礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2012年12月16日
 
「ヨハネの見たクリスマス
―恵みの上に恵みが―」
クリスマス講壇(3)
 
竿代 照夫 牧師
 
ヨハネの福音書1章9-18節
 
 
[中心聖句]
 
  16   私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。
(ヨハネ1章16節)


 
聖書テキスト
 
 
9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。13 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。15 ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。』と私が言ったのは、この方のことです。」16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。17 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。
 
始めに
 
 
世界が揺れ動いている中で今年のクリスマスを迎えようとしています。このような暗い時代であればあるほど、「光として来られた」キリストの恵みを深く感じます。ヨハネ福音書1章は、この世に来られたキリストに関する紹介文です。これを通して、「ヨハネの見たクリスマス」という角度からメッセージをお届けします。この紹介文は、ロゴス(言葉)に関する神学論文のような体裁で、確かにその一面はありますが、私は読めば読むほど、ヨハネの個人的な証しのように思えてきます。それは、この文節の中にある「私たちは」(14、16節)という言い方が、一般的というよりも、ヨハネの経験を物語っている響きがあるからです。
 
A.ヨハネのキリスト体験
 
1.使徒ヨハネ
 
 
・バプテスマのヨハネとは別:
新約聖書には、ヨハネという人物が色々登場してきますが、その一人はキリストの先駆者、通称バプテスマのヨハネです。この1章で言えば、6、15、19節で、キリストの証し人として登場してきます。

・使徒(弟子)ヨハネ:
もう一人のヨハネとは、ヨハネ福音書記者で、イエスの弟子となったヨハネです。1:35にバプテスマのヨハネの二人の弟子が登場し、その内の一人が、アンデレと紹介されていますが(1:40)、もう一人の名前はヨハネ伝を通して伏せられています。しかし、それがヨハネであることは、「愛する弟子」(19:26)という言い方からも明らかです。
 
2.家庭背景
 
 
・父は裕福な漁師ゼベダイ:
使徒ヨハネの家庭背景について、共観福音書は詳しく説明しています。彼は網もちで裕福な漁師ゼベダイの子で、ヤコブの弟です。ヨハネも兄と共に父に仕えながらガリラヤで漁師をしていました。

・母はサロメ:
ヨハネの母は、十字架にまで従った女弟子の一人(マタイ27:55、56)で、財をもってイエスを支えました。マルコ15:40、41には、その名前がサロメと記されています。更に、ヨハネ19:25に記されている「イエスの母の姉妹」はサロメと同一視されています。そうしますと、ヨハネはイエスの従兄弟に当たるわけです。恐らく、お母さんのサロメから、ナザレでヨセフのお嫁さんになるはずのマリヤの「特別な事情」のことを聞いていたことでしょう。「言葉が肉体となった」という14節の記述に、それが現れているのではないかと私は考えます。<家系図参照>

 
3.バプテスマのヨハネの弟子
 
 
・弟子修業:
成長したヨハネは、アンデレと一緒に、これも親戚筋に当たるバプテスマのヨハネの弟子となります。フルタイムでつき従ったのではなく、漁師をしながらの弟子修業であったと思われます。

・「メシヤに出会った」:
ヨハネとアンデレは、バプテスマのヨハネからイエスを紹介されます。もちろん従兄弟であるイエスと面識はあったものと思われますが、公的な活動に入られたイエスとは初の対面です。バプテスマのヨハネから、「これが世の罪を除く神の小羊」と紹介された時、ヨハネとアンデレは早速イエスの宿舎を訪ね、じっくり泊り込んでイエスの人となりを知り、その結果「私たちはメシヤ(キリスト)に出会った」(41節)と告白するのです。それまでもヨハネは、遊び仲間のフツーの人間として接していたのではと思います。その見方が一変したのがこの出来事でした。
 
4.イエスの弟子
 
 
・三人衆のひとり:
12弟子となった後もその中のインナーサークルとしてペテロ、ヤコブと共にイエスといと近く行動しました。特に、12弟子の中でも一番若かったヨハネは「イエスが一番愛しておられて、イエスの右側の席についている」(13:23)のが慣わしでした。

・激しい性格:
ヨハネは、もともと優しい性格の男ではなく、主イエスに「雷の子」(マルコ3:17)というあだ名を兄のヤコブと共につけられたほどでした。実際、イエスの一行がサマリヤ人に無視された時「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」(ルカ9:54)と暴言を吐きました。また、イエスの御国が来た時に上位高官になりたいと言う猟官運動をしたり、極めて野心的な男でもありました。

・十字架と復活の経験:
ヨハネのイエス体験のクライマックスは、十字架と復活でした。キリストの圧倒的な愛に触れ、その復活の事実に触れた時、ヨハネは「人となってくださった神」としてのキリストをしっかりと捉えたのです。
 
5.ヨハネのキリスト観
 
 
ヨハネは、フツーの人間という衣をまとっているイエスの中に、神の栄光の輝きがあったことに気付いたのです。その最高の信仰告白が14節です。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」ヨハネは、人間としてのイエスの中に、神のご性質、溢れるような愛を見ました。「見た」ということばは、(ギリシャ語ではエテイサメタで)「対象の物体から目を離さないでじっと見た」という意味です。イエスから目を離さないでじっと見た時、イエスが人となって下さった神だと感じたのです。
 
B.キリストに現れた神の恵み
 
 
ヨハネが受け取ったキリストからの一番大きな印象は「恵み」です。14、16、17節に「恵み」が4回繰り返されています。そこから、私は恵みの豊かさを、三つの形容詞で捉えました。
 
