも、花婿に申し訳ありません。クリスチャンのきよめはオプションではなく、花婿たるキリストの要望なのです。キリストを愛するならば、自らを清くする、これは当然のことではないでしょうか。1ヨハネ3:1−2を見ましょう。「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。」きよめなど余り必要が無いと心の片隅にでも思っているとすれが、それは、花婿である主キリストに大変申し訳ない考えです。
 
5.妻の大切さ(28−30節)
 
 
「そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。私たちはキリストのからだの部分だからです。」
 
・妻は夫の「骨からの骨、肉からの肉」:
ここでパウロは、再び夫の妻に対する責務の話題に戻ります。妻は自分の体のようにかけがえのない自分の一部分であり、大切なものだ、というポイントです。創世記2:23に「私の骨からの骨、肉からの肉」とアダムが言ったことと符合します。この表現をもって、夫は妻を人格としてではなく、所有物と看做すという風に誤解しないで下さい。逆です。自分も尊い人格であるから自分を大切にする、だから同じ尊い人格である妻を大切にする、という論理なのです。

・教会はキリストの「かけがえのない」からだ:
それを裏付けるのが30節です。キリストはその体である教会(即ち私たちひとりひとり)を大切に思い、大切に扱っていてくださいます。その思いをもって、夫は妻に接しるべきなのです。
 
6.二人の一体性(31−32節)〈イラストB〉
 
 
「『それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一体となる。』この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」
 
・二人は一体:
「人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」とは、言うまでも無く、創世記2:24の引用です。ここには三つのステップがあります。
@父と母から独立:
精神的に独立することが示唆されます。
A非常に強い絆で永続的に結び合わされる:
これは強力接着剤よりも強くという表現です。一番深い結びつきを示唆しています。二人の関係が永続的であり、強力であることが示唆されます。
B一体となる:
性的な結合を通して肉体的に一つになります。それ以上に、結婚の誓約を通して精神的に一つとなります。性的な結合は、単なる雌雄の交尾ではありません。心の一体の現われです。ですから、不倫が入り込む余地は無いのです。もし遊女と遊ぶならば、それは遊女と一体となるではないか、とパウロは厳しく戒めています。結婚における二人の一体は、それほど深く、それほど神聖なものです。もちろん、互いに異なる人格ですから、一つの人格に融合してしまうわけではありません。でも、比喩的に言えば、三位一体と言ったときに、父と子と聖霊が別人格でありながら、一体であるのと似た一体性が結婚によって生まれます。具体的に言えば、互いの尊敬において、互いの話し合いにおいて、互いの祈り合いにおいて一つとされていき、同じ価値観、同じ目標を持って進むことです。これは本当に素晴らしい関係です。

・キリストと教会:
結婚の奥義(深い意味)は、「キリストと教会」の愛を示す小模型:この別ち難い夫婦の関係を、より深いものとするために、パウロは、もう一度キリストと教会の関係を思い出させます。「この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」奥義ということばは英語ではミステリーです。この場合には深い意味を含んだ象徴と言えます。キリストと教会の深い結びつきは、正にミステリーです。キリストはとことん教会を愛し、そのいのちを捨ててくださっただけでなく、今も教会のかしらとして、教会のために祈り、教会を導き、教会を育てていてくださいます。教会も、キリストを愛し、その全てを捧げてお仕えし、従います。そのミニエーチャー(小さな模型)が家庭なのです。このような家庭に導かれた方はそれを感謝し、環境的にそうでない方は、このような愛の人間関係が何らかの形で形成されるように祈りましょう。
 
7.結論的勧め(33節)
 
 
「それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。」
 
もう一度パウロは、この文節で語ったことを繰り返して、締め括ります。
 
終わりに
 
 
・結婚している人:
その関係を高めよう:私たちの夫婦のあり方を、エペソ5章に照らして、もう一度考え直しましょう。二人がキリストと教会の関係なのだということを再確認したいと思います。現実には、長年連れ添っている伴侶者に対して、苦さ、馴れ、軽蔑、諦めのようなものが混じっている場合も多いのではないでしょうか。しかし、御言に照らし、お互いにフレッシュな愛を確認し、深めていただきましょう。

・伴侶者が未信者である人:
彼(彼女)の救いを祈ろう:伴侶者が未信者という方もあるでしょう。ペテロの言葉に耳を傾けましょう。「妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。」(1ペテロ3:1−2)

・結婚を願っている人:
主に祝福される結婚を求めよう:若い方々に申し上げたいと思います。この世が示す簡単な肉体的結びつき、同棲などによって、この素晴らしい結婚のミステリーを味わい損なうことがないようにしてください。主が祝福してくださる結婚のために真剣に祈って、待ち望みましょう。

・独身の人:
主と兄弟姉妹への愛を深めよう:パウロは、独身で一生を過ごしました。そして、それは専念、キリストに対して愛を献げるためだったと語っています。主に対する心からの愛を捧げ、主に喜ばれる生涯を送りましょう。同時に、教会の兄弟姉妹の交わりの中に、愛し、愛される経験を喜びましょう。
 
お祈りを致します。