礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2012年9月23日
 
「最後に残るもの」
聖日礼拝
 
竿代 皓子 牧師
 
列王記第二 4章1-7節
 
 
[中心聖句]
 
  2   「ただ、油のつぼひとつしかありません。」
(U列王記 4章2節)


 
聖書テキスト
 
 
1 預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。」2 エリシャは彼女に言った。「何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい。」彼女は答えた。「はしための家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません。」3 すると、彼は言った。「外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも、一つ二つではいけません。4 家にはいったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。」5 そこで、彼女は彼のもとから去り、子どもたちといっしょにうしろの戸を閉じ、子どもたちが次々に彼女のところに持って来る器に油をついだ。6 器がいっぱいになったので、彼女は子どもに言った。「もっと器を持って来なさい。」子どもが彼女に、「もう器はありません。」と言うと、油は止まった。7 彼女が神の人のもとに行ってそのことを知らせると、彼は言った。「その油を売りに行き、負債を払いなさい。あなたと子供たちはその残りで生活していくことができる。」
 
T 導入
 
 
この度は主任牧師の入院、手術と言う私達にとって初めての事態に直面致しました。退院は一応24日となっております。このため本日の礼拝は主牧代行として講壇に立たせて頂きました。皆様のお祈りを心から感謝申し上げます。どんなにか大きな力と慰めを頂いたことでありましょうか。順調に手術も終わり、リハビリの日々であります。患者としては優等生で、最短の速さでの回復ぶりであると主治医がおっしゃって下さいました。今後の予後の為に、続けてお祈り下されば感謝であります。
 
U この物語の背景
 
 
列王記のT、Uは、イスラエルの黄金時代であるソロモンの治世(前970-930)に始まり、イスラエルとユダという2つの王国の繁栄と衰退(アッシリヤとバビロンによる捕囚)まで、(前930−587)を記録しています。

1)歴史的にはダビデ(前1011−971)によって王国が確立され、その子ソロモン(前971−931)がイスラエルの歴史上最大の領土を広げた黄金時代をへて、その子レハベアムの失政により王国が2つに分裂をする。南のユダ王国はエルサレムとその神殿をもってヤハウェを信じる正統的宗教活動を継続できた。しかし、北イスラエル王国はそれに変わるものとして、ヤロブアムT世はダンとベテルに宮を築き、それぞれに金の子牛を安置した。子牛はカナンの肥沃の神、バアルのシンボルでもあり、北イスラエルは深く偶像礼拝に汚染されていくのである。勿論南のユダ王国もソロモン王はじめ異郷の神々を受け入れていくのであるが、しばしば、善王が現れ、宗教改革を行なった。  *ウェスレヤン聖書注解(第2巻 p257)は以下のように列王記について述べている。「列王記は、その記者の心の偶像礼拝に関する洞察によって、あらゆる罪の中でも、最も陰険で,油断のならないものであるこの罪を暴露することで、意義あるものなのである。本書の記者が、両国の滅亡の真の原因と見たのはこれ(偶像礼拝)であって、アッスリヤやバビロンの力が原因だったのではないのである。人々の中に神の国が前進し、拡大するのを真に妨げたのは、また妨げているのは、まさにこれ(偶像礼拝)なのである。」と述べていることに注目したい。

2)エリシャは北王国イスラエルで活動を行なった預言者である。彼は悪名高い北の王アハブとその妻イゼベルとバアル信仰と真の神ヤハウェとの激しい戦いをした師エリヤの後継者に選ばれ、預言者集団の最高指導者となり、50年以上に渡って預言者として活動した(約前850−800)。その仕えた王はアハズヤ、ヨラム、エフー、エホアハズ、ヨアシュの諸王であった。彼はサマリヤに家を持っていたが(U列6:32)国中を駆け巡ってイスラエルの国民と国家の為に労した。その活動は、名もないやもめに対する思いやりの奇跡から国家の将来を左右する重要な軍治的出来事に至るまで、実に幅広いものであった。

