礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2012年9月9日
 
「父と母を敬え」
エペソ書連講(25)
 
竿代 照夫 牧師
 
エペソ人への手紙6章1-4節
 
 
[中心聖句]
 
  1   子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。
(エペソ6章1節)


 
聖書テキスト
 
 
(エペソ 6章)
1 子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。2 「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、3 「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です。
4 父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。
(コロサイ 3章)
20 子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい。それは主に喜ばれることだからです。
21 父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。
 
[前回]:結婚の奥義(ミステリー)(5:21−33)
 
 
1.互いの服従が基礎

2.妻は、キリストに従うように夫に従う<イラスト@>

3.夫は、キリストが教会のために命を捨てなさったように妻を愛する

4.教会は、キリストの花嫁としてきよめられる<イラストA>

5.二人の一体性<イラストB>

結婚している人も、そうでない人も、学ぶべき点が多かったことと信じます。今日は6章の親子の関係に入ります。
 
A.子は両親に従う
 
1.「主にあって」:主にある新しい人間関係
 
 
「主にあって」との言葉は、異教的な環境に育ったエペソ信徒たちが、福音を受け入れたものとして、新しい人間関係を構築しようとしていることを示唆します。ローマ時代の親子関係は、結婚・離婚が平気で繰り返される非常に不安定なものでした。そのような中で、パウロは、神に喜ばれる人間関係を構築するようにと勧めます。
 
2「主に従うように」聞き従う
 
 
当時のローマ社会においては、父権が絶対であり、子が父に従うべきという教えは耳新しいものではありませんでした。しかし、パウロは、敢えて母親も含め「両親に」従うように、しかも「主にあって」従うようにと付け加えます。単なる社会習慣を乗り越えた革命的な教えです。母親も父親と同様敬い、従うべき対象と言うのです。それは、主に従うという新しい動機と価値観に基づく服従なのです。ここで使われている「従う」(ヒッパクーオー)とは、良く聞いて従うという意味です。ただ闇雲にイエスといって従う奴隷的服従ではなく、両親の言うことを良く理解し、咀嚼し、そして従うのです。
 
3.正しいこと(主のみ心)だから
 
 
なぜ両親に従うのでしょうか。父が恐いからでしょうか。従わないと処罰されるからでしょうか?ローマ時代の習慣として、両親に従わないものは、文字通り処罰されましたから、服従の動機が、処罰を逃れるためという理由はありえました。しかし、パウロは、もっと高い動機からの服従を示唆します。それは正しいことだから、十戒に示されている主の御心だから正しいと言うのです。更に愛の原則に沿って正しいことだからなのです。両親を愛することは従うことです。
 
4.すべてのことにおいて従う
 
 
併行記事であるコロサイ3:20では「子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい。」と記します。この点は気に入ったから従う、この点は気に入らないから従わない、という選り好みの服従ではありません。全ての点で従うのです。

全ての点とは、全く例外なく、自分の価値判断をいれずに従うべきなのでしょうか。微妙な問題です。例えば、両親が明らかに神の教えに背く命令を行った場合でも従うべきでしょうか。私は、このようなぎりぎりの判断の時には、聖書の別な箇所の教えを適用すべきと思います。「人に従うより、神に従うべきです。」(使徒5:29)もちろん、私は、この言葉は最後の最後に適用すべきもので、やたらに振りかざしてはならないと思っています。
 
5.尊敬をもって従う
 
 
親への服従の土台は、親への尊敬です。いや、自分の親父もお袋も全然尊敬に値しない、などと簡単に切り捨てないでください。どんな形であれ、私たちを生み、育ててくださった親の犠牲を考えると、尊敬に値します。私自身が親になって見て、はじめて親の苦労というものが少しは分かります。私は3人の子供の親ですが、私の両親は8人を育ててくれました。数だけでも、気が遠くなります。その親を尊敬することは人間の基本です。
 
