礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2012年12月23日
 
「神をあがめ、賛美しながら」
クリスマス講壇(4)
 
竿代 照夫 牧師
 
ルカの福音書2章8-20節
 
 
[中心聖句]
 
  20   羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
(ルカ2章20節)


 
聖書テキスト
 
 
8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。12 あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
15 御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」16 そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。17 それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。18 それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。19 しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。20 羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
 
始めに:ルカの記録の信頼性
 
 
クリスマスおめでとうございます。世界中の眼が、飼葉おけの幼子に集中されるすばらしい時でありますが、この朝は、最初のクリスマスに立ち会った羊飼いに焦点を当てたいと思います。特に彼らが野原に帰るときの心情を記述している20節「羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」の言葉を中心にお話します。彼らは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったと感じました。では御使いの話とは何だったのか、「その通り」とはどんな状況だったのかの二点をお話します。

序ながら、ルカが記したクリスマス物語について一言コメントします。この物語が一見おとぎ話のような内容なので、グリムかアンデルセンの童話のようなものと思っている方があるかもしれません。しかし、1章3−4節を見ると、医者であるルカが綿密なリサーチに基づく正確な事実を記したと述べています。恐らく、56−58年、パウロがカイザリヤで拘留されていた間、同行者であったルカがイエスの母マリヤを始めとする何人かの目撃証人とインタビュウを行なった結果であろうと思われます。さて、本筋に入ります。
 
A.羊飼いの受けた知らせ
 
 
クリスマスの夜、ベツレヘム郊外で羊を守りつつ野宿をしていた羊飼い達に天の使いが現れ、驚くようなメッセージを伝えました。その内容が10―12節です。「今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」

このメッセージに含まれていることは、次の4つです:
 
1.全ての民に及ぶ大きな喜び
 
 
・全イスラエルの待望が成就:
「この民全体のため」とは、第一義的には、イスラエルの民のことです。彼らは、捕囚以来、そこから帰ってきた後も民族的には厳しい試練の中を通っていました。バビロン帝国の後にはペルシャ、その後ではギリシャ、そしてローマ帝国が興り、そのローマ帝国の属国として圧制の下で苦しんでいました。何回も独立運動が起きましたが、その度に鎮圧されました。そのような苦しみにある民の希望となったのがメシア預言でした。後述しますが、その預言が今や成就しようとしていたのです。

・全世界に齎される喜び:
メシアの到来は、イスラエルだけではなく、全世界に及ぶ喜びの知らせとなるはずでした。
 
2.キリストの誕生
 
 
・メシアとは「油注がれたもの」(ギリシャ語ではキリスト):
メシアとはヘブル語で「油注がれたもの」(ギリシャ語ではキリスト)を意味します。イスラエルにおいて、油を注がれる三つの大切な務めがありました。一つは王、もう一つは祭司、もう一つは預言者でした。この三つの職を兼ね備えた「救い主」が旧約聖書で預言されているメシアです。その到来を待ち望む雰囲気が盛り上がっていたことがルカ伝1−2章のザカリヤ、シメオン、アンナなどのエピソードから見て取ることが出来ます。

・(ダビデの出身地)ベツレヘムの羊飼いのメシア待望眠る:
クリスマス物語を読む人々の第一の疑問は、何故、救い主の誕生と言うような大切な知らせが、名もない貧しい羊飼い達に知らされたのだろうか、ということでしょう。私も明確な答えを持っている訳ではありませんが、言えることは、神のなさることに偶然と言うことはないということです。恐らく、この羊飼い達も、その頃一般的であったメシア待望を抱いていたと思われます。特にベツレヘムの羊飼いは普通の羊飼いではなく、エルサレムに生贄として捧げられる筈の羊達の見張りをしていた、それ故に、特別に宗教的な関心があったとも考えられます。また、ベツレヘムというのは、千年前にイスラエル王となったダビデの出身地であり、そのダビデが少年時代に羊飼いだった同じ場所だった、ということも彼らのメシア願望を解く鍵でありましょう。
 
3.誕生は「今日、ダビデの町で」
 
 
・将来ではなく「今日」:
そのメシアが今日誕生した、というのが天使のメッセージでした。近いうちに来るというのでもなく、いずれでもなく、今日誕生した、というのが天使の告知内容でした。

・他の場所ではなくベツレヘム:
「ダビデの町」と場所まで指定されていました。千年前王様となったダビデの出身地、つまり、ベツレヘムがメシアの誕生地です。何故でしょう。これは、預言者ミカに預言されていました。「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者(牧者)になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」(ミカ5:2)イスラエルにおける本当の羊飼い(メシア)は、ベツレヘムで生まれるべきだったのです。これは聖書学者だけの知識ではなく、一般大衆の間にも知られていた預言でした(ヨハネ7:42)。ですから、「ダビデの町」での誕生と言う告知には大きな意味があったのです。
 