3)このやもめのエピソードはエリシャの18ある聖書中エピソードの6番目のもの。

以上の状況から当時のイスラエルは今日の私達とあまり変わらないことがわかります。格差社会です。貧富の差や、宗教的な堕落、弱者達への圧迫、政治的には悪政が続いて居りました。特にヤロブアムT世によって偶像が持ち込まれたことが最悪なものでした。民衆は真の神を礼拝できない状況に置かれていたのです。聖書の記者はこのことがイスラエル王国滅亡の真の原因であると喝破しています。現代の日本も同じではないでしょうか。物質は豊富ですが、病める社会です。それは真の神を恐れないで、色々な偶像を心に持っていることから来る悲劇の数々です。今日、先ず初めに私達の偶像は何であるか考えることから始めたいと思います。内心私達はクリスチャンだから偶像など礼拝していないと思って居られるかも知れませんが。しかし、その問題を今日の「預言者のやもめ」の姿から学んで行きたいと思います。
 
V 主題:最後に残るものー「ただ、油のつぼひとつしかありません。」
 
1)預言者のやもめの直面している困難
 
 
@)彼女が直面している困難は先ず、夫の死です。
伴侶者との永遠の別れとは何という深い悲しみでしょうか。人生最大の試練の一つでありましょう。

A)次に直面しているのは経済的困窮です。
夫の死による経済的困窮は、借金による息子2人が奴隷として売られるという更なる重い困難に導かれています。きっとこの二人の息子達はまだ子供で、青年ではなかったろうと推察できます。家にあるものを全て売ってしまいもう何もなくなってしまった状況です。何と悲惨でしょうか。(借金の形として、奴隷になって売られるのは当時のやり方として正当なことでした。)

B)家族関係の断絶?
彼らは「大家族制度」が普通で、家族は両親子供だけでなく、祖父母、叔父,叔母、従兄弟達たちから成り立っていました。しかし、彼女にはその人々の影が全く見えません。親戚の援助が全くない事は、死別か何らかの事情による孤立があったのでしょう。ここにも彼女の尋常でない困難が伺えます。

C)これらの結果、彼女は唯一、預言者集団の長であったエリシャ(神は救いの意)に助けを求めざるを得なかったことが理解できます。夫は預言者として神に仕えていたのですから。

神に真実な人にも信じられないような困難は降りかかってくることの現実を踏まえたいと思います。もう一つ、私達の困難をだれに訴えるかは大きな差を生みます。彼女は正しい人物を選びました。神の僕エリシャ(神の救いの意)だったからです。
 
2)人生の困難が意味するもの
 
 
@)やもめにとっての困難は「喪失」です。大切な人が、物が、環境が、私達から取り去られることは、大きな痛手を私達に与えます。同じように神は私達に目的を持って「もっと多くの実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」(ヨハネ15:2)の御言葉のように、喪失は主の私達に対するお取り扱いの一つなのです。もっと実を結ぶために、主は生い茂った余計な枝枝を時に切り取られることがあるのです。その大切なものが私達の偶像になっている時には特にそうです。

私は素人ですが、見よう見まねでバラを世話しています。ケニヤにいる18年の間、イギリス人の入植者達がとても安い値段で、苗を売って居りました。ナクルの我が家の庭は色々なバラが植えられ、その世話をしたのが始まりです。本当に経験のあられる方は、ご存知でしょうが、世話が大変です。病気や虫からの守る為、いつも薬を定期的にまかなければなりません。しかし、最も大切なことは枝の剪定です。花が咲き終わると必ずそのままにせず、切り落とします。そして年2回高く伸びた枝を膝くらいの高さにざっくりと切り落とし、余計な枝は全て切り、ほとんど丸坊主にするのです。これをしないと、次に新しい元気な若枝と大きな花が咲かないのです。

