礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2012年12月2日
 
「神の謙り」
クリスマス講壇(1)
 
竿代 照夫 牧師
 
ピリピ人への手紙2章1-11節
 
 
[中心聖句]
 
  6,7   キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。
(ピリピ2章6-7節)


 
聖書テキスト
 
 
1こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、2 私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。3 何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現われ、8ご自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、11 すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。
 
1.謙り給う神
 
 
クリスマスの出来事には私達に訴えかける多くの挑戦が含まれていますが、その内の大切なものは、キリストが自分のライフスタイルを喜んで変えなさった、つまり、神としての栄光の立場を潔く棄てて、卑しい、小さな人間の姿を取りなさったという点にあります。

・低い者を顧み給う:
でも、それはクリスマスの出来事だけに現れたことではなく、聖書全体を貫いている「神の謙り」というテーマに沿っているのです。詩篇の作者は「まことに、主は高くあられるが、低い者を顧みてくださいます。」(詩篇138:6)と、神の偉大さを捉えつつも、同時にその偉大なお方が低いものを顧み給う恵みを感じています。

・共に苦しみ給う:
イザヤも、イスラエルが国難にぶつかった時「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」(イザヤ63:9)と語ります。震災を経た私達も、「日本だけがどうしてこんなに苦しまなければならないか」と言って、神を恨みたくもなるでしょう。これは深刻な問いかけです。簡単に答えの出る問題ではありません。しかし、「共に苦しみ給う神」とは、驚くべき発見です。私たちの悩み、苦しみ、疑問、痛み、空腹、寒さ、家族を失う悲しみ、それらの全てに共感してくださるのが全能の神です。

・悩みを共感し給う:
出3:7−8にも、「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地・・・に、彼らを上らせるためだ。」その時、神は、イスラエルの悩みをご自身の悩みとして受け取りなさったのです。

・苦しみを共に舐め給う:
なぜキリストは人となられたかヘブル書は、人類の苦しみを共に舐めてくださるためであったと言います。「憐み深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。・・・主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」(ヘブル2:17−18)。

・苦しみを背負い給う:
私達と共に苦しんでくださる神の究極的な表現は、キリストの十字架でした。イザヤは言います。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。・・・彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。・・・彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。」(イザヤ53:4、11)これは正に十字架上のキリストの姿です。
 
2.ピリピ教会の問題
 
 
・二人の指導者の対立:
さて、ピリピ書に戻りますが、4章において名指しで二人の指導者の対立を止めなさいと勧告しています。「ユウオデヤに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは、主にあって一致してください。ほんとうに、真の協力者よ。あなたにも頼みます。彼女たちを助けてやってください。」(2節)二人の指導者は、教会創立の頃、福音を広める働きの為にパウロに協力した中心的な人物でした。しかし、時と共に個性の違いによる対立が芽生えてきました。教会員はそれを仲介するよりも、対立を煽る傾向を持っていました。ピリピ教会は全体として愛に満ち、福音の為によく働き、良く祈る教会でした。その点では模範的だったのですが、パウロは問題の芽を早く摘まねばと思ったようです。

・キリストの思いが解決の鍵:
パウロの処方箋はより積極的です。対立を徒に叱るよりも、キリストの思いがどんなものであったかを彼らに想起させることにより、この問題を氷解しようとしたのです。知恵深いですね。ですから、1節に「もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら」といいながら、彼らの中にあるキリストの恵みを思い出させようとしたのです。恵が溢れて来ますと少々の問題は氷解します。逆に恵が乏しくなりますと、小さな問題でも深刻な問題に発展してしまいます。パウロはもっと進んで、「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」と 言って、キリストの思いがピリピ人のものとなるようにと勧めます。ピリピ教会の根本的な問題は、人々が異なった思いを抱き、それに固執していた事でした。その思いへの固執を解く鍵は、キリストの思いに人々の心をむけることでした。「キリストのような心構えでいなさい。」とは何か押しつけがましいような翻訳ですが、元々はフロネオー(思う)と言う言葉から来ています。つまり、キリストの思いを私達の思いとするという内面的な模倣が期待されているのです。
 
3.キリストの模範
 
 
さて、それではキリストの思いとはどの様なものであったでしょうか。

・神のあり方を喜んで捨てる(2:6):
6節には「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」とパウロは記しました。これはクリスマスの時に神が人となられた、受肉の事実を述べているのです。何が捨てられ何が留められたのでしょうか。キリストが神であるというその本質を放棄なさったのではありません。それは不可能なことです。彼が放棄なさったのは、神と等しくあるという特権と栄光です。ここで使われている「あり方」(モルフ)という言葉は、外側の形、現れであって、性質や本質ではありません。その中に含まれるものは、可見的な栄光、やや外見的なものであって、変貌山で主イエスが元々持って居られた栄光の姿に見られるものです。神であるとの本質は変わりようがないが、その栄光を捨去りなさったのです。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで」という言葉は英語では“Who, being in very nature God, did not consider equality with God something to be grasped”となっています。直訳すると、「その本当の性質においては神でありなさったが、神との平等的立場を何かしがみつくべきもの(ギリシャ語では<ハルパグモス>とは考えないで・・・)となります。イメージ的には「野生動物が獲物をしっかり捕まえて、或いは泥棒が獲物を捕まえて何が起きても放すまいとしているような態度ではなく・・・」と言う感じです。私がケニアで飼っていた猫は、普段はおとなしい美人猫ですが、一旦獲物を捕まえると、何が何でも決して放さない頑固な猫に変身するのでした。主キリストの絵はそれと全く対照的なもので、神と等しいと言う光栄と特権をさらりと脱ぎ捨てたのです。私達は何かの物を放せないものと考えがちです。例えば社会的地位、名誉、文化、教育的背景、などなど。それらを放せと言われると、反発してしまいます。しかし、それらをより大きな目的の為に手放すべき時もあります。それを喜んで手放した最高の模範がイエス・キリストです。

