礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2012年9月30日
 
「『奴隷』として仕える」
エペソ書連講(26)
 
竿代 照夫 牧師
 
エペソ人への手紙6章5-9節
 
 
[中心聖句]
 
  7   人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。
(エペソ6章7節)


 
聖書テキスト
 
 
5 奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。6 人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行ない、7 人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。8 良いことを行なえば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています。
9 主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい。おどすことはやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから。
 
はじめに
 
 
今日は奴隷と主人についてのパウロの教えです。「奴隷たちよ」という始まりから、一体これって何?と引けてしまう人も多いのではないでしょうか。この勧めは現代にも適用される大切なものですが、まずその背景を学びます。
 
A.ローマ社会での奴隷(イラスト@)
 
 
1世紀のローマでは、その人口の3分の1が奴隷であったといわれています。そして、奴隷は社会のあらゆるところで活躍しており、社会を支えていた大切な労働力でした。その概要をお話します。

 
1.奴隷にされた人々
 
 
・戦争に負けた兵士:
ローマは、その支配を広げていく数々の戦争で、敗者の多くを奴隷としました。その子孫達も、奴隷の身分を引き継ぎました。

・借金肩代わり:
払いきれない借金の代わりに、自分を奴隷とするもの、家族を奴隷とするものもいました。

・私生児:
正式な結婚によらないで生まれた子供たちの多くは、奴隷として取引されました。

・刑事罰として:
犯罪を犯し、その罰として奴隷となる者もいました。
 
2.奴隷の仕事
 
 
・家事:
ローマの上層階級は、その家の中に多くの働き人を抱えていましたが、その内の多くは奴隷身分でした。しかし、彼らもかなりの尊敬と自由を与えられておりました。

・家庭教師:
家庭教師奴隷は、主人の子供に体罰を与えることも許されていましたし、奴隷の子供が主人の子供と机を並べて勉強することさえありました。その奴隷家庭教師の内私たちに最も知られているのはイソップです。

・家庭医師:
奴隷で医学を志す人には、医師の資格も与えられました。でもそれは家庭内のことで、家庭を離れて医師の正式資格を得ると、奴隷身分も終わるという法律もありました。

・肉体労働

・兵隊の補助:
有名なのは、ガレー船の漕ぎ手です。

・公務員、警察官、商売など:
そのほか、公務員、警察官、商売などにも携わっていました。
 
3.奴隷の地位
 
 
・こき使われることはない:
「アンクル・トム」のようにこき使われることはなかった

・20年前までの「南アフリカ」であったような差別もなかった:
ローマ人の楽しみの一つである公衆浴場にも、自由人と同じ値段で自由に入ることができました。

・基本的人権はなし:
でも、基本的人権は認められていなかった
 
4.奴隷たちと教会
 
 
・教会には奴隷たちも喜んで集まった:
奴隷であろうと自由市民であろうと、主の前には平等という教え(1コリント7:22、ガラテヤ3:28)が奴隷たちを引き付け、多くの奴隷たちが集った。

・新約聖書の勧め:
新約聖書は、奴隷制度を「すぐに」やめなさいとは言わなかったが、奴隷を人道的に扱うことを主人達に勧めている(ピレモン8,14)

・キリスト教が広まり、奴隷制度も消滅:
キリスト教が広まり、ローマ世界の奴隷制は4世紀ごろ消滅

このように見ると、パウロが「奴隷たちよ」と教えていることでびっくりしなくなりましょう。奴隷と主人の関係は、現代で言えば労働者と資本家、生徒と先生、その他社会の仕組みにおいて、上に立つ人と、それに従う人との関係にあてはめることができます。ですから、この教えは大切なのです。
 
B.奴隷は主人に従う
 
 
奴隷たちが従うべきことが、いくつかの形容詞で示されます。
 
1.「キリストに従うように、恐れおののいて」
 
 
・罰への恐怖ではなく、キリストへの畏敬:
この「恐れおののいて」という言葉は、従わないと叱られたり、罰を受けることを恐れてびくびくするという意味ではありません。そうではなく、並行記事であるコロサイ3:22には「主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。」と、恐れる対象が主であることを示唆しています。

・主を尊敬する人は、人も尊敬する:
5:21では「キリストに従うように互いに従いなさい。」という基本的な教えを述べられていますように、」キリストへの畏敬がある時、それは自然的に、地上の主人への畏敬となるものです。神には従うが、地上の上司には反抗的であるというような在り方は(特別な例外はありましょうが)、通常の場合にはあり得ません。
 
2.「地上の主人たち」に従う
 
 
・天国では、主人がいなくなる:
ここでパウロが「地上の主人たちに」と言って主従関係が地上的なものであることを強調しているのは意味深いことです。なぜなら、地上における上下関係は天国まで続くものではないからです。考えても見てください。天国において、おーいお茶を持ってこい、などと言うボスがいる筈がありません。感謝ですね。