私は剪定をしているとき、手には主人からの誕生プレゼントで、バラの剪定用の皮手袋をはめて作業をします。これをしないと棘で手は傷だらけになってしまいます。バラの棘は痛いのはご存知と思います。私はその時つくづく思ったのですが、自分は棘だらけだなぁ、イエス様が私を剪定なさる時、素手で本当に痛い思いをなさったのでしょうと感じたのです。私の棘・・・・色々あります。本当に人を傷つけ、主を傷つけ、又自分自身をも傷つけてきたのです。あの人の側に行くと痛い思いをするから避けようと思われたと思います。私の言葉で切り裂かれた人は何人いたのでしょう。しかし、主はその棘があるからこそ、ばっさりと必要のない枝を切り払われたのだと分かりました。その痛みの最たるものが、十字架だったのだと知るのです。(ちなみに私の主人は棘のない人です!!! これには私は心から感謝しています。)バラの剪定をしながら、私は自分が何度も何度も剪定されてきたと思いました。しかし、感謝なことは、主もともに血を流して居られたということです。涙をながして、痛い思いを何度もしながら、私は決して主から離れませんでした。主の御愛を一度も疑ったことはありません。しかし、自分の失敗や恥は本当に主の前に何度も何度も悔い改めて、進んできました。「喪失」は私達を自分ではなく、神に追いやる主の愛の方法なのです。

A)「喪失」の後に来たものはなんでしょうか。彼女は神に追いやられて、神に助けを求めたことです。神の人、予緒言者集団の長、エリシャにその困難を具体的に訴えています。A)夫の死、B)経済的困窮、C)子どもたちの理不尽な奴隷に売られるという境遇、D)神を恐れている者への不可解な不幸の数々、です。

「あなたのしもべは、主を恐れていました。ところが、・・・・」の言葉に神の彼女に対する取り扱いに不可解な気持ちが表されているように感じられます。神を信じていても、どうして私はこの様な目に会わなければならないのかという不満を持つのは自然です。しかし、彼女は最も正しい人に助けを求めたのです。私達も、最善の訴えるべきお方は神であることを決して忘れてはなりません。
 
3)困難の下にある私達への神の応答を見て行きましょう。
 
 
エリシャの質問に目をとめましょう。「何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい。」(4:2)といって質問しています。これは私達の心からの訴えに対する神の答えと取ってよいでしょう。神は常に私達に「何をしてあげようか。」と答えようと待っていてくださるお方なのです。何と感謝なことでしょうか。

やもめは答えます。「はしための家には何もありません。」(4:2)彼女は、自分は何も持っていないという強い自覚がありました。この何物もないという自覚は大切です。彼女は自分自身も、子どもたちも、親戚も勿論もっとも頼りにしていた夫もあてにする事が出来ない状況に置かれていました。物質的な大きな助けになるものは何もなかったのです。神様はこの様な人間的には絶望的な状況に私達を追い込むときがあります。その様なとき、私達キリスト者は下を向いて嘆いていることは何の解決も起こらないのです。上を見上げて、叫び助けを求めることを神は願って居られます。そのとき神は「何をしてあげようか。」と待っておいでなのです。

この絶望のときエリシャは質問します。「あなたには、家にはどんな物があるか、言いなさい。」といいます。この質問は重大です。ここで初めて彼女は「ただ、油のつぼひとつしかありません。」と、最後に残っているたった一つのものに目が行ったのです。この「油のつぼ」は何を意味しているでしょうか。

私達が生きていくときに、様々な局面に立たされますが、だんだんと世が与えてくれるものの虚しさに気付いてまいります。物では富ではその他如何なるものを以ってしても私達は満たされない心を持っているのです。神は人間をそのように作られたからです。ある意味でこのやもめは、このことを気付くためにこの状況に追い詰められたのかとも考えられます。私達も同じです。色々のものに心の満たしを求めて彷徨います。しかし、それは何度飲んでも乾く水です。永遠に乾くことのない水に私達は到達する必要があるのです。そこで初めて私達にとって最も大切なものに目が向くようになるのです。いろいろなものが全部削り取られて、あなたに残るものは何でしょうか。このやもめは「油壺」と答えています。