・カルチャーショックを甘んじて受ける(2:7):
彼は光の中に住み、いや、光そのものでありました。しかし、喜んで暗い世に住んで下さいました。彼は愛の中に住んでおられました。父と子と御霊の暖かい愛の交流の中に生きておられました。そのお方が、愛の乏しいどころか、憎しみと嫉妬と権謀術数の渦巻くどろどろした世に生きられました。彼は正義のお方です。正義が支配する天において君臨しておられました。しかし、罪が支配する世に降りて下さいました。彼はこの上もない栄光を帯びた方でした。しかし、この上もない恥辱を甘んじて受けねばなりませんでした。彼は全能でした。何でもその言葉によって動かす事のおできになる方でした。しかし今や貧しさや弱さの限界の中に生きておられます。宣教師の直面する第一のハードルは、カルチャー・ショックです。特に便利で清潔で豊かな社会から、不便で汚くて貧しい社会に入るショックと言うものは計り知れません。人間同志ですらショックを感じるとすれば、まして、永遠に居ます主が有限の人間の形を取られる時にはどんなに大きなショックを受けなさったことでしょう。

・自己放棄を継続する(2:8):
キリストの自己放棄は受肉の事実で終わらないで、十字架の死に至るまで続きました。これを図式で表すと
 神の栄光 → 人間 → 僕 → 十字架の死
となります。徹底した謙り、下降線そのものです。彼はこの自己放棄を、歯を食いしばってなさったのではなく、喜びをもってなさったのです。
 
4.自己放棄の結果
 
 
・それは私達と親近感を深めた:
私たちは貧しさ、餓え、孤独、誤解の泥沼に活きています。その上に罪の重荷に縛られています。穴に落ちた人が助けを求めた時、1人の通行人は「何故落ちたのかよく反省しなさい。」と言いました。次の人は、「自力で上って来るように努力しなさい。」と言いました。3番目の人はロープを自分に結わえて降りて来て彼をおぶって上に上りました。キリストの姿は正に第三の道です。

・救い主として完成された(2:9−11):
9−11節に「それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」とあります。何たる栄光、何たる勝利でありましょうか。キリストの謙遜の結果は大いなる救いの完成と言う勝利と神の右の座につくと言う栄光でした。私達にも義の冠が待っていますが、それを取引き条件にして我慢して謙るのではありません。この後の栄光はあくまでも結果であり、謙遜の目的ではありません。
 
5.私たちへのメッセージ
 
 
・自分の立場に固執しない:
このイエスの私達に語るメッセージは、私達が今持っているライフスタイルを必要な時には変えねばならないということです。私達の人生哲学は多かれ少なかれ自己中心的です。この自己中心こそ罪の本質です。私達は多くの便利さを私達は棄てがたいものと固執します。これなしには生きられないと思いがちです。ですから不便な場所での宣教師生活には人気がありません。主のみ心ならばすベて便利ささえも喜んで捨てる用意はあるでしょうか。イエス様でさえも神との等しい位置に固執されないとすれば、まして私達が何物かに固執する事があるでしょうか。

・徹底した自己放棄:
パウロはここで、「謙遜をもって、他の人をも顧み、他の人の利益を考えなさい」と勧めます。それは私達に不可能への挑戦を求めておられるのでしょうか。人から嫌な言葉や態度を示された時どう反応するでしょうか。自分のやり方や願いや意見や好みが否定された時どんな反応をするでしょうか。どのような場合でも、「謙遜を持って、他の人をも顧み、他の人の利益を考える」ことは難しいです。この難しさは聖書翻訳者さえも間接に告白しています。「自分の事『だけ』を顧みず人の事をも・・・」と訳されている訳語についてデニス・キンロー博士は、この「『だけ』は原語にないのに無理に訳者によって挿入されたのは、訳者が「主が私達を利己主義から解放して下さるなどとは信じていない」からだと説明しています。それ程自己放棄は難しいのです。この自己放棄は、キリストと共に自己に死んだという明確な信仰告白とそれに伴う聖めの経験によってのみ可能です。この事が徹底しますと、より大きな目的の為に、あなたの人生哲学、生き方、生活水準、文化、習慣を放棄する主のご要求に対して、「はい主よ、私の全てはあなたのものです、私は全てについて自分を十字架に付けたものです」と告白できるのです。
 
終わりに:キリストの思いを持ったクリスマスを!
 
 
主イエスの模範を学ぶ時に、私達は「イエス様は特別なお方だ。彼の謙遜や自己放棄は、本当に素晴らしいものだ。しかし、私は凡人だ。とてもあんな生き方はできっこない。理想像としてのイエス様は素晴らしいが、それを自分に当てはめるなんて出来ない芸当だ。」しかし、パウロは、人間のそんな弱さを百も承知で、キリストの思いを自分の思いとしなさいと挑戦しているのです。それは主の恵みによって可能ですし、それ以外には不可能です。この祝福に満ちたクリスマスシーズン、クリスマスの真の精神を本当に自分のものとしようではありませんか。
 
お祈りを致します。