1.あたたかい恵みvs律法主義(1:17)
 
 
「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」
 
・冷たい律法主義ではなく:
17節に、「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」と記されています。律法は、神の御心を教えてくれる大切な手立てですが、それ自体が私たちを救うわけではありません。むしろ、私たちの弱さを顕わにしてしまいます。

・あたたかく彼を包み、溶かし、変えてくださる恵み:
しかし、キリストに現れた「恵み」は、あたたかいものです。私たちを包み、溶かし、もたげてくださいます。ヨハネ自身、怒りっぽく、審判的で、しかも競争心に満ちた野心家でした。そのヨハネを「愛の使徒」と呼ばれるまでに変えてくださったのは、ヨハネと共に居り、受け入れ、そして十字架の死をもって救ってくださったキリストの大きな愛と恵みでした。恵みとは、「相応しくないもの、また、価値のないものに、無代価で与えられる神の愛の賜物」のことですが、その神の恵みが、キリストによって私達に注がれたのです。馬小屋に生まれたイエスは、価値がない私達に神が素晴らしい贈り物をして下さるよ、というメッセージでした。与える愛に生き続けたイエスのご生涯は、どんなに人々から棄てられるようなものでも、暖かい愛を注いでいるよという雄弁なメッセージでした。人々から馬鹿にされているような税金取り、遊女でさえも、イエスは大切な魂として愛されました。十字架の死は、私達の罪の解決のために、私達の醜さを全部その身に引き受けて死ぬよ、愛するもののためには命をも捨てるよという恵みのメッセージでした。神の恵みのデモンストレーション、それがイエスの誕生、生涯、十字架でした。
 
2.あふれる恵み(1:14)
 
 
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」
 
・普通の人となられた方の中に:
「私達の間に住まわれた」とは、文字通りには「幕屋を張られた」という意味です。永遠の「言葉」であるキリストが、有限の人間と100%同一の姿をもって、しかも、一時的にではなく、生涯を過ごされた、と言うのです。

・栄光と恵みと真理が満ちておられた:
その普通の人間の姿の中にヨハネは、神の「栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」というのです。隠しおおせない、神の輝きが、その品性に満ちており、神の真理を示す光と、神の愛が溢れている恵みに満ちておられた、これは、ヨハネの驚きであり、他の弟子たちの驚きでもありました。
 
3.あらたな恵み(1:16)
 
 
「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」
 
・満ち満ちた豊かさ:
イエス様の中の神のご性質が、「満ち満ちた豊かさ(プレローマ)」という言葉で表されています。「プレローマ」はパウロ的な表現でもあり、エペソ書、コロサイ書などに繰り返されています。たとえば、「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。」(コロサイ2:9)ということばですが、神のすべてのご性質が、キリストのご人格の中に凝縮して込められているのです。

・過去の恵みに勝る豊かな恵みが約束されている:
私たちが受けるその恵みは増加して行きます。それが、「恵みの上に恵み」という言葉で表わされています。「・・・の上に・・・」という言い方は聖書には良くでて来ます。「その義は、信仰に始まり信仰に進ませる」(ローマ1:17)。この句は、「一つの恵みに代えて次の恵みが与えられる」という風に、理解することが出来ます。既に頂き、経験している恵みに留まらないで、より大きな恵みの世界に入る事です。かつての恵を感謝しながら、もっと豊かに受けるのです。先の恵みは素晴らしいものではあっても、それがなかったかの様に、新鮮に恵みを求めたいものです。キリストの豊かさの中にはこれで終わりと言う限界がありません。その愛の広さ深さ高さ大きさは限りがありません。それを極めるのが信仰の冒険です。今年もあと3週間で終わろうとしています。この一年、多くの恵みを頂いて、感謝に満ち溢れている人がおられましょうか。神はもっともっとびっくりするような恵みを来年のために備えておられます。興奮に満ちた期待をもって来年を迎えましょう。今年は、色々な面で落ち込んだ年だったと、がっかりしながら越年する方があるでしょうか。恵みの上に恵みを加え給う主を信じましょう。
 
終わりに:信仰によって恵みを受ける
 
 
神の一方的な恵みは、私達の側での信仰によって心に注がれます。「あなた方は恵みによって、信仰を通して救われたのです」(エペソ2:8)という言葉のように、私達の救いは、徹頭徹尾神の恵みに依存しています。恵みを私達個人のものとして頂く条件は、信仰だけなのです。色々な教えが、信仰に何かを付け加えさせようとしますが、これは福音からの逸脱です。福音は恵みのみ、信仰のみと言うのです。人間は傲慢ですから、自分でも何かが出来るという風に考えて、恵みの原理を薄めてしまおうとします。「恵みを知らないクリスチャン」という本に「福音主義のクリスチャンを悩ましている感情的・霊的トラブルの主要な原因は、神の無条件の恵みを受け損なっていること、そしてその恵みを他の人に与え損なっていることにある」と言われています。さらに、「人間が最後に明け渡さなければならない砦は、自分で自分を救うことが出来ないと言う無力さを認めること」と言います。この弱さに徹すると、恵みが分かってきます。恵みの素晴らしさが実感されます。

「私達はみな」という言い方の中に、特別な人ではなく、すべての人が受けている、受けることが出来るという意味を見て取れます。クリスマスの節季、このキリストの満ち満ちた恵から恵を充分に頂くことが出来ますように。それを多くの方々にお分かちするクリスマスでありますように。
 
お祈りを致します。