クリスチャンになったある時、私達はこのたった一つの「油壺」に心が集中しなければならないように主は私達を追い込まれます。知らないうちに偶像に心が占められていることがあるのです。何年経ってもクリスチャンとしての品性の実が結ばない、教会内での人間関係がギクシャクしている、家庭でも何時までもたった一人のクリスチャンで証が立っていない、色々の不満で喜びのない日々、教会に行くのも重荷になっている後ろめたさ、牧師が気に入らない、ちょっとした人の言葉に傷つく、やたらと批判的な思いがいつも心に浮かんでくるといった心の不毛な状況は、神が剪定されたいと願っているボウボウと伸びている不必要な枝枝ではないでしょうか。このときじっくりと神からの質問に自分にとって真に大切なものは何かを考えたいと思います。神の子とされた私達にとって最も大切なものは何でしょうか。私達にとって全てのものが削ぎ取られても、決して失ってはならにもの目を向けたいものです。それは何物にも変えることが出来ない最善なものだからです。私達も、やもめと同じように「はしための家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません。」と答えることが出来たら幸いです。
 
4)それでは「油つぼひとつ」とは何を言っているのでしょうか?
 
 
「油」は皆さんももうお気付きのように「聖霊」を意味します。すなわち「内住のキリスト」です。やもめにとってのこの「油つぼ一つ」の告白は新約聖書でのガラテヤ2:20の経験である「内住のキリスト」です。

「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」 

自分は無(もはや私が生きているのではなく、)であるという自覚は、「油壺一つ」の告白となってやもめの口から告白されました。存在するのは唯「油」すなわち聖霊です。そのときにこそ「キリストが私のうちに生きておられるのです。」と告白出来るようになります。自分が無となったとき始めて「心の王座をキリストが占めること」を知るようになります。この心の状態を全的な献身或いは明け渡しといいます。主に、自分は駄目ですが、主よあなたに委ねます。宜しくお導き下さいと遜る心の営みこそ、「内住のキリスト」が私を全てコントロールしてくださるのです。この全的明け渡しをしたことがありますでしょうか。この献身を主に対して、はっきりと告白すると、しないとでは天と地の差が出てきます。自分自身が王座に座り続けるか、キリストが王座に座るかの問題だからです。偶像かキリストかの問題だからです。(デニス・キンロー師「エマオの途上にて」9月20日)(マザー・テレサの言葉 ―「サレンダー!(捧げなさい!)そしてキリストと一体になりなさい。」)
 
5)次に全的献身の後の心の営みと成長について見て行きましょう。
 
 
その後の、空の器に油を注ぐ、それも戸を閉めてその作業をするとは何を意味するのでしょか。(4:3−6)

空の器に油を注ぎ続けること、それもありったけの器に注ぎ続けること、後ろの戸を閉じてその作業をすることとは、聖霊との隠れたところでの交わりが営まれることを意味しているように思われます。
 
「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ルカ14:26)
 
「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」(Tコリント6:19)
 
「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」(Tコリント13:13)
 
「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。」(エペソ4:30)
 