6.大いなる祝福が伴う
 
 
両親への畏敬は、十戒の内、約束を伴った命令の始めです。これは、十戒の第五番目ですが、この命令には祝福の約束が伴います。「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」これは、申命記5:16の引用です。読みましょう「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである。」この文章で「主が与えようとしておられる地で」というくだりが「地上で」と置き換えられているのは、この手紙の読者が異邦人クリスチャンであることを意識しているせいであるかも知れません。それはともかく、私たちはその祝福を計算に入れて両親を敬うわけではありません。それでは打算になってしまいます。ご褒美を目当てに敬うのではなく、主の御心だから敬うのです。その結果が「幸せ」であり、「長い命」なのです。もちろん、両親を敬う全ての人が長命とは限らないことは周知の事実です。これは祝福の象徴として捉えられると思います。
 
B.子に対する両親の態度
 
1.「怒らせない」とは、「気落ちさせない」こと
 
 
「父達よ」とパウロは語りかけますが、当然、これは両親の代表という意味で、母親の責務であることは自明です。「怒らせない」とは、子どもを自由気ままに育てること、甘やかすこと、子どもに媚びることではありません。「怒らせる」(パロルギゾー)とは、文字通りの意味では、「何かによって怒らせる、挑発する」という意味です。英語訳ではirritateしない(いらいらさせない)となっています。コロサイ3:21は、同じ命令の理由として、「気落ちさせないためです」と説明しています。つまり、子どもたちが何らかの理由で「気落ちする」ことが無いように配慮することです。
 
2.子どもを気落ちさせる両親
 
 
では、どのような行動が子ども達を気落ちさせるのでしょうか。

@一貫しない態度:
両親の一貫しない態度です。昨日までこれはいけないと言っていたのに、今日はこれをしなさい、という朝令暮改的な命令もその要素でしょう。また、言っていることとやっていることの不一致も子ども達を悩ませる要素です。

A不当な厳しさ:
不当な厳しさが、子ども達のフラストレーションを齎します。適切な規律は当然必要ですが、愛が伴わなかったり、その規律がやたらにたくさんあったり、それを当てはめるのに厳格でありすぎたりとか、私たちは多くのポイントで子ども達を怒らせてしまいます。実際に、クリスチャンホームの子ども達で、信仰から、教会から離れてしまったケースの殆どは、厳しすぎる親の躾によると考えられます。
 
3.「主の教育」とは、主の心を持っての訓練
 
 
「怒らせない」という消極的な勧めだけではなく、パウロは積極的に「かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」と勧めます。その内容は何でしょうか。「主の教育」(パイデイア=英語訳ではトレーニング)とは、主が願っておられるような教育、主が直接なさるならばこうなさるだろうな、という同じ方向に沿った教育ということです。天のみ父が自らの子らを訓練なさる愛の精神と目的を反映するような公正さ、忍耐の精神をもって訓練することです。また、主が持っておられる権威と優しさの調和、という意味も入っていましょう。
 
4.「主の訓戒」の基準は聖書
 
 
主の「訓戒」(ヌーテシア=心に置くこと、指示、警告)とは、善悪をしっかり教え、しかし、数多くの決まりによって子ども達を萎縮させてしまうのではなく、最低限これだけはしっかりと守って欲しいという基準を繰り返し話して、子ども達がそれに従うようにしつけることです。この言葉に「主の」が加えられていることを留意しましょう。訓戒の基本は「主の御言」です。聖書が両親の歩むべき基準であり、子ども達の歩むべき基準であります。「若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。」(箴言22:6)さらに、家庭で共に御言を読むことは、非常に大切で有意義で楽しい機会です。家庭礼拝ができる環境の方、努めて、この継続に努めましょう。
 
おわりに
 
 
・両親を持っている人へ:
御言のように、真の尊敬と愛と服従を示しましょう。

・親を天に送ってしまった人々へ:
親孝行したいときに親はなし、という諺があるように、目に見える親孝行はできないかもしれませんが、親に対する感謝を表わしましょう。また、親が生きていたならば、こんな期待をしていたに違いないというその期待に沿う人生を送りましょう。

・親である人々へ:
こどもが主の道に沿って歩むことができるように、最大のサポートをしましょう。祈りによって、直接の薫陶によって、また、自分が真実に主に従う模範をもって・・・。
 
お祈りを致します。