4.みどりごは飼葉桶に眠る
 
 
・飼葉桶とは:
洞窟の動物小屋の壁に掘り込まれた餌台=救い主は「飼葉桶で寝かされている」というメッセージは7、12、16の各節で述べられていますから、大切なポイントであることが分かります。日本語訳では桶と書いてありますから、木で出来た長方形の籠のようなものを想像する人が多いようです。多くのクリスマスカードでも、クリスマス劇でも、そんな桶が登場します。しかし、私が調べた聖書辞典は、どれも、そのようなかごや桶ではなくて、宿屋に付属した洞窟が動物小屋として使われ、その洞窟の一部を更に掘り込んだものがロバの餌台として使われていた、と説明しています。私もそう思います。宿屋付属の動物小屋とは、当時自家用車のように使われていた驢馬のためのもので、屋根があり、飼い葉桶も飼い葉も用意されていたようです。

・飼葉桶に眠るみどりご:
見つけるための「しるし」=「飼葉おけに眠るみどりご」とは、実利的には、羊飼い達がキリストを見つける手がかりを与えるためでした。これから拝みに行こうとも、番地があるわけではないし、どう探したら良いのか、それこそ途方に暮れてしまったに違いありません。ベツレヘムは小さな町ではありましたが、それでもその日は大勢の旅行客で溢れていたし、生まれたばかりの子供も何人かはいたに相違ありません。そこで救い主を見付けるヒントが必要だったのです。「しるし」というギリシャ語はセーメイオンです。普通でない事柄で、特徴をもった目立つ行為、出来事、状況を指すことばです。幼子として生まれたキリストを見つけるのに骨を折る必要はありません。「布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりご」を探して歩けば良い、というわけなのです。飼い葉桶は家畜の餌を入れるためであって、赤ちゃんを寝かせる為には出来ていない。その異常さをヒントに、動物小屋を探して歩けば見付かるだろう、ということなのです。
 
B.御使いの話のとおり
 
1.行った
 
 
・直ちに行動した:
羊飼い達は、天使たちが去った後、直ぐに話し合いました。当然のことながら全員の意見は直ぐ一致しました。「さあ、ベツレヘムに行こう。そしてこの出来事を見て来よう。」これは単なる野次馬根性ではありません。神の真実さを確認したかったからです。羊はどうしたのでしょうか。みんな連れて行くには大変ですし、ただ置いておけば野獣にやられてしまいます。私の想像では、一人または二人を留守番としておいたままの出発だったと思います。

・みどりごを捜し当てた:
先ほど話しましたように、彼らは町に入って彼らは動物小屋を一件ずつあたりました。そこに赤ちゃんがいないかどうかを確かめれば良かった訳です。恐らく、何時間も経たないうちに、彼らは、「ここだ!」と見つけることが出来たのでしょう。
 
2.見た
 
 
・知らせを人々に告げた:
たどり着いた動物小屋には、ヨセフとマリヤがいました。恐らく、大勢の羊飼いが移動している間に、話を聞きつけた近所の人々も何事かと小屋を訪れたことでしょう。その人々に、羊飼い達は、自分達の見たこと聞いたことを身振り手振りを交えて物語りました。感動した聞いた人もいれば、そんな馬鹿なという冷ややかな態度で聞いた人もいました。マリヤの態度は突出していました。周りが色々な反応を示した中で、静かに何も言わずに心に納めながら物思いにふけっているようすでした。

・知らせの通りであることを確認した:
羊飼い達は、一つ一つを確認していました。このみどりごが今日ここで生まれたこと、飼葉桶に寝かされていたこと、マリヤの態度が気品に満ちたものであったこと、それらはみな天使達の告知の通りだったこと、だから、誰が何と言おうとも、ここに眠る嬰児はメシアなのだと確信しました。
 
3.喜んだ
 
 
・真実であり給う神を崇めた:
長い間の約束を今果たしてくださった神は真実なお方だ、その畏れに似た感動が彼らを包みました。

・その神を賛美しつつ帰った:
その感動は賛美となりました。恐らく、ダビデが歌ったであろう詩篇の一節を一斉に力強く歌いながら、夜道を野原に向って帰っていきました。その感動は、何年経っても消えないほどでした。
 
おわりに:生涯のすべてを「御言の成就」と捉えられないだろうか?
 
 
この一年、「見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだった」と頷けることは無かったでしょうか。私に取って、細かい出来事の全部がその通りと言えないにしても、大切なポイントにおいては本当にその通りだと頷ける一年であったことを心から感謝します。主を心から崇め、賛美しながら家路に着きたいものです。
 
お祈りを致します。