この状況から分かる原則は

a)聖霊は注ぐことによって増大していくということ
b)空の器が必要であること
c)満ちるまで注ぐことが必要であることです。

a)ハンナは心を注ぎだして祈りました。ダビデは自分に齎されたベツレヘムの井戸の水を飲むことなく、神に捧げる為に地に注ぎました。「注ぐ」と言う作業は、聖霊との親しい交わりや礼拝を意味します。いとも近しいお方として私達は自分の心に神との祈りによって聖霊の注ぎを受けているでしょうか。それとも、神との交流のない自己中心なこころの営みをしているでしょうか。聖書を通して聖霊との近しい交わりが大切であることを現しています。神の臨在の前にどっぷりと浸り、その愛に感激し、癒され慰められることを知っているたましいは幸いです。毎朝の静思のとき、御言葉をじっくりと味わう時を値高く値積りたいものです。

b)注ぐ為にはそれを受ける空の器が必要です。もし聖霊を受ける側の私達の心が他のもので一杯であるとすると満たされることは出来ません。空になり続ける必要があります。「主よ。私は空しくなってあなたに満たされるのを待っています。聖霊様、私の心を占領して満ちて下さい。」と言う祈りです。空になることとははっきりと言って自己否定と言い換えることが出来ます。 *ここで面白いのは空の器を子どもたちが持ってくると言うところです。私も子育てを致しましたが、本当に自分を謙遜にしてくれたのは子育てを通してのことが、多かったです。皆さんも自分の一番身近にいる人物が私達を謙遜に「空の器」にしてくれているのではないでしょうか。*例―職場に息を一緒にするのも嫌な位に嫌いな人がいたある姉妹の証―クリスチャンの友に祈ってくれるように頼んだところ、今はなんでもなくなったとのこと!

c)成長の最終目標はキリストのようになることです。
 
「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」(エペソ3:19)
 
「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」(エペソ4:13)
 
「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。」(コロサイ2:9)
 
以上のみ言葉から私達が聖霊と交わって、成長していく最終目標はキリストのようになることです。キリストの品性が私達の人格となるまでその成長は止められてはなりません。途中で、とても駄目だわと思うことがあっても決して諦めてはいけないのです。その成長の御業を為してくださるのは、私達ではなく、神の側の御業だからです。これが分かると本当に楽になります。自分の努力ではなく、聖霊の御業の結果としての結実、成長なのですから。私達は単純に信じ、従い続けるだけでよいのです。「信仰」であって、「努力」ではないのです。

教会の中で大変「霊的な」言葉や思想をおっしゃる方が居ます、又そのように人々にもあの人は霊的な人だといわれますが、なんとなく努力がチラチラと見える場合があります。本人は一生懸命ですが、なんともその人と接していて、「キリストの香り」がないのです。キリストのやわらかさ、キリストの暖かさ、キリストの明るさ、キリストの肌合いが感じられないのです。堅さや堅苦しさを感じてしまう場合があります。かく言う私自身も反省するのですが、それは本当に自我が細かく磨り潰された経験がないからではないでしょうか。本当に主の前に「もはや私がいきているのではなく」という事のためには、主はある人々にかなり厳しい訓練をなさる場合があるのです。
 
「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」(ヘブル12:11)
 
は、真実です。もし、この中に厳しい訓練の中に居られる方がいらっしゃいますれば、喜んで下さい。神はあなたを特別な子として扱っておられるのです。そのような方は、教会では目立たないかも知れませんが、美しい品性を持って人々の祝福となっているのです。その人はキリストの品性は自分の努力ではなく、「信仰」によって実っていく事を知っている人です。ですから、私達は謙遜にさせられます。人間の努力は「キリストの香り」を放つことは決してないからです。単純になりましょう。信じましょう。そのよう人は失敗をしても、頭をコリコリとかいて、ニコニコと次に進める人です。いい訳も一切しないでしょう。なんと楽な行き方でしょうか。ですから、自由なのです。「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」(Uコリント3:17)

私達はこの自由を味わっているでしょうか。「信仰」がこの自由を与えてくれます。失敗に煩わされることなく、キリストに似た品性へと成長させていただきましょう。

最後にこのやもめのお話は経済的祝福で終わっています。まさにマタイ6:33(だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。)のお約束の実現です。

この様な「砕かれて輝いた」クリスチャンが、求めている人々へキリストを紹介させていただける真の証人です。