礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2012年9月16日
 
「内なる人は日々新たに」
愛老聖日・謝恩日聖日に因み
 
竿代 照夫 牧師
 
第2コリント4章16節‐5章5節
 
 
[中心聖句]
 
  16   ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
(Uコリント4章16節)


 
聖書テキスト
 
 
4:16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。
5:1 私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。2 私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。3 それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。4 確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。5 私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。
 
はじめに
 
 
愛老聖日の朝、多くの方々を迎えて、礼拝をともに捧げる恵みを感謝いたします。普段なかなか礼拝に出席できない方も、今日は頑張ってお出でくださって嬉しく思います。私自身も、遂にというか、やっとというか、昨年11月に古希を迎え、皆様のお仲間に入れていただきました。計ったかのように、今週入院と手術を致しますので、どうしても自分の弱さに直面させられます。そのようなことを考えつつ、しばしば高齢者への励ましとして愛唱されている聖句4:16に注目したいと思います。「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」
 
1.復活の力が背景
 
 
この句は、「ですから」で始まっていますね。という事は、その前の文節を受け継いでいるのです。3章から振り返って見たいと思います。

・3章=栄光に満ちた福音:
3章は、旧約に比べて、新約で保証された福音が、どんなにダイナミックで栄光に満ちたものであるかを活き活きと描いています。特に3:16の言葉が素晴らしいですね。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

・4章=福音が盛られている土器:
4章は、栄光に満ちた福音が、土の器のような弱い人間によって担われているという現実を述べています。パウロは、迫害や反対などに曝されて、呻き苦しんでいる自分の姿を土の器に譬えています。土の器は醜く、脆く、見栄えがしません。しかし、器の中に盛られている宝が、器の貧弱さと対照的に輝いているというのです。「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」(4:7)「この土の器をも」という自伝的小説の中で、三浦綾子さんが光世さんと結婚し、「氷点」が朝日新聞の懸賞小説に入選するまでのことが書かれていますが、「氷点」が入選したという知らせが入った日の夕方、光世さんは綾子さんにこう話したというのです。「綾子、神は、わたしたちが偉いから使ってくださるのではないのだよ。聖書にあるとおり、吾々は土から作られた、土の器にすぎない。この土の器をも、神が用いようとし給う時は、必ず用いてくださる。自分が土の器であることを、今後決して忘れないように。」

・復活の力の経験する:
「ですから」というのは、「何事にも屈しない希望の源泉を復活のイエスに持っているから」という風に敷衍できましょう。土の器は壊れ易いけれども、復活の力が働く時に活性化されるという素晴らしい事実をパウロの体験から語っています。「いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。」(4:10)その希望のゆえに落胆しないのです。その希望は、「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」という勝利の宣言に導きます。
 
2.外なる人が破れる<イラスト@>
 
 
「たとい私たちの外なる人は衰えても・・・」

・外なる人:
「外なる人」とは、肉体という土の器のことです。先ほど触れましたように、人間の命を盛っている肉体を、土器に譬えているのです。

・脆い=朽ちる、滅びる、衰える:
「衰えても・・・」と表現されていますが、この動詞(ディアフテイロー)とは、「完璧に壊す」「完璧に腐らせる」を意味します。その受身で、「完璧に腐る」「滅びる」という意味です。それが現在形ですから、どんどん朽ちていく、といったニュアンスです。新改訳は「衰える」と訳しています。段々年とともに力がなくなっていくというような状況です。実際、私も加齢とともに色々体の機能にガタが来ているのを覚えます。この度の病について、腫瘍がなぜ起きたのかと医者に尋ねましたら、医者は、ひとこと、「加齢です」と言い切りました。細胞がDNAをコピーする正確さが失われ、それが異常な細胞を作り出すのだそうです。さて、パウロはこの手紙を書いたとき、恐らく50代であったと考えられます。平均寿命の短かった当時ではありますが、それでも未だ老人とは言えません。ですから、彼がここで言っている「衰え」は加齢のためというよりも、厳しい奉仕や、迫害に伴う肉体的な加害によって肉体が弱くなり、死に直面する様な状況を指しているのです。

