礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2012年11月25日
 
「神の物語」
会堂感謝礼拝に臨み
 
竿代 照夫 牧師
 
イザヤ書26章1-3及び12節
 
 
[中心聖句]
 
  12   主よ。あなたは、私たちのために平和を備えておられます。私たちのなすすべてのわざも、あなたが私たちのためにしてくださったのですから。
(イザヤ書26章12節)


 
聖書テキスト
 
 
1 その日、ユダの国でこの歌が歌われる。私たちには強い町がある。神はその城壁と塁で私たちを救ってくださる。 2 城門をあけて、誠実を守る正しい民をはいらせよ。 3 志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。
12 主よ。あなたは、私たちのために平和を備えておられます。私たちのなすすべてのわざも、あなたが私たちのためにしてくださったのですから。
 
テキストの意味:平和建設のため人が行った働きを超えて、神が働き給う
 
 
会堂に関わる主のみ業の跡を、ビデオを通し、会計報告を通して伺いました。私の心にある御言は、イザヤ26:12です。「私たちのなすすべてのわざも、あなたが私たちのためにしてくださったのですから。」

この言葉を発した預言者イザヤは、エルサレムがアッシリヤに囲まれるという国難に直面していました。イザヤは難攻不落と言われたエルサレムの町自体が民を救うのではない、神を避け所、とりでとする信仰が彼らを救うと言いました。「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。」(3節)とあるとおりです。イザヤは平和のために行なった人間の行動を否定はしていません。その重要性を重々認めつつも、尚、それらは、皆主が行なってくださったのだという信仰的理解を持っていました。人の業を背後にあって導き、成功に導くのは神ご自身なのだ、それは全ての人間の行動について言えることだ、と言うのです。その信仰の告白として、私たちの会堂に関わる、「神の物語」、もっと言いますと、神の不思議なみ業に思いを巡らし、感謝を捧げたいと思います。
 
 
[ 会堂に関わる神の働きの物語 ]
 
1.丸の内教会の出発(1948−1973)
 
 
・廃墟の中からインマヌエルが誕生:
1945年、終戦の年、インマヌエル綜合伝道団は、船橋市で呱々の声を上げました。船橋教会が確立するに及んで、初代総理・蔦田二雄先生は首都に進出することを決定しました。

・ゼロから信仰で丸の内への進出(1948):
会堂がある訳ではなく、丸の内の一角の交通協会ビルを日曜日ごとに借りて集会を行う形の出発でした。正にゼロからの信仰によるスタートでした。終戦後間もない頃のキリスト教ブームもあり、積極的な伝道には、今では信じられないほどの群衆が集まりました。特に両国メモリアルホール(今の国技館)での映画伝道会には、入りきれないほどの人々が集まり、そこで信仰の決心をした人々が、丸の内教会の中核となりました。

・日本と世界の宣教をめざす教団の中心的教会として成長:
その後、120の教会を全国に生み出し、海外に宣教師を送り出す教団の中心教会として大きく貢献していきました。

・「借り物」集会場が課題:
教会は成長していきましたが、課題は借り物の集会場でした。交通協会ビルは、近代的な新国際ビルとなり、その9階のホールが引き続き使用可能でしたが、いかにしても「借り物」であるという制約は深刻で、自前の会堂を持ちたいという願いが、1967年頃、恒励会の有志による「会堂問題祈祷会」の発足となりました。何の進展も無いままでしたが、信仰の祈りが欠かすことなく続けられていきました。

・初代牧師の召天(1971):
蔦田二雄先生も、会堂獲得を祈りつつ備えておられましたが、1971年、病を得て会堂の実現を見ないまま召天されました。その志を受け継がれたのが、第二代主任牧師の蔦田眞實先生でした。
 
2.広尾への移転と発展(1973−2003)
 
 
・広尾の修道院を獲得:
1973年、広尾にあるカトリック修道院が売りに出されているという情報が入り、祈りと検討がなされていきました。役員会(当時の補佐幹事会)だけではなく、今は恒励会の長老級の方々が若かりし頃のナザレ会においても徹夜の祈りと検討が続けられました。

・「紅海が二つに」:
総額約3億円というプロジェクトは当時の物価から言えば、驚くほどの金額でした。しかし、当時の役員はじめ会員一同は、信仰をもってこれに取り組むことを決議し、予約献金が始まりました。蔦田眞實先生の表現によれば、3億円という積み木ブロックがバラバラと崩れ、正に二つに分かれた紅海を歌いつつ渡ったイスラエル人のように、1973年9月、広尾の会堂に「入城」しました。

・修道院建物の増築:
修道院には小さい部屋はたくさんありましたが、大きな会堂がありませんでしたので、1976年、会堂部分を増築いたしました。近隣の反対運動が起きたり、大変な戦いでしたが、神は驚くような方法でそれを乗り越えさせてくださいました。主の聖名を賛美いたします。その後、銀行からの融資金を返済する戦いは、中目黒の戦いの比ではなく、毎月呻くような祈りの戦いでしたが、最終的にこれを完済させてくださいました。この戦いが、中目黒会堂のプロジェクトの基礎となったことは、私たちが決して忘れてはなりません。

・積極的な伝道:
広尾に移転した時に、教会名が主都中央教会となり、それに相応しい伝道活動が続けられました。よみうりホールでの特別集会、恵比寿駅前の路傍伝道などがその象徴であったと思われます。

・「2003年」問題:
主都中央教会が30年の活動を行なっている最中に起きたのが「2003年問題」でした。広尾の土地はお寺さんの借地でありましたので、高い地代の重荷がありました。近隣の反対運動は下火になりましたが、以前燻っていました。古い建物部分を建て直す事もかなり困難が見込まれました。借地契約が終了する2003年を越えて、契約を更新して広尾に留まるか、他に移転するかを決めるのは、大変難しい課題でした。1996年、蔦田眞實先生が召天され、翌々年にケニアから戻り、第三代主任牧師として任命を受けた小生に、その責任が委ねられました。

