礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2012年10月7日
 
「主によって強められなさい」
エペソ書連講(27)
 
竿代 照夫 牧師
 
エペソ人への手紙6章10-13節
 
 
[中心聖句]
 
  10   主にあって、その大能の力によって強められなさい。
(エペソ6章10節)


 
聖書テキスト
 
 
10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
11 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
 
はじめに
 
 
前回は、キリストにある人間関係の最後として、奴隷と主人との関係を扱いました。今日のあらゆる関係に当て嵌まる大切な学びであったと思います。さて、いよいよ、エペソ書も最後のコースに向っています。パウロは強くあれと締め括ります。

今回は、「強められなさい」との勧めに集中したいと思います。
 
1.強められる自分:弱さの中にある(10節)
 
 
「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。」
 
・「終わりに」=戦闘モードに入る:
今までパウロは、教会とはキリストの体であると語り続けてきました。教会は、自己充足的な集まりではなく、この世とその背後にあるサタンに対して戦いを挑む戦闘集団なのだ、そして、キリストが勝利者であったように、キリストの体も勝利者であるべきなのだという強調をもってこのエペソ書は締め括られます。今まで述べてこられた教会の理想の姿は、「勝利の教会」(チャーチ・トライアムファント)であり、現実の教会は「戦闘の教会」(チャーチ・ミリタント)である、という捉え方は宗教改革者によってなされてきました。正にこの部分では、戦闘モードの勧めです。

・弱いから強められる:
「強められなさい」のギリシャ語はエンドュナムーステで、エンドュナモオー(しっかりと強める)の受身・命令形です。一般的に、「強くあれ」という命令は理解できます。オリンピックで3回も金メダルを取って国民栄誉賞を貰ったレスリングの選手が、もっと強くなるために練習するという事は自然です。しかし、パウロは、エペソ信徒たちに向って、「あなたがたは強いからもっと強くあれ」とは、言わずに「強められなさい」と命じます。言うまでも無く、それは、彼らが元々は弱いものだという認識に立っているからです。いや、むしろ弱いということに徹しているからこそ、この命令の余地があると言えましょう。私自身、昨月の病と手術を通して、人間とは弱いものだということを厭というほど味わいました。私たちは肉体的にも、精神的にも、霊的にも、本当に弱いものです。だからこそ、「強められる」必要があるのです。パウロは、信仰的に強められた例としてアブラハムを挙げています。アブラハムが子どもを持つことに絶望的な状況にありながら、「神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって(強められて)・・・」(ローマ4:20)神の約束を信じる信仰に立ったことを記しています。さらに、彼は、厳しい環境にありながら、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4:13)と告白しています。私たちが頑張って強がるのではありません。主によって強められるのです。

・主にあって=キリストとの個人的関係が強められる源泉:
「主によって」という意味を込めて、パウロは「主にあって」と言います。信仰者が持つことのできるキリストとの個人的関係が「強められることの」源泉です。自分の弱さを深く自覚し、主により頼むとき、私たちは強くなれるのです。2コリント12:9には、「私(主)の力は、弱さの内に完全に現れる」と語られています。また12:10には、「私が弱いときにこそ、私は強い」というパウロの告白も記しています。旧約聖書で、「主によって奮い立った(直訳=自分を励ました)。」例があります。ダビデは、自分の部下の反抗的態度で「非常に悩んだ」けれども、「彼の神、主によって奮い立った(直訳=自分を励ました)。」(1サムエル30:6)と記されています。「彼の神、主によって」というところが私の心に留まり、年会聖会で一度説教いたしました。この時のダビデは、敵に襲撃され、彼とその部下たちの家族も財産もそみな奪われ、「ダビデも、彼といっしょにいた者たちも、声をあげて泣き、ついには泣く力もなくなった。」ほどでした。それで終わらず、助けてくれる筈の部下達から石打ちに遭おうというところでした。しかし、ダビデは「彼の神」によって、つまり、個人的に自分の神として捉えていた神によって、自分を励ましたのです。