・心の傷:
もちろん、パウロは肉体だけではなく、迫害や困難によって傷つき易い心のことも語っています。4:8−9には、「四方八方から苦しめられ、途方にくれており、迫害されており、倒される」と語っています。肉体の傷よりも、心の傷の方が大きかったことでしょう。

・死に向かっている:
そして、その苦難の先には死がやってきます。パウロは、死を覚悟しなければならないような極限状況を何度も通りました。「確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。」(5:4)とパウロは、その苦しさを表現しています。私たちも、この地上において肉体的な弱さ、環境から来る苦しみ、人間関係が齎す精神的苦悩などなど、沢山の悩みに取り囲まれています。私たちの状況は、パウロほどの極限的なものではないと思いますが、それでも、遅かれ早かれ死の川を越えるときがやって来ます。外なる人が完全に壊れる時です。

「外なる人は破れる」、これはパウロも、そして私たちも避けることのできない現象です。
 
3.内なる人が新たにされる<イラストA>
 
 
パウロは、しかし、「内なる人は日々新にされる」と逆転的発想を展開します。

・内なる人=信仰に生きる者としての霊的存在:
「内なる人」とは、私たちの内面のことです。信仰に生きている者としての霊的存在のことです。神は霊を私たちに与え、主との交わりの窓口とされました。人間の霊とは、人間の中に存在する神の国の代表部(大使館)のようなものです。

・日々新にされる=活ける主との交わりから来る慰めと力づけ:
「日々新にされる」とは、その霊が活ける主の臨在と力づけを日ごとにいただいて、リフレッシュされ続けることです。イザヤは言います、「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上る。」(イザヤ40:30−31)主イエスとの日ごとのお交わりによって新しい力、新しい希望、新しい導きを与えられることです。そして、そのリフレッシュ経験は、私たちの側から言えば、日々主を信頼し、日々愛と信頼の告白を繰り返すことによって生まれます。因みに、鷲は、その羽根を叩きつけて新しい羽根の生えるのを促進するという言い伝えがあります。本当かどうか分かりませんが、面白いイメージだと思います。

・逆境を逆用=「死の経験」を「復活体験」に結びつける:
逆境をリフレッシュの機会とするという捉え方も大切です。パウロは、自分が死ぬほど苦しい経験をずっと通り抜けた人ですが、その「死の経験」こそが、キリストの復活を自分のものとする機会と捉えました。彼は言います、「いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。」(4:10−11)逆境をこのように利用して、主イエスとのフレッシュな交わりを深めるという人に、敗北感はありえません。

・新たなことに挑戦する:
私たちが肉体的衰えを理由に、色々な働きから離れてしまうと、益々衰えてしまいます。マルチン・ブーバーという人は、「人間というのは、新しいことを始めることさえ忘れなければ、老いるものではない」と言いました。私たちが年を取らないためには、新しいことに挑戦することだといったそうです。昨年の愛老聖日では、主が100歳のヨシュアに対して「占領すべき地がたくさん残っている」(ヨシュア13:1)と語られたことを学びました。日々内なる人を新たにするために、何か新しいことに挑戦しましょう。

・栄化への希望によって更新:
「義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。」(箴言4:18)この更新の過程は、キリストの来臨においてその究極の目標に達します。私たちの肉体は日々衰えることでしょう。でも魂はいよいよ輝きを増して、主イエス様との出会いに備えられていくのです。
 
おわりに:主からリフレッシュされる経験の中に歩もう
 
 
日々、私たちをリフレッシュしてくださる主に感謝し、より頼みつつ進みましょう。今私たちが直面している肉体の痛み、弱さ、環境の不如意などなどを数え上げればきりがありません。しかし、オリンピックのアスリートが、訓練の厳しさを耐えるのは、栄冠を目指しているからです。私たちを待っている栄冠を望みつつ、共に馳場を完走いたしましょう。
 
お祈りを致します。