・タバナクル(幕屋)委員会:
会堂がどちらの方向に進むにせよ、祈りと積み立てをしながらそれに備えようという目的を持って「タバナクル委員会」が1990年代に作られ、活動が続けられていました。タバナクルとは、テントという意味ですが、越山勧士は「束になって狂う」と自嘲しておられたほど、真剣な祈りと備えがなされていました。
 
3.中目黒への転出(2003−現在)
 
 
・想定を超えた申し出:
「借地権を買いたい」:タバナクル委員会を中心に行われた検討の結果、広尾を出て、新しい場所に進出しようという方向が確認されました。その方向を後押ししたのが、広尾の借地権売却でした。2001年、広尾の借地権を買いたいと言う申し出が幾つかありましたが、約8億円という私たちの想像を超えた申し出は、その決断に踏み切りを与えてくれました。その金額のうち1億円をお寺さんに払わせられたのは痛恨の極みでしたが、それにしても、残りの金額は次のステップへの備えとなりました。

・想定を超えた土地の提供:
2002年1月、広尾の会堂を明け渡し、一時的に御茶ノ水クリスチャンセンターに集会場を移しました。その時点では、次の土地は決定しておりませんでしたが、その1年以上前から必死の土地探しが続いておりました。東京の南であること、200坪以上の土地であること、最寄の駅から徒歩10分以内で坂道のないこと、価格は手持ちの資金を超えないことが条件でした。約30箇所の候補地が挙がり、その都度下見に参りましたが、上記の条件に当て嵌まるものはありませんでした。丁度そのころ、青木工務店の青木茂氏から、M銀行のHさんが上目黒2丁目に217坪の土地を持っているとの情報が寄せられました。HさんはM銀行恵比寿支店の大得意さんであり、社会的に役立つ目的ならば売る可能性はあるが、それ以外の目的ならば売る意志がないというものでした。銀行の仲介でHさんとお会いした時、銀行の方からHさんは銀行で一番の預金高を持っているお得意さんだから、彼を怒らせることが無いようにと注意されました。緊張して会談に臨みました。互いの挨拶の中で面白いことを発見しました。Hさんは野生動物の写真を撮ることが趣味で、二度もケニアに行ったことがあるとのこと、私もケニアに居たということで話が盛り上がり、緊張が解けました。その後例のあの土地を譲ってくださいという本題に入ったのですが、一も二もなく承諾してくださり、現在の素晴らしい土地の入手となったのです。主のみ業の素晴らしさを思います。

・良い設計家と建設会社:
土地の取得以前から、会堂をどのように設計し、誰に依頼するかという課題をタバナクル委員会で検討されました。地域に開かれた会堂にしようというのが基本的コンセプトでした。6人の設計家に構想を依頼し、競争の形を取りました。インタビュウの結果、納賀雄二氏が満票に近い票を獲得して選ばれ、設計と建築監理を担当していただくこととなりました。使いやすく、暖かく、明るい会堂として完成したことを感謝しています。建築についても競争入札の形で行われ、清水建設と青木工務店のジョイントと決まりました。実は、価格から言うと、一番安かったのはK建設であったのですが、種々疑問点があり、選びませんでした。K建設からは抗議の手紙を頂きました。「社運を傾けて見積もりを出したのに、なぜ選ばれなかったか、理由を知らしてもらいたい。」と。私は敢えて理由を知らせませんでした。その一ヵ月後、K建設が倒産したという新聞記事を見て、主のみ助けを頷きました。

・全ての必要が満たされた:
広尾の借地権を売却し、それで土地を購入した残りの額がありましたが、建築のためには更に3億5千万円ほどが必要でした。一時献金の予約が募られ、1億2千万円余りの予約を頂きました。残りについては、1億円ほどが会員からの無利子の融資を頂き、その残り1億2千万円は銀行から融資で賄われました。これについてもストーリーがあります。教団本部と取引の或るOO銀行に融資依頼に行きましたところ、あっさり断られました。そうこうしているうちに、M銀行の方から私たちに訪問してくださり、お金を借りて欲しいとの依頼です。一も二も無く、借りてあげましょうとの話でまとまりました。利率も最低の固定金利で10年間、これ以上の条件は考えられませんでした。主を賛美します。さて、予約をしてくださった方々の献金が始まりました。会堂一時献金は小生が、月定献金と一緒に捧げられるものは会計さんと担当を分けました。私扱いの献金口数は今月現在976口でした。寡婦さんの捧げたレプタ二枚も含めての献金に、心熱くされた10年間でした。主の豊かな祝福を祈ります。

・地域に開かれた教会としての歩み:
新会堂が献堂して、今までと変わったことが幾つかあります。一つは、この会堂特にオアシスホールが地域の様々な活動に用いられ、文字通り地域に開かれた教会となったことです。聖書を読む会、押し花教室、手芸教室、老人のコーラスグループ、そして、JR跡地緑地保存運動など幅広く用いられています。プレイズ・ワーシップも同じ目的から始まりました。主のみ業を感謝いたします。
 
終わりに
 
 
会堂に関わる神の物語をお話しました。多くの人々が、それぞれの時代に、それぞれの立場で全力を尽くして働きました。しかし、私たちはイザヤと共に、「私たちのなすすべてのわざも、あなたが私たちのためにしてくださったのですから。」と神のお働きを認め、謙った心をもって神を心から賛美しましょう。
 
お祈りを致します。