・大能の力によって:
「大能(イスキュオス)」とは、内在している能力のことです。「力(クラトュス)」とは、神に関してだけ使われる言葉で、力の現われを指します。神の中に秘められている大きなエネルギーがキリストの復活に表れ、そして、私たち信仰者にも表れるのです。1:20には、「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ・・・」と語り、1:19には、「神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」とエペソ信徒たちがその力を経験するように祈ります。キリストの復活に現れたその全能の力が信じる者にも及び、それを私たちの実生活の面で体験できるようにという祈りです。6:10は、その祈りと繋がっています。
 
2.強められる必要:サタンは手ごわい(11−12節)
 
 
「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」
 
10節に強くあれと命じられているのは、私たちは戦闘の真最中であり、その相手は非常に手強いサタンとそれに味方する勢力だという自覚の故であります。それが、11―12節に語られています。

・悪魔に対抗:
新約聖書は、悪魔の実在とその働きについて繰り返し語っています。悪魔はおとぎ話的な存在ではありません。現実に存在し、神の業を壊し、邪魔をする大変厄介な存在です。さて、「悪魔」という言葉は、「訴えるもの」という意味を持っています。悪魔とサタンは同義ですが、「サタン」は、敵という意味です。神の敵として存在しているサタンは、人を滅ぼすものという目的意識を持って活動しています。

・策略に対抗:
「策略」とは、軍事的な用語で、戦略(ストラテジー)という意味です。信仰者をあの手この手で追い落とそうとする悪魔の巧妙で、執拗で、強力な働きかけを示します。その一例が2コリント11:3に言及されています。「蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。」と、信仰者のキリストに対する忠誠を揺るがそうとします。そして、その方法の巧みさは、同じ11:14に「サタンさえ光の御使いに変装する」と記されているほどです。1ペテロ5:8には、「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」とも記されています。全く油断なりません。

・格闘する:
パウロは、このサタンと格闘すべきと言います。ローマにおける闘技場での戦いを思わせる言葉です。相手は生易しい相手ではありませんから、全力を込めての戦いが必要なのです。

・サタンの王国:
私たちの相手は目に見える者ではなく(血肉が相手ではなく)「主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するもの」です。この世の暗黒の隅々にまで勢力を伸ばし、それらを総動員して信仰者と戦おうとしている者達との戦いです。当然、その背後には、ドンであるサタンが君臨しています。この世の政治にも介入して、その支配を広めようとしています。それがサタンの手下である「悪霊達」の所業です。私たちは、世界政治の中にも、日本政治の中にも、はたまた私たちを取り巻く小さなコミュニティにも悪霊の存在を見極める洞察力をもつ必要があります。もっと言えば、教会の中にすら「主のために」というスローガンに隠れて自分の肉を喜ばせようとする動きは存在しえます。主イエスは、忠義立てをして、自分の十字架を妨げようとしたペテロに対して「サタンよ、退け」と一喝されました。その鋭い観察眼は私たちにも必要です。
 
3.強められる方法:神の武具を取る(11、13節)
 
 
「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。・・・ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。」
 
・素手では戦えないほど相手は手強い:
敵の手ごわさを考える時、パウロは、裸では勝てないと知っていました。

・だから、重装備で戦う:
次週に=神の与えなさる全ての防御的な、また、攻撃的な武具を身につけるべきなのです。その時彼の目に映ったのは、彼を見張っているローマ兵の姿でした。その一つ一つの武具を霊的な戦いの武具に当てはめているのです。その詳細については、次回に学ぶことに致しましょう。

 
終わりに
 
 
・弱さをありのまま告白しよう:
その弱さを自覚するだけでなく、主の前にその弱さをありのまま告白しましょう

・神の全能の力に信頼して戦おう:
特に、キリストの復活を齎した神の全能に信頼し、そのみ力を頼って進みましょう。
 
お祈りを致します。