・地上では、従うべき秩序がある:
教会の交わりにおいて、奴隷も自由人もなく、ギリシャ人もユダヤ人も、男も女も上下関係はありません。同じ仲間です。しかし、だからと言って、社会において大会社の社長として尊敬されている人を、昨日受洗したばかりの若いメンバーが、〇〇兄弟と呼び始めたらちょっと聞き苦しいですね。確かに、主にあって兄弟姉妹なのですが、これは、常識に属する問題です。
 
3.「真心から」従う
 
 
・純粋な動機で:
主人の益のためを思って仕える=「真心から」というのは、自分の都合や利益と言う入り混じった動機をもって仕えるのではなく、主人の喜びと益のためだけを思って仕えることです。主人に仕えるときは、正直さをもって、全身全霊をもって務めを果たすべきなのです。

・アイ・サービスではなく:
アイ・サービス(人が見ている時だけ働く)ではなく=真心で、という言葉を裏返しに言うと「うわべだけの仕え方でなく」ということになります。この言い方は、とても面白い言葉で、「人間を喜ばせるアイ・サービスではなく」という言葉です。人を喜ばせるために目に仕えるのではなく(Not with eye-service, as men-pleasers)とパウロは釘を差します。アイ・サービスとはパウロの造語です。序ながら、似た言葉にリップサービスという言葉がありますね。多くの奴隷は、主人が見張っているときは働き、見ていない時は、出来るだけ手を抜くことが常識でした。今でも、この精神は変わりませんね。学校の先生がいるときにはまともに振舞い、いなくなるとでたらめをするというのは学校の生徒には当たり前です。上司の見ているときは働いているふりをするが、いないときには適当に手を抜く、というのもサラリーマンの常識かもしれません。パウロはそれらの常識に挑戦しているのです。全てを見ておられる、主を意識し、主に仕えるように、心から仕えなさいと説きます。
 
4.主からの報いを信じて
 
 
・主は良き行いに報いてくださる:
「夫々その報いを主から受ける」と記されています。主に仕えるような心をもって奉仕する時、人が認め、報いを下さらなくても、主がこれを認め、報いを下さる、それで十分ではないでしょうか。それは、「奴隷であっても自由人であっても」同じ事で、コロサイ3:23にも「(従う時)主からの報いとして、御国を相続させていただく」と記されています。

・不正も、報いを受ける:
反対に、「不正を行う者は、自分が行った不正の報いを受けます。」(コロサイ3:24)と、いい加減な仕え方をした人は、その不正によって裁きを受けるのです。キリストも、マタイ16:27に、「(人の子が来られる)その時には、おのおのその行いに応じて報いをします。」と警告しておられます。
 
5.オネシモの例(ピレモン書)(イラストA)
 
 
さてここで、エペソ書と同じ時期に書かれ、届けられたピレモン書から奴隷と主人の麗しい関係の実例を見たいと思います。パウロがローマの牢屋で書いた4つの手紙の内エペソ、コロサイ、ピレモン各書は同じ運び屋さんによって配られました。そのピレモン書の主人公は奴隷オネシモです。

・ピレモン家の奴隷オネシモ:
主人の金を盗んで逃亡(18節)=コロサイの町のピレモンと言う家に、オネシモと言う奴隷がいました。彼は仕事に飽きたのか、ご主人の金を盗んで逃げだしました。これは二つの犯罪です。一つは窃盗罪(盗み)、もう一つは逃亡罪、特に後者は重罰が予想されました。

・牢屋のパウロを訪ね、救われる:
(10節):オネシモは、田舎から首都ローマに逃げました。ここなら、大勢の人がいるから見つからないだろう、それに、楽しいことは一杯だし、と思ったのです。実際そうでしたが、放蕩息子のように、お金を使い果たしてみると、何とも心細くなってしまいました。丁度そのとき、パウロと言う人が牢屋にはいっているという噂を聞きました。「あのパウロ先生かな?」と好奇心が湧きました。ピレモンの家庭集会でパウロ先生がお話しなさる時、オネシモも一緒に座らさせられて、早く集会が終わらないかなと考えながら、でも、パウロ先生の熱心さには感心しながら聞いていたことを懐かしく思い出しました。オネシモは思い切ってパウロの牢屋を訪ねました。牢屋とはいっても、普通の家です。違いは、番兵がその周りにいることくらいです。番兵の許しを得てパウロの家に入って、自分の悪いことをすっかり話しました。パウロは、主イエスを信じなさい、そうすれば救われますと話しましたので、オネシモは主イエスを救い主として受け入れ、クリスチャンとなりました。

・役立つ人間になってパウロを助ける(11―12節):
クリスチャンとなったオネシモは、嬉しくって、パウロ先生のお手伝いをするようになりました。お使い、そうじ、洗濯、炊事などです。パウロもすっかり気に入って、このまま助手にしたいと思うほどでした。

・ピレモン家で奴隷として仕える決心をする:
でもパウロは考えました。こんなことを主人のピレモンの許しなしに続けてはいけない、いや、むしろピレモンの許に返そうと思いました。でも、このまま返したら厳しく罰を受けることは目に見えていました。それが分っていても、オネシモは悔い改めを表そうと、返る決心をしました。そこでパウロはオネシモに手紙を持たせたのです。
 
C.主人のつとめ
 
 
奴隷に対して従うことを勧めたパウロは、今度は主人に向かって「正義と公正をもって」奴隷に接するように(コロサイ4:1)と勧めます。
 
1.(奴隷が主人に仕えるのと)同じ精神で
 
 
・奴隷が良い精神で仕えやすい環境:
「同じように振舞いなさい」とは、奴隷が主人に仕えるのと同じ精神をもつべきことを示唆しています。主人の側でも、奴隷が良いスピリットで主人に仕えられるような環境を整えるべく、配慮をもって奴隷に接しなさいということなのです。

・奴隷に対する尊敬をもって配慮する:
奴隷が主人を尊敬して従うのと同じように、主人の方も、奴隷を人格として尊敬して配慮すべきです。
 
2.おどかさない
 
 
・行き過ぎた厳しさは、恨みを買う:
パウロは、おどかしや激しい言葉や態度は、一時的に奴隷を従わせうるかもしれないが、彼らが心から従うように導かない、と言います。当然ですね。びしばしと厳しい上司は、従う人の恨みをため込みます。その恨みはいつか爆発します。丁度、小田信長が本能寺の変で明智光秀に襲われたことがその適例です。

・奴隷の尊敬を勝ち取るような公正さが必要:
厳しさは必要ですが、それは公正さを伴ったものでなければなりません。その時初めて奴隷からも信頼を得ることができます。
 
3.共通の主を仰ぐ
 
 
・謙り:
奴隷も主人も、キリストを「主」と仰ぐ=この思想は、主人たる者に謙りを教えます。主人も、会社の社長も、絶対君主ではありません。全ての人は、主キリストに仕えるしもべです。この謙った意識が全てのリーダーにも必要です。最近、サーバント・リーダーという言葉が良く使われますが、このサーバントは、第一義的には社員に仕える社長と言う意味ではなく、主に仕えるものとしての謙りをもってという意味です。

・公平:
人を差別しないで公平に扱う=「彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っておられるのですから。」とありますように、神が人を差別なさらないように、差別心なく、全ての人を公平に扱うことを教えます。

・正義:
自分の正義ではなく、神の正義を受け入れる=並行記事であるコロサイ4:1は、「自分たちの主も天におられることを知っているのですから、奴隷に対して正義と公平を示す」べきと勧めます。自分が正しいという驕りではなく、神の正義と基準を自分も守り、奴隷に対しても適用すべきことが勧められます。とかく、上に立つと自分が正義と思ってしまう人が多いものです。警戒しましょう。
 
4.ピレモンの例(ピレモン書)<パウロのお願い>
 
 
さて、ここでピレモン書に戻ります。主人であるピレモンに対して、パウロは何をお願いしているのでしょうか?

・オネシモに対し、自発的な親切を示すように(14節):
パウロは、自分とピレモンの関係は、先生と生徒のようなもので、パウロはピレモンに命令することもできるのですが、それをしないで、お願いするという態度を取ります。それは、オネシモへのピレモンの親切が命令されたものでなく、自発的であるようにとの願いからそうしたのです。

・「兄弟」として受け入れてほしい(16−17節):
その内容は、脱走したオネシモを「キリストにある兄弟」として受け入れてほしい、なぜなら、オネシモは牢屋の中で救われ、パウロやピレモンと同じクリスチャンとなったからというのです。ピレモンが本当のクリスチャンならば、それが分るはずだという期待から来ています。

・オネシモの借金はパウロが返す(18−19節):
パウロはオネシモの盗みについて、オネシモは返すつもりだが、今は返せない、私が代わって返すから、負債を帳消しにして欲しい、私はもうすぐ牢屋から出るので、まずあなたを訪問し、その借金を返します、と約束するのです。

この物語は、パウロがエペソ書で勧めている奴隷と自由人がお互いにどうあるべきかを示している素晴らしい絵だと思います。
 
終わりに
 
 
1.どんな意味でも(社会の仕組み上)「上に」立つ人々へ:
自分が本当の意味では上ではない、自分のボスはキリストであり、自分はこのお方に従っているという謙りをもって、仕える人々に接しましょう。

2.仕える人をもっている人々へ:
仕える対象がどんなに分からず屋でも、情けない人でも、厳しすぎる人でも、意地悪でも、尊敬に値しないように見える人でも、その人をキリストの代理人と思って心から愛し、仕えましょう。主の恵みがそのことを可能にして下さいます。

3.全ての信仰者へ:
私たちはキリストの(愛による)奴隷です。喜んで奴隷となり、また、すべての人にしもべとして仕えましょう。
 
お